第3章
夢小説設定
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昨日の大寒波の名残で、本部の中庭には薄く雪が残っていた。
屋根の縁には氷柱。踏み固められていない場所は、陽に照らされて鈍く光っている。
今日は晴れている。昨日ほどの寒さでもない。
──油断する条件が、揃っている。
「寒いのは嫌ですけど、雪景色を見られるのは、いいですね。」
いつも通りの声。いつも通りの歩幅。
隣を歩くユニを視界の端に入れたまま、地面の状態を確認する。
……凍ってる。
次に置かれるはずの位置。踏み跡のない、薄く張った氷。
「──」
声を出すより早くユニの足が、そこに乗った。
瞬間。滑る。体が、前に流れる。
ユニは声を上げなかった。
ただ、短く息を飲んで──反射で、俺の腕を掴む。
遅れて、俺も動いた。
腕を伸ばし、体を引き寄せる。だが、距離が近すぎた。勢いが、強すぎた。
ゴッ──
鈍い音。
ユニの頭と、俺の顎がぶつかる。
一瞬、視界が揺れた。
次の瞬間には、ユニの体を半ば抱き込む形で、止まっていた。
……近い。近すぎる。
「……っ、ご……ごめんなさい……!」
ユニは頭を押さえ、眉を寄せている。痛みは、向こうの方が強いはずだ。
だが──顎の痛みなんて、どうでもよかった。
腕の中にある体温。間近で感じる息遣い。
思考が、完全に遅れる。
……離せ。
分かっている。
だが手が──すぐに動かない。
「……怪我は。」
ようやく、それだけを言う。
「だ、大丈夫です……!ちょっと、びっくりしただけで……。」
本当かどうか、信用はしない。
頭をぶつけている。念のため、確認する必要がある。
……分かっている。
分かっている、はずなのに。近すぎる。
視線を合わせないように、意識的に、少しだけ体を引く。
腕を、ほどく。
「……足元、見ろ。」
絞り出した声は、自分でも驚くほど低かった。
「すみません……。」
ユニは、素直に頷く。
──違う。
謝るのは、俺だ。
気づいていた。分かっていた。それでも、間に合わなかった。
ただの転倒事故だ。誰にとっても。だが俺にとっては──
一歩遅れたら終わっていた。そういう類の出来事だった。
ユニが何事もなかったように歩き出すのを、無言で、半歩後ろから見送る。
視界に入れる位置を、ほんの少し、修正する。
……クソ。
今のは、危なかった。
理由は説明できる。氷、油断、反射。
だが胸の奥に残るこのざわつきは、どんな理屈でも片付かない。
──だから、これは事故じゃない。
俺にとっては、事件だ。
そう、結論づけるしかなかった。
───────────────
足裏の感覚が、ふっと消えた。
あ──
そう思った瞬間だった。
地面が、するりと逃げる。重心が前に流れ、視界が傾き、身体が、宙に浮いたみたいになる。
声は、出なかった。ただ短く息を飲んで、反射的に──隣にあった腕を、掴む。
次の瞬間。強い力で、引き寄せられた。
視界が近づき、息を吸う間もなく──
ゴッ──
鈍い音と同時に、額に、衝撃が走る。
「……っ!」
視界が一瞬、白く弾けた。
痛い。じん、と響く。
立っていられないほどじゃない。けれど油断したら膝が折れそうな──そんな種類の痛み。
気づけば、半分抱き込まれるみたいな形で、止まっていた。
近い。近すぎる。鼻先に、よく知っている匂いがする。
革と、布と、それから──リヴァイ兵士長、そのものの匂い。
頭が、追いつかない。痛みだけが、先にある。理解が、遅れてくる。
「……っ、ご……ごめんなさい……っ!」
絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
額を押さえる。ズキズキする。
でも、それよりも。
──あっ……たか……!
腕の中が、やけに心地いい。
さっきまでの寒さが、どこかに消えている。
「……怪我は。」
低い声。すぐ近く。
「……っだ、大丈夫です……!ちょっと、びっくりしただけで……。」
本当は、ちょっと痛い。でも、言うほどじゃない。
そう思って、答えた。その直後。
すっと、距離が開く。腕が、ほどかれる。離れる。体温が、匂いが、一気に遠ざかる。
……あ。
胸の奥が、きゅっとする。
……なんで?
「……足元、見ろ。」
低い声。
「すみません……。」
頷いて、一歩踏み出す。今度は、ちゃんと確かめてから。
歩き出しても、背中が少しだけ熱い。
さっきまですぐ後ろにあった気配が、半歩遠い。
それが、妙にはっきり分かる。
──ただの転びかけ。
──ただの事故。
そう、分かっている。
でも、あの一瞬──
掴まれた腕。引き寄せられた力。近すぎた距離。それから離れた時の、この感覚。
……これは。
◇
夜。
机の上のランプだけを灯して、ノートを開いた。
今日は、書く前に少しだけ迷った。あの出来事は──整理するには、まだ熱が残っている気がしたから。
けれどいつも通りにやろうと決めて、まずは事実から書く。
・中庭の地面が凍っていた
・気づかずに足を置き、滑った
・転びかけた
・リヴァイ兵士長が咄嗟に支えてくれた
・その時、頭をぶつけた
・とても痛かった
ここまで書いて、一度、ペンが止まる。
痛かった、は事実だ。本当に。
次の行に少しだけ間を空けて、続ける。
・腕の中は、暖かかった
……事実、ではある。けれど、これはもう感覚だ。
少し考えてから、さらに書き足す。
・すぐに、離された
そこでまた、ペンが止まった。
胸の奥に残る感覚を、どう書けばいいのか分からない。
けれど書かないと整理できない事は、もう分かっている。
意を決して、行を変える。
・離れたあと、少し寂しいと思った
……やっぱり、そうだった。
自分で書いて、自分で確認して、小さく息を吐く。
その瞬間、不意に別の記憶が重なった。
──以前。
距離を取られていた頃。
勇気を出して近づいて、泣いてしまって。
あの時リヴァイ兵士長は──すぐには離さなかった。
今日とは、違う。
今日の腕は、支えるための腕だった。
必要な分だけ。それ以上は、なかった。
ノートの余白に、小さく書き足す。
・前に抱きしめられた時は、すぐには離されなかった
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
けれど、同じ人の腕なのに、同じ温度なのに、感じ方が、違う。
私はペンを置き、ページを閉じた。
……今日のところは、ここまででいい。
答えは、急がなくていい。
でも──
「引っかかった」という事実だけは、ちゃんと、ここに残しておこう。
そう思いながら、ノートを静かに引き出しにしまった。