第1章
夢小説設定
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朝は、いつもと同じだった。
点呼、書類の受け取り、割り振られた雑務。憲兵団の内地勤務は、良くも悪くも変化がない。だからこそ、考え事をするには向いていなかった。
それなのに今日は、どうにも集中できない。
異動願を出したから、という理由だけでは説明がつかない違和感が、ずっと胸の奥に引っかかっている。
私は書類を揃え、提出用の束を抱えて廊下に出た。行き交う兵士たちの顔ぶれも、足音も、昨日と変わらない。
──何も、変わっていない。
そう思おうとして、ふと足を止める。
事務室の前に立っていたのは、見覚えのある上官だった。直属ではない。顔を合わせるのも、月に数度あるかどうか。
「クライン上等兵。少し、時間はあるか。」
呼ばれた理由が思い当たらず、私は一瞬だけ言葉に詰まったが──すぐに頷いた。
中に通され、椅子を勧められる。机の上には、私のものと思しき書類が置かれていた。見慣れた筆跡。見慣れた形式。
──あ。
それが異動願だと気づいた瞬間、指先が僅かに強張る。
「確認だ。内容に変更はないな。」
声は淡々としている。責めるでも、探るでもない。事務的な確認事項として投げられた言葉。
私は一度、息を吸った。
この問いは、選択だ。今なら、取り下げられる。曖昧にすれば、流される。
それでも──
「……ありません。」
自分の声が思ったよりもはっきりしていて、少しだけ驚いた。上官は一度だけ頷き、書類を閉じる。
「分かった。手続きは進める。」
それだけだった。拍子抜けするほど、あっさりと。
事務室を出たあと、私は廊下の中央で立ち尽くした。胸の内に広がるのは、安堵でも決意でもない。
ただ、奇妙な感覚。
自分は何も変えていないはずなのに、何かが、確実に動いた。
その感覚は、昼を過ぎてから、はっきりと形になる。
追加の指示が回ってきた。
臨時の業務。内地で行われる、他兵団との合同確認作業。
私は書類を受け取り、視線を落とす。書類の一番上にある兵団名を見た瞬間、肩に力が入った。息を止めていた事に、遅れて気づく。
調査兵団。
そしてその少し下の方に、自身の名が書き連ねられている。
文字を追っただけで、体が先に反応している。期待でも恐怖でもない。ただ、緊張だ。
私は視線を落としたまま、数秒だけ目を閉じた。深呼吸をするつもりはなかった。ただ、閉じた。
暗くなった視界の中で、ふと理解する。
変わったのは、自分だけじゃない。私が異動願を書いたその時点から、周りも動き始めている。
誰かが判断し、誰かが通し、誰かが配置を決めた。それはもう、私ひとりの選択ではない。
そう思った途端、胸の奥に溜まっていたものが、すっと引いていく。肩に入っていた力が、ゆっくりと抜けた。
──大丈夫だ。
言い聞かせたわけじゃない。ただ、そう感じた。
目を開け、もう一度書類を見る。さっきよりも文字が静かに見えた。
理由は書かれていない。"適任"とだけ、簡潔に。
私は周囲を見回す。同僚たちはそれぞれの仕事に戻っていて、誰もこの配置を不思議がっていない。
──そんなはずはない。
昨日まで、調査兵団と関わる理由なんて、どこにもなかった。見学は、もう終わったはずだ。
なのに──胸の奥で、遅れて何かが噛み合う。
『……そのまま来るな。』
あの時の声が、今になってはっきりと意味を持って響いた。
来るな、ではなかった。急ぐな、でもない。
──選べ。
そう言われていたのだと、ようやく分かる。
私は書類を握り直す。紙の感触が、現実を引き戻す。
変わらないと思っていた日常は、もう同じ場所にはなかった。気づかないところで、誰かが道を整えていた。私が一歩、踏み出すのを待つように。
そのことを、私はまだ知らない。けれど確かに、流れは──始まっている。
「クライン上等兵。」
名前を呼ばれて、肩がわずかに揺れた。
顔を上げると、伝令役の兵士が立っている。急いだ様子はない。だが、その立ち方は私用じゃない。
「指示が出ている。準備が整い次第、合流してもらう。」
行き先は告げられない。理由もない。ただ、決定だけが置かれる。
私は一度だけ頷いた。
受け取った紙を、胸の前で揃える。紙の端が、指に触れた。
まだ、動く段階じゃない。けれどもう、戻る場所でもない。
その場に立ったまま、短く息を吐く。
日常は、何も変わっていない。ただ──進み始めただけだ。