第3章
夢小説設定
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書類に目を落としたまま、ペンを走らせていた。
──ふと、空気が変わる。
甘さのない、けれど柔らかい匂い。鼻先が、勝手にそれを拾った。
……あぁ。
思考より先に、記憶が引きずり出される。
あの時の。秋口。乾燥し始めた頃。
ユニが「取りすぎちゃったので」と勝手に俺の手を取って、塗り込んできたやつだ。
視線を上げると、机の端に紅茶を置こうとするユニがいる。
距離は、近い。いつも通りだ。
……だが匂いが、ほんの少し、遠い。去年より。
去年はもう一歩分、近かった気がする。
いや。気のせいか。
ユニが動き、書類から離れる。
その背を無意識に目で追ってから、自分で気づく。
──俺は、距離を測っている。
引き出しの奥に、未だ仕舞われたままの小瓶がある。
使っていない。開けてもいない。だが、捨ててもいない。
去年は、あれを塗った匂いがもっと近くにあった。
机に身を乗り出した時。書類を差し出された時。無意識に、呼吸が重なる距離で。
今は──近いが、重ならない。
視界には入っている。位置も、問題ない。だが、踏み込んでこない。
……いや。
踏み込ませていないのは、俺の方か。
自覚して、眉間に皺が寄る。
──犬か、俺は。
匂いの距離で、去年と比べるなんて。馬鹿らしい。
ペンを走らせ直す。
だが、思考は完全には戻らない。
傍から見れば、何も変わっていない。
変わらず、近くにいる。
変わらず、視界に収めている。
それでも、確かに何かが、"半歩分"ずれている。
それがユニの変化なのか。それとも──俺の、抑制の結果なのか。
分からない。分からないまま、紅茶の湯気だけが静かに立ち上っていた。
……くだらねぇ。
そう思いながらも、鼻先に残った匂いが消えるまでに、少しだけ時間がかかった。
───────────────
廊下は、いつもと同じだった。
人の行き交う音。革靴の規則正しい足音。遠くで誰かが呼ぶ声。
私は、少し後ろを歩いている。
ほんの半歩。意識しなければ分からない程度。
前を歩く背中は、変わらない。歩幅も、速度も。
(……あ。)
そこで、気づいた。
今日は、無意識に距離を詰めていない。
いつもなら、気づけば隣か、少なくとも肩が触れる位置にいたはずなのに。
歩幅を合わせる事も、位置を探る事もしていない。
わざと、じゃない。避けているわけでもない。
ただ──やめた。
「……。」
胸の奥が、少しだけ静かだ。
不安は、ない。寂しさも、ないわけじゃないけれど。
それよりも、確かめている感覚に近い。
(私は、ここに立っていられる。)
近くにいなくても。触れなくても。
前を行く背中が、視界に入っているだけで。
昨日まで当たり前だと思っていた事を、ひとつ、手放しただけ。
それだけなのに、世界は何も変わらない。
リヴァイ兵士長は、振り返らない。
こちらを確認する気配も、ない。
……それでいい。
少なくとも今の私は、そう思っている。
私は、足を止めない。
距離を測るのを、今日はやめた。