第3章
夢小説設定
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事故の翌日。
特別な指示も、特別な配置もない。ただの、いつも通りの業務。
……のはずだった。
俺は歩きながら、無意識に地面を見る。
昨日と同じ中庭。日陰。踏み固められた雪の名残。乾ききっていない石畳。
──凍ってはいない。
確認してから、ようやく視線を上げる。
ユニは、少し前を歩いている。歩幅は、いつもと同じ。
問題は、ない。ないはずだ。
「今日は日も出ていて、暖かいですね。」
不意に、そう言われる。
振り向くと、ユニがこちらを見ていた。
特別な表情じゃない。いつも通りだ。
「……そうだな。」
短く返す。
それだけの会話。
なのに、視線を外すまでにほんの一瞬、余計な時間がかかる。
──近づくな。
そう思っているのに、位置はいつの間にか半歩分、近い。
昨日より。いや、昨日"以降"だ。
足元を見る回数が増えている。天候を気にしている。ユニの歩調を、横目で追っている。
どれも、指示を出すほどじゃない。口にするほどでもない。
だから余計に、自覚が遅れる。
……過剰だ。
昨日のは、事故だ。誰にでも起こり得る。理屈では、そう結論づけている。
それなのにあの一瞬が、頭から離れない。
滑る感触。掴まれた腕。体重が預けられた感覚。
──近すぎた。
思い出すだけで、無駄に距離を詰めそうになる。だから意識して、離す。
だが同時に、視界からは外さない。
……どっちだ。
守るのか。抑えるのか。判断が、鈍っている。
いや。鈍ったんじゃない。
"慣れ始めている"。それが一番、気に入らない。
事故のあとも、世界は何も変わっていない。
ユニも、変わらない。仕事も、配置も、距離感も。
──変わったのは、俺の中だけだ。
その事実に、苛立ちを覚える。
俺は歩く速度を、ほんの僅かに落とす。
追いつかせるためじゃない。ただ、位置を調整するためだ。
無意識でやりかけて、舌打ちを飲み込む。
……クソ。
何も起きていない。
それなのに"起きたあと"の自分が、一番厄介だった。
ユニは、気づいていない。
いや──気づきかけて、やめているのかもしれない。
どちらにせよ今は、何も言わない。言えば、線を越える。
越えないために俺は今日も、いつもより少しだけ慎重に歩いている。
それが、自分でも分かるのが──ひどく、腹立たしかった。
──────────────
特別な事は、何も起きなかった。
天候は安定している。雪はほとんど溶け、中庭の白は、日陰に名残を留める程度だ。
業務も、いつも通り。
報告書を運び、指示を受け、次の仕事へ移る。
——ただ、それだけの一日。
なのに……歩くたび、無意識に足元を確かめている自分に気づいた。
昨日のせいだろう。そう思って、気にしない事にする。
リヴァイ兵士長は、いつもと変わらない。
声の調子も、距離も、指示の簡潔さも。
……ほんの少し、視線が地面をなぞる回数が多い気がしたけれど。
それも気のせいだろうと、深く考えない事にした。
考え始めたら、また余計なことを拾ってしまいそうだったから。
◇
夜。
部屋に戻り、机に向かう。
ノートを開く。
昨日のページは、すでに文字で埋まっている。
事実。状況。その時の自分の反応。感情は、後回し。
今日は、今日の分を書く。
昼間の出来事を、簡単に箇条書きにしていく。
・業務は滞りなく終了
・足元に注意する意識が続いている
・特に問題なし
ペン先が止まる。
視線が、少し上に戻る。
昨日書いた行が、目に入った。
「離れた後、寂しいと思った」
……。
もう一度、その一文を読む。
書いた時は、ただ事実として記しただけだった。
評価も、理由付けもしていない。
けれどその下に、さらに続く記述がある。
「以前抱きしめられた時は、すぐには離されなかった」
そこで、胸の奥が僅かに揺れた。
昨日は、すぐに離された。必要な確認だけして、距離を取られた。
あれは、正しい対応だ。
上官として、兵士として。
なのに"すぐに離された"という事実と、"寂しいと思った"という感情が、並んで書かれている。
消されずに、残っている。
私はしばらくそのページを見つめてから、新しい行を足した。
「今日は、特に何も起きていない。それでも、昨日の事を思い出した」
ペンを置き、深く息を吐く。
関係は、何も変わっていない。
距離も、立場も、言葉も。
けれど「何も起きていない日」に、昨日の出来事が、こうして残る。
それ自体が、少しだけ──今までとは、違っている気がした。
ノートを閉じる。
今日は、それ以上書かない。
分からないものは、分からないままでいい。
ただ昨日の事故が、私の中ではもう"昨日"で終わらない。
その事だけは、はっきりしていた。
◇
休日。
外は静かで、兵舎もどこか緩んだ空気をしている。
机の上に、ノートと書き出した紙を広げた。
今日は新しく書くというより──まとめる日だ。
時系列は、もう追わない。
出来事を、感情を、ただ、並べ直す。
紙の端に、短く見出しを書く。
・不安
・安心
・違和感
・嬉しかった事
・引っかかった事
その中に、昨日の夜に書いた行がある。
──寂しいと思った。
ペンが、そこで止まった。
文字を、じっと見る。
消したいとは、思わない。
言い訳も、修正も、必要だと感じない。
私は、静かに続きを書いた。
──寂しいと思った。
──でも、それを「おかしい」とは思わなかった。
書きながら、ふと思う。
前の私なら、ここで線を引いていた。
「気のせいだ」「勘違いだ」「上官だからだ」
そうやって感情を分類して、危険そうなものから切り離していた。
けれど今は──切り分けようとしていない。否定もしていない。
ただそう感じた事実として、ここに置いている。
ペン先が、少しだけ震える。
私は深呼吸して、もう一行書き足した。
──私はもう、「切り分ける側」じゃない。
書き終えてから少しの間、何もせずに座っていた。
怖さは、ある。でも、混乱はない。
少なくとも自分がどこに立っているのかは、分かる。
ノートを閉じる。
窓の外は、穏やかな昼の光。
私は立ち上がって、紙を揃えた。
……大丈夫。答えを急がなくても。
今はちゃんと、ここまで来ている。
そう思えた。