第3章
夢小説設定
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執務室に、湿った風が流れ込んできた。
空の色が、いつの間にか変わっている。遠くで、低い音。
……来るな。
そう思った瞬間、雨が落ちてきた。窓を叩く音が、一気に強くなる。夕立だ。
俺は立ち上がり、窓に近づく。閉めるために、手を伸ばして──下を見る。
中庭。白いものが、動いた。
「えっ──」
聞き覚えのある声。
「うわっ……!」
走っている。書類を抱えて。ユニだ。
雨は、もう本降りだった。逃げ場を探すように視線を走らせて、すぐに軒下に飛び込む。
……遅い。
肩から下が、完全に濡れている。白いブラウスが、水を含んで──思考が、止まりかける。
──行くな。
胸の奥で、何かが叫ぶ。
去年と、同じだ。同じ状況。同じ判断。
だが……俺は、動かない。
窓枠にかけた手に、力が入る。ミシ、と小さく音がした。
……止めろ。
今、動いたら──また、越える。
下ではユニが、濡れた書類を確認している。
「……少し、濡れちゃった……。」
自分の事じゃない。書類が、だ。
相変わらずだ。
その様子を見て、さらに胸がざわつく。
クソ。
視界の端で、人影が動いた。
ナナバだ。
状況を一瞬で理解したらしい。
ユニの前に立ち、自分のマントを広げる。
「……ほら、これ使いな。」
ユニが驚いたように顔を上げる。
「え……ナナバ?」
「いいから。風、冷える。」
……余計な事を。
そう思ったはずなのに、安堵が先に来た。
俺は、深く息を吸う。そして──窓から、声を落とす。
「ユニ。」
雨音に混じっても、はっきり通る声。
ユニが顔を上げる。
「……湯を浴びて、着替えてから持ってこい。」
それだけだ。感情は、乗せない。
「書類は、後でいい。」
一拍。
「……分かりました。」
素直な返事。
それを確認して、俺は窓を閉める。
ガラスの向こうで、雨音が鈍くなった。
背を向け、机に戻る。
……動かなかった。
それが正しい判断だったのか。分からない。
ただひとつ確かなのは──窓の向こうにいたあの姿から目を離すのに、いつもより時間がかかった事。
そして行かなかった自分に、妙な疲労が残っている事だけだった。
俺はペンを取り、何事もなかったように書類に向き直る。
……これでいい。
そう、言い聞かせながら。
───────────────
湯気が、視界を白くする。
シャワーの音が、一定のリズムで耳に落ちてくる。
髪から伝って、首、背中、肩へと流れるお湯。
冷えていた体が、ようやくゆっくりと解けていく。……はずなのに。
(さっき……、)
ふと、手が止まった。
雨音。軒下。濡れた書類を抱えたまま、見上げた窓。
(……来なかったな。)
去年なら──考えるより先に、リヴァイ兵士長の姿があった。
勢いよく駆けてきて、何も言わずに、上着を被せられて。
びしょ濡れになった私より先に、「風邪をひく」と眉をひそめて。
──あれが、当たり前だと思っていた。
けれど、今日は違った。
窓は、開いていた。確かに、視線も感じた。
それなのに、リヴァイ兵士長は降りてこなかった。
名前も、呼ばれなかった。
代わりに聞こえたのは、少し遅れての、短い声。
『湯を浴びて、着替えてから持ってこい。』
それだけ。それ以上は、何も。
(……私が、平気そうだったから?)
自分に問いかけて、でも、答えは出ない。
去年より、私は慌てていなかった。
転びもしなかったし、声も上げなかった。
それを見て「大丈夫だ」と判断しただけ──なのかもしれない。
それなら、おかしくはない。
上官としては、むしろ正しい。
……なのに胸の奥に、小さく、冷たいものが残る。
寂しい、とまでは言えない。
けれど──
(来ない、っていう選択もあるんだ。)
そう、初めて知った。
シャワーを止める。
水音が消えた途端、静けさがはっきりと戻ってくる。
濡れた前髪を押さえ、小さく息を吐いた。
これは、良い変化なのかもしれない。
リヴァイ兵士長が、踏みとどまったという事。距離を、守ったという事。
……でも。
去年の自分なら、何も思わなかったはずだ。
「来なくて当然」と、片付けていた。
今は──
(……少し、残念だと思った。)
その事実を、否定しなかった自分に気づいて。
私はタオルを肩に掛けながら、小さく目を伏せた。
あとで……ノートに、書いておこう。
今日の雨の事。リヴァイ兵士長が、来なかった事。それを、どう感じたか──
まだ、答えは出さなくていい。
ただ「来なかった」という出来事が、ちゃんと心に残ったという事実だけを。忘れないように。
◇
並んで歩く。
いつもの廊下。いつもの時間帯。
靴音の間隔も、歩幅も、特別変わったところはない──はずだった。
「……っ、くしゅ。」
小さなくしゃみ。
思考より先に、口が動く。
「昨日……冷えたか。」
「そうかもしれません。」
素直な返事。取り繕いのない声。
「……無理をするな。」
「はい。」
短いやり取り。それで終わるはずだった。
だが一歩進んでから、ふと、引っかかる。
……近すぎないか?
いや──逆だ。
ほんの僅かだが、距離がある。
意識しなければ気づかない程度。肩ひとつ分にも満たない。
(……いつも、この位置だったか。)
歩きながら、視界の端でユニを捉える。
姿勢はいつも通りだ。動きも、癖も変わらない。
無理をしている様子もない。体調が悪そうにも見えない。
……なら、気のせい、か。
そう結論づけて、視線を前に戻す。
だが、胸の奥に残る感覚は消えなかった。
距離を取られた、というほどではない。拒まれたわけでもない。
ただ──「合わせられた」気がした。
俺の踏みとどまりに。昨日の、窓の向こう側に。
理由を探すほどのことじゃない。問いただすような話でもない。それでも。
歩きながら無意識に半歩詰めかけて──すぐに、やめた。
……クソ。
俺は何を気にしている。
廊下の空気は、昨日と同じ温度だ。
それなのに胸の内だけが、微妙に噛み合っていなかった。
「……。」
何も言わず、歩き続ける。
この違和感に名前をつけるのは──まだ、早い。