第3章
夢小説設定
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執務室は、静かだった。
紙をめくる音と、ペン先が走る音。それだけのはずだった。
──咳。
短く、けれど抑えきれなかった音が隣から零れる。
「……すみ、ませ……っ!」
言葉の途中で、また咳き込む。肩が、小さく揺れる。
チッ、と舌打ちが喉まで上がったが、それは飲み込んだ。
「謝らなくていい。」
低く言う。
「ゆっくり呼吸しろ。無理に止めようとするな。」
そう言いながら、俺は立ち上がっていた。無意識に。
距離が、近い。
咳で前屈みになった背中。呼吸を整えようと、小さく上下している。
──背中を、さすればいい。
そうすれば、楽になるのは分かっている。
何度も見てきた。何度もやってきた。だから──手が伸びる。ほんの数センチ。
空気に触れるだけで、まだ、触れてはいない。
……ここまで来て、初めて止まった。
──やめろ。
胸の奥で、はっきりとした声がする。
これは、必要な行動じゃない。今の咳は、命に関わるものじゃねぇ。医務室での処置も済んでいる。熱も下がっている。
……つまり今、触れたら。
それは、俺の都合だ。
あの夜が、脳裏を掠める。
眠った顔。下がらなかった熱。椅子に座ったまま、何もできずに時間をやり過ごした感覚。
──楽になりたかったのは、どっちだ。
自分に吐き捨てる。
伸ばしかけた手を、引いた。指先が、何も掴まないまま下がる。
咳は、少しずつ収まっていく。
ユニは、気づいていない。
顔を伏せたまま、小さく息を整えている。
……それでいい。
「水だ。」
代わりに、机の上のカップを指で押し出す。
「少しずつ飲め。」
「……はい。」
かすれた声。だが、ちゃんと返事をする。
俺は、椅子に戻る。いつもの距離。いつもの位置。
胸の奥に残ったものを、無理やり押し込めながら。
──一線は、越えていない。まだ。
そう、言い聞かせるしかなかった。
────────────────
廊下の先がざわついていた。
声が荒い。物が当たる音。周囲にいる兵士達は距離を取って立ち止まり、誰も踏み込めずにいる。
──喧嘩だ。
しかも、軽い口論じゃない。互いに感情が振り切れていて、拳が出る寸前……いや、もう出ている。
私は足を止めた。
2人とも、怒りで視野が狭くなっている。動きは直線的で、無駄が多い。
踏み込みも甘い。
(……止められる。)
自然に、そう思った。
普段の対人格闘訓練より、ずっと単純だ。
力で押し合っているだけ。間合いに入れば、関節を取れる。
どちらか1人を倒せば、もう1人は止まる。
私はもう、判断を終えていた。
遠巻きにしている兵士達の横を抜け、躊躇いなく距離を詰める。
怒号と乱れた動きが、視界いっぱいに迫る。
──止められる。
そう確信した瞬間。
ぐい、と肩を強く掴まれた。
「何してる、下がれ!」
鋭い声。反射的に足が止まる。リヴァイ兵士長だった。
掴まれたまま、後ろへ引かれる。力は強いが、乱暴じゃない。それでも、明確な拒否だった。
「……!」
言葉を発する間もなく、リヴァイ兵士長は私を庇うように前へ出る。
次の瞬間──喧嘩していた2人は、ほとんど抵抗する暇もなく地面に倒されていた。
「お前ら──」
低く、冷えた声。
「騒ぎを起こすんじゃねぇ。あとで俺の部屋に来い。説教だ。」
「すっ、すみませんでした!」
2人は青ざめた顔で立ち上がり、逃げるように去っていく。周囲の兵士達も、ほっとしたように散っていった。
廊下に、静けさが戻る。私は、その場に立ち尽くしていた。
リヴァイ兵士長は、私の方を振り返る。
険しい表情。怒っている、というより──焦りが残っている顔。
「……無茶するな。」
短い言葉。私は、すぐに返事ができなかった。
確かにリヴァイ兵士長が出れば、すぐに解決する。それは分かっている。
でも──
(私だって、できた。)
喉の奥まで出かかった言葉を、飲み込む。
リヴァイ兵士長だって、分かっているはずだ。私の実力を。対人格闘で、どこまでできるかを。
それでも──あんなふうに、即座に下げさせた。必死なほどに。
「……はい。」
結局、それだけ答えた。
リヴァイ兵士長はじっと私を見てから、それ以上何も言わず、踵を返す。
「行くぞ。」
いつもの声。いつもの背中。
私は少し遅れて、その後を追った。
胸の奥に残ったのは、怒りでも、反発でもない。
ただ──説明のつかない違和感。
(訓練と、実践は違う。)
さっき、そう言われたわけでもない。けれど、そう線を引かれた気がした。
兵士としての判断?それとも──
考えようとして、私はその思考を一度止めた。
今は、追いついて歩く。
問いは、あとでノートに書けばいい。
そう自分に言い聞かせながら。
───────────────
最初に見えたのは、2人の兵士が掴み合っている光景だった。
……面倒な。
そう思った瞬間、視界の端に動く影が入る。
──ユニだ。
前に出る。判断が、早い。
……早すぎる。
考えるより先に、体が動いた。
「何してる、下がれ!」
肩を掴んで、引く。
強すぎたかもしれねぇ。だが、構っていられなかった。
次の瞬間には、喧嘩していた2人を叩き伏せる。
いつも通りだ。手間でも、難しくもない。
説教を告げ、場を収める。
……それで終わりのはずだった。
だが──背中に、視線を感じる。
振り返らなくても分かる。ユニだ。
──なぜ、止めた。
自分でも、答えが浮かばない。
あいつなら、確かに止められただろう。力量は、分かっている。評価もしている。
訓練じゃなくても、あの程度の乱闘なら怪我をさせずに制圧できたはずだ。
……それなのに。
危険だから?違う。
判断が甘い?違う。
規律?それも、理由としては弱い。
胸の奥に残るのは、理屈じゃない感覚だ。
一瞬でも、あいつが殴られる可能性を想像した。
それだけで、思考が切れた。
──だから、止めた。
理由として、それは最悪だ。
兵士長として、あまりにも私情が混じりすぎている。
俺は、舌打ちを飲み込む。
……チッ。
自覚した瞬間、さらに腹が立つ。
守るべき立場だ。距離は、保つと決めている。
それなのに、体が勝手に動く。
止める理由を、自分で説明できない。
それが一番、厄介だった。
──そして次も、同じ事が起きたら。
同じ場面で、同じ判断を迫られたら。
今度は、止めるだけで済まなくなる。
踏み越える。
そう、はっきり分かってしまった。
俺は、何も言わずに歩き出す。
後ろにユニの気配を残したまま。振り返らない。
今振り返ったら──自分がどこまで行くか、分かってしまいそうだった。