第1章
夢小説設定
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扉の向こうは、思っていたよりも騒がしかった。
人の声。金属音。行き交う足音。
調査兵団の拠点は、静けさよりも動きで満ちている。
中へ足を踏み入れた、その瞬間。
「……あれ?」
軽い声が、横から飛んだ。振り向いた人物が、私を見て目を細める。探るようでもあり、どこか楽しんでいるようにも見える。
私は何か言うべきか迷い、息を吸いかけて──
「……来たな。」
低い声が、被せた。空気が、はっきりと変わる。
リヴァイ兵士長が、少し離れた位置に立っている。こちらを見る目は淡々としているのに、逸らせない。
傍らに立つ誰かはその様子を一瞬だけ眺め、意味ありげに口角を上げた。
「ふーん。」
その声は、からりとしている。
「……あっち行ってろ。」
リヴァイ兵士長が、その人に向けてそう言った。命令でもなく、拒絶でもなく。乱暴なのに、どこか慣れた言い方。その人は肩をすくめて、くるりと背を向ける。
「はいはい。相変わらずだね、リヴァイ。」
軽く手を振って、そのまま人の流れに紛れていった。
私はほんの一瞬、立ち尽くす。
リヴァイ兵士長が誰かとあんな風に話すのを見たのは初めてだった。エルヴィン団長の前で見せる顔とも、違う。
それだけの事なのに、視線を切るのが少し遅れた。
「あとは俺がやる。」
リヴァイ兵士長の言葉に、伝令役の兵士は短く頷き、その場を離れた。足音が遠ざかる。
残ったのは、私とリヴァイ兵士長だけだ。彼は一度だけ、私を見下ろす。
「準備は済んでるな。」
「……はい。」
「なら、来い。」
それだけ言って、歩き出す。私は慌ててその背中を追った。
さっきまで耳に入っていた雑音が、少しずつ遠のく。代わりに、足音と、鼓動だけがはっきりする。
ここまで来たという事実だけが、静かに胸の中に落ちていった。
足を止めたのは、リヴァイ兵士長の方だった。
通路の端。人の流れから、わずかに外れた場所。
彼は一度だけ、足を止める。私は、その少し後ろで止まった。
何か言われると思っていた。確認か、指示か、あるいは──叱責。
けれど、すぐには何も来ない。
金属が触れ合う音。遠くで誰かが名前を呼ぶ声。兵舎の中の気配だけが、間を埋めていく。沈黙は短いはずなのに、妙に長い。私が息をする音まで聞こえてしまいそうで、無意識に、背筋が伸びる。
──見られている。
そう感じて、気づく。
リヴァイ兵士長が、こちらを見ていた。
真正面ではない。振り返り切らないまま、横目で。
視線が合った、というより、確かめられた、という感覚に近い。
逃げていないか。誤魔化していないか。ここに立っているか。
その確認が終わるまで彼は、何も言わない。
一拍。
「……要らねぇ感情は、置いてきたみてぇだな。」
低く、短い一言。それだけ言って、リヴァイ兵士長は前を向いた。もう、こちらを見ない。
私は、すぐには動けなかった。
褒められたのか、試されたのか、それともただの事実か──判断がつかなかった。
分からないまま、数歩、遅れて歩き出す。
しばらくしてから──
胸の奥に、じんわりと熱が広がった。
はっきりした喜びじゃない。声に出せるほどの自信でもない。
ただ、乾いた場所に水が染みていくみたいに。
静かに、確かに。
──突き放す言葉じゃなかった。
そう理解した時、私はようやく息を吐いた。
その背中は、もう振り返らない。
けれど不思議と、置いていかれた感じはしなかった。
ここから先は、戻れない。
それでも──前に進める気がした。
廊下の突き当たりに、窓があった。外の光が差し込んで、石床に細い影を落としている。
その向こうで、金属音が断続的に響いている。
立体機動装置。
視線を向けると、訓練場の一部が見える。
兵士たちがワイヤーを射出し、建物の壁を蹴り、空を切る。
今度は私が、無意識に足を止めていた。
空を──飛んでいる。
あれほど遠かった光景が、今はすぐそこにある。ガラス一枚を隔てただけの距離なのに、胸の奥が少しだけざわついた。
憧れ、というほど綺麗な感情じゃない。怖さもあるし、現実味もある。
それでも。
リヴァイ兵士長は、私が止まったことにすぐ気づいた。だが振り返らない。数歩先で、ただ立っている。
急かさない。待つ、でもない。
──置いていかない。
窓の外で、誰かが着地に失敗し、地面を転がった。すぐに立ち上がり、次の射出準備に入る。
私は、思わず拳を握っていた。
逃げたいわけじゃない。ただ、まだ、実感が追いつかない。
「……。」
声に出すほどの言葉は、何もなかった。
静かに、低い声が落ちる。
「見るなら、今だけだ。」
咎める調子じゃない。許可でもない。事実を、そのまま置いただけの声。
私はもう一度だけ、窓の外を見る。風を切る音、軌道、空の高さ。
胸の奥で、何かが静かに定まる。
──逃げない。
それだけを確認して、私は視線を戻した。
リヴァイ兵士長は、もう歩き出している。私は遅れない。足音を合わせて、その背中についていく。
窓の外の光は、すぐに見えなくなった。けれど、胸の奥に残ったあたたかさだけは、消えなかった。
数歩、進んだあとだった。
足音がふっと重なる距離で、リヴァイ兵士長がわずかに歩調を落とす。
振り返らない。窓の方も見ない。
ただ、前を向いたまま。
「……迷いまでは、消えてねぇか。」
低く、確かめるような声。否定でも、評価でもない。責める響きもない。
事実を、見抜いたまま置く言い方。
一瞬、意味を掴みきれず、胸が跳ねた。
──迷い。
その言葉が、少し遅れて内側に落ちてくる。
不安。自信のなさ。踏み出したはずなのに、まだ確信しきれない感覚。
ずっと抱えてきたもの。
それを、否定されなかった。切り捨てられもしなかった。
迷いがある事も、それでもここに立っている事も、まとめて、そのまま置かれた。
──それでいい。
そう言われた気がして、胸の奥がじわりと温かくなる。
乾いた土に水が染みていくみたいに、静かに、ゆっくりと。
嬉しい、と気づくまでにも、少し時間がかかった。
返す言葉は、見つからない。私はただ、歩調を合わせる。
リヴァイ兵士長は、それ以上何も言わなかった。けれどその背中は、さっきよりも少しだけ近く感じられた。
「──なぜ、お前だと思う。」
前を向いたまま、リヴァイ兵士長が言う。
問いかけというより、思考を落としただけの声音だった。
私は、すぐに答えられない。分からない。分からないまま、ここに立っている。
「……分かりません。」
少し間を置いてそう言うと、「だろうな」と、短い返事。けれど突き放す響きはなくて、ただ事実を受け取っただけの声。
その一言で、胸の奥がわずかに緩む。
「……リヴァイ兵士長は、どう思い──」
口を開いてから、自分で気づく。
踏み込んでいい質問かどうか、その判断が、追いついていなかった。
今の立場で。今の距離で。
私は、続きの言葉を飲み込んだ。
リヴァイ兵士長は、足を止めない。けれど、ほんの一拍だけ、間を置く。
「……きっかけは、お前だ。」
短い言葉だった。
説明もない。理由も、評価もない。
私は一瞬、その意味を測りかねる。
──きっかけ。
その言葉だけが、胸の奥に残った。
誰かに与えられたものじゃない。
そう理解するまでに、少し時間がかかった。
そうして理解が追いついた、その瞬間。
胸の内側で、何かが静かにほどけた。
乾いた場所に、ゆっくりと重さが戻ってくる感覚。
理由は分からない。けれど、否定されなかったという事実だけが、確かに残る。
リヴァイ兵士長は、それ以上言葉を重ねない。
歩幅も、姿勢も変わらないのに。並んで歩く距離だけが、ほんの僅かに、縮まったように思えた。