第1章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
異動願を出した翌日も、翌々日も、憲兵団は変わらなかった。
朝は定時に始まり、書類は机に積まれ、巡回の予定も淡々と消化される。
誰も私を見ていない。少なくとも、特別には。
それが、少しだけ怖かった。
自分の中では、確かに何かが変わった。
もう戻らない場所に足を置いた感覚が、まだ靴底に残っている。
けれど周囲は、その一歩など最初から存在しなかったかのように、昨日と同じ顔で今日を続けている。
──早まっただろうか。
ふと、そんな考えが浮かぶ。
机の引き出しに、無意識に指が伸びる。そこにはもう何も入っていないと、分かっているのに。
あの時封筒を握りしめた手の感触が、遅れて蘇る。
薄い紙なのに、妙に硬く感じた。指に食い込む角。力を入れすぎて、紙が僅かに鳴った音。
逃げないように押さえつけるみたいに、掌の内側で折れ曲がりそうになっていた。
離したら元に戻ってしまいそうで、だから、強く握った。
エルヴィン団長の顔が、意図せず脳裏を掠める。
柔らかく笑っていた表情。探るでも、突き放すでもない視線。
──あの人に、迷惑をかけたかもしれない。
異動願は、私個人の問題じゃない。中央の事情も絡む。調査兵団にとって厄介な火種を押し付けただけだったら──そう考えると、指先がじんと痛む。あの時、力を込めすぎたせいだ。
私は、調査兵団に行きたい。けれどそれは、あの人の負担になる形で叶えていい願いだったのか。
書類に目を落としながら、ペンを動かす。字は乱れていない。指も震えていない。外から見れば、いつも通りの私だ。
──そのまま来るな。
唐突に、低い声が蘇る。見学の時、背を向けたまま投げられた、あの一言。
最初は拒絶だと思った。調査兵団には来るな、という意味だと。
でも今なら、少しだけ分かる。
あれは行くな、じゃない。変わらないまま来るな、だ。
あの時、異動願を握っていた手。迷いも、恐れも、覚悟も、全部まとめて押し込んでいた。
私は、変わったのだろうか。紙一枚を、強く握っただけだ。それでも、離さなかった。それだけで、胸を張っていいほどの変化なのかは分からない。
それでも──あの言葉が、今、胸の内側に静かに染みている。
変わったのは、世界じゃない。変わったのは、私だけだ。
だから不安になる。だから足元が覚束ない。
それでも、もう元の場所には戻れないと、分かっている。あの時、手を離さなかった感触だけが、今も確かに残っている。
鬱々とした気分を晴らしたくて庁舎を出ると、空気が少し違った。石畳に落ちる影が長くなっていて、内地特有の人の流れが、夕方の速度に変わりつつある。
建物の角を曲がったところで、視界の端に馬車が見えた。軍のものだ。無意識に、足が止まる。調査兵団の紋章。
──こんな所で?
用事があって内地に来る事はある。分かっている。分かっているはずなのに、目が離れなかった。
人だかりの向こう、馬車の傍で指示を出している影がある。
背は高くない。それでも、立ち方だけで分かる。
あぁ、と小さく息を吐いた。
リヴァイ兵士長だ。
特別な出来事じゃない。声を掛ける理由もないし、向こうがこちらに気づく事もないだろう。
それでも胸の奥に溜まっていたものが、ほんの少しだけほどけた。
調査兵団は、動いている。私の知らない場所で、私の知らない時間を使って。
──そのまま来るな。
あの言葉が、今度は違う意味で響く。
私は、まだここにいる。でも、立ち止まってはいない。
そう思えた瞬間、足が自然に前へ出た。馬車から視線を外し、いつもの帰路に戻る。
夕方の空は、思っていたよりも高い。
───────────────
内地に調査兵団の馬車がある理由は、単純だ。
壁外遠征の事前調整。物資の確認と補充、馬の入れ替え。前線に出る前に内側で済ませておく雑務はいくらでもある。その指揮と確認のために兵士長の俺が出向くこと自体、珍しい話じゃない。特別な任務でも、極秘の動きでもない。だから、周囲は気にも留めない。
俺は馬車の脇で、帳簿の内容を頭の中でなぞっていた。数に不足はない。だが替えの手配が一段遅い。戻ったら一言入れる必要がある。そんな程度の思考だ。
その途中で、空気が一瞬だけ引っかかった。
視線だ。
強くもない。探るようでもない。ただ、そこに留まる視線。
反射的に顔を上げそうになって、やめる。代わりに、視界の端だけを動かす。
──小さい。
人混みの中でも、やけに目につく。背の低さじゃない。立ち方だ。無意識に周囲から一歩だけ距離を取る癖。馴染もうとして、馴染みきれない位置。
……あぁ。
誰かを考える必要もなかった。
俺は視線を返さない。返す理由も、意味もない。
それでもその存在だけは把握したまま、馬の首元に手を伸ばす。温度を確かめ、落ち着かせるために軽く撫でる。動作はいつも通りだ。何一つ変えていない。
視界の端で、その影がわずかに揺れた。足を止めたのか、踏み出したのかは分からない。
……そのまま来るな。
声にはならない。思考ですらない。ただの確認だ。
俺は帳簿に視線を戻す。馬車も、部下も、内地の喧騒も、何も変わらない。変わったのは、あいつだけだ。だから俺は、何もしない。
それでいい。