ひと夏の経験

ペニンシュラホテルに戻った2人は、ここで李さんと別れた。時刻は、17時5分過ぎ。予定通りの到着だった。
この後の、石一海が所属する桜花活動企画公司(サクライベントオフィス)の社長である額田凪沙と、三条氏が約束している夕食の時間は19時なので、まだ時間的余裕がある。
三条氏の買った物をお部屋まで運ぶ、という名目で、一海は今夜も三条氏の夜景が美しいリバービュースイートルームを訪れることになった。
「荷物は、リビングに置いてくれたら…」
玄関ドアの傍でモジモジする一海に、そう声を掛けて、三条氏自身はそのままベッドルームに消えた。
ちょっと気遅れ気味に、一海は恐る恐るリビングルームに入ると、昨夜同様、その圧巻の夜景を目にした。その絶景に感嘆しながら、三条氏が多倫路で購入した七宝焼の壺が入った箱をテーブルに置いて、窓辺に寄った。
上海生まれの一海にとって、見慣れたはずの黄浦江の夜景だが、このホテルから改めて見ると、やはり幻想的で心奪われる気がする。
そうするうちに、昨日のことを思い出す。
(…1分間を共有した)
あの、僅か1分だけは、誰にも邪魔されない、三条氏と一海だけの時間だった。
これから先、あの1分間が積み重なって、2人の共有する時間が増えるのだとしたら…。
(ボク…、これからどうなっちゃうんだろう…)
窓辺に立って、ぼんやりと、心ここにあらずと言った体(てい)で、夜景を見詰める一海だったが、頭の中は、あの1分間の繰り返しだった。
三条氏に掴まれた手首。
囁かれた声。
2人で見詰めた秒針の動き。
あのドキドキが、ずっと今でも続いている気がする。
そして、今日、多倫路のカフェで三条氏に囁かれた言葉…。
~君が、…好きだ~
正直、思いも寄らない告白で、一海は戸惑い、そして疑った。ずっと揶揄われていると信じ込んでいた。だから、一海自身は三条氏に対する気持ちを気付かぬようにしていたのに…。
~ボクも…好キなんデス~
(なんてこと、言っちゃったんだろう…)
コツンと窓ガラスに額(ひたい)を当てて、一海はドキドキする自分の熱を冷まそうとした。
冷静に考えれば考えるほど、気まずくて、恥ずかしくて、どんな顔をして三条氏と話せばいいのか分からない。
でも、三条氏は「後で話したい」と言っていた。2人の間には、確かに話さねばならない事がたくさんある…ような気がする一海だが、何を話す必要があるのか、よく分からない。
(お互いに、好きって言っちゃんだから…、これから付き合うってことかな?)
ぎゅっと額をガラスに押し付け、一海は必死で考えていた。
(でも、三条さまは、明日、日本へ帰っちゃうんだし…)
急に一海は不安になった。
そうなのだ。
明日、三条氏は日本に帰ってしまう。そして一海は上海に残るのだ。
(もう、会えない?)
好きだって言ったのに…。なのに、もう会えなくなる。
(じゃあ、今夜はどうしたら…?)
一海は、ギュッと目を瞑り、唇を噛んだ。まるで何かの決断を迫られているかのように…。
そんな一海の姿を、リビングの入口からそっと見詰める三条氏がいた。。
何かに悩んでいるカワイイ一海の様子を、三条氏は微笑ましいと思いながら見守っていた。
確かに、石一海はカワイイ。だが、それはまだ原石だからだと、経験豊富な三条氏には分かる。
色白で、玉子型の童顔。目はくっきりと二重だが、ちょっとタレ目気味がキツい印象を消している。すっと通った鼻筋に、小さめな口元でぷっくりした下唇が愛らしい。身長は175㎝くらいだが、もっとずっと華奢で小柄に見える。柔らかそうな黒髪は緩いくせ毛で、真面目なサラリーマンにしてはちょっと長い。それはむしろ黒縁のメガネと相まって、オタクっぽい学生の印象だ。
23歳というが、まだ10代にも見える。
こんなに可愛いのだが、三条氏にはそれだけでない、石一海の魅力に気付いていた。まだ石一海は目覚めていないだけだ。
三条氏は知っている。
石一海がこの先、恋を知り、愛を知り、性愛の悦楽を知った時、きっとその本性が目覚めるはずだ。この少年は、一度扉を開けてしまえば、誘惑的な魔性を身に纏うだろう。三条氏には、そんな確信がある。
さながら、今の一海はユーモラスな幼虫だ。蛹の時代を過ごせば、必ず美しく、妖しく舞う、希少な蝶へと生まれ変わるだろう。
そして三条氏は、この手で一海を蝶に育てたいと思っている。
だが、一海がそれを望むだろうか。
三条氏の迷いは、ただその点のみにあった。しかし、それを決めるのは三条氏では無く、一海自身他ならない。そのことに納得して、三条氏は一歩進んだ。
「そんなにしていたら、オデコが赤くなっちゃうんじゃないか?」
ガラスに額を強く押し付ける一海を、揶揄うように三条氏は声を掛けた。
その声に一海が振り返ると、そこには先ほどまでのカジュアルな姿では無く、シャワーを済ませ、ノーネクタイのセミフォーマルなスーツに着替えた三条氏が居た。やはり、この紳士はスタイリッシュで魅力的だ、と一海はうっとりと見詰めた。
「額田さんとの夕食に、君も同席してくれ。彼女に許可は得ているから、心配は無いよ」
そう言って、三条氏はリビングの快適そうなソファでは無く、ライティングデスクに1人座った。
「掛けなさい、イーハイ」
三条氏は、自分が座る位置から離れたソファを、一海に勧めた。
「遠慮なく、ね」
逡巡する一海を愛おし気に見詰めながら、三条氏は優しく言った。
その声に、一海も素直になった。
ソファに座って、三条氏の方を見る。2人は自然に目が合って、嬉しそうに、そしてちょっぴり恥ずかしそうに微笑んだ。
「私は、明日、日本に帰る」
その一言に、ふっと一海の顔が曇る。もう会えないのかも知れない。それが、思っていた以上に悲しい。
「今は、会社と自宅は横浜にあるが、出身は東京なんだ。横浜の会社は、元々姉の嫁ぎ先のものでね」
何を思ったのか、三条氏は自身のプロフィールを明かし始めた。
「学生時代は、その姉夫婦の援助でイギリスに留学した。楽しい学生時代だったよ」
そう言って、過去を懐かしむような柔らかい表情をした三条氏を、一海はステキだなと思った。
「両親を早くに亡くした姉と私は苦労してね。姉の結婚で、私たちは幸せになった」
その時、一海には、ほんの少し三条氏が苦い笑みを浮かべたような気がした。
「帰国後は、姉の夫の仕事を手伝っていたのだがね、彼が早くに亡くなってしまい、本格的に1人でこの仕事をするようになった。以来ずっと、世界中を飛び回っている」
そう言って笑った三条氏は、大人の魅力に溢れながらもチャーミングだった。それは一海を魅了するに十分だった。
「今の私には、家族と呼べる者は居ない。肉親は、姉の息子である甥が1人いるのだけど、彼はずっと前に家を出てしまっていてね。今では、どこにいるのか分からないんだ」
悲し気な三条氏に、一海は胸を痛める。
気が付くと、三条氏の一挙一動が、石一海の心を掻き乱すようになっていた。
「急いで家族が欲しいとは思わない。だけど、誰かを心から愛して、できれば愛されたいと思うんだ」
真摯で、穏やかで、説得力のある声色で三条氏は言った。その対象が自分であると、いやが上にも一海は自覚する。
「君は、イーハイ?君のご家族は?」
聞かれて、一海は少し緊張する。三条氏の反応が気になる。
「ボク…。ボクの家族は…。母だけデス。父ハ、中学ノ教師デシタが、交通事故デ死にマシタ。ボクは、ソノ時マダ2歳デ…。父ノ顔モ写真でシカ知りマセン」
「それは、残念だったね」
フッと一海は思った。だから、紳士的で頼りがいのある三条氏のような男性に、父性を感じて惹かれるのだろうか。
「だからと言って、私は君の父親になる気はないよ」
一海の表情を読んだのか、先んじて三条氏は言った。その言い方は、優しげではあったけれども、決して冗談ではなかった。三条氏の望みは、父親の代わりではなく、確かに一海の恋人なのだ。
一海は、まだその表情に困惑の色を見せていた。
「イーハイ、私を好きだと言ったね」
「ハイ」
自分の発言を忘れる一海では無かった。聞かれて、すぐに返事が出来る。
「私も、君が好きだ」
けれど、次の質問への返事は躊躇してしまう。
確かに、三条氏は一海に向かって「好きだ」と囁いてくれた。だが…。それは、本当に一海が思っている「好き」の意味なんだろうか。それだけが、まだ信じられなかった。
「…ハイ」
それでも、三条氏が「好き」という言葉を使ったことは間違いが無い。それは一海も認めざるをえない。
「じゃあ、次はどうなるんだろうね」
感情の読めない顔で、じっと三条氏は一海を見詰めていた。
「……。分かりマセン」
心から、一海はそう思っていた。
「本当に?」
「…本当デス。ダッテ…。だって、アナタは明日、日本ニ帰ッテしまう…。ボクは…、自分デモどうしたらイイのか…、ドウしたいノカ、分からナイんデス…」
悩み込んで、苦しむ一海を見かねて、三条氏はゆっくりと首を振って立ち上がった。
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