ひと夏の経験

南翔老街は、上海の中心部から地下鉄でも行ける水郷である。水郷とは運河が発達した江南地方に多い街並みで、街の中を運河が流れ、その周囲に小売店や飲食店が並ぶ、人気の観光スポットだ。
上海で有名な小籠包店と言えば、豫園にある「南翔小籠包店」だが、その名の由来が、この南翔の街にある。
日本でも小籠包は人気だが、ほとんどが台湾名物として知られている。だが、小籠包発祥の地はこの南翔で、小籠包は上海料理なのだ。
昼食には少し早かったので、先に明代の庭園・古猗園を見学することになった。歴史的な庭園と言えば蘇州が有名だが、その規模に及ばぬまでも、この古猗園も十分な趣を備えている。庭の樹木や石の配置や建物の意味など、知っている限りの情報を、一海は夢中で話し続けた。ネタが尽きて、三条氏との間に沈黙が訪れるのが怖かった。
広々とした美しい芝生の広場を抜け、人々が憩う公園を通って、歴史的な建物のある庭園に出た。
「いいね。いかにも中国庭園という感じで」
古美術が好きだという三条氏らしく、ゆっくりと建物を眺めながら庭の構図を堪能しているようだった。
その悠然としたした姿が、まさにかつてこの庭園を謳歌していた大人(ターレン・貴人)のようで、石一海は思わず見とれてしまった。
見た目も良くて、裕福で、知性的でもあって、親切で、ちょっと意地悪な三条氏が、昨日からずっと一海の心を掻き乱している。
「次回は、蘇州の庭園も見に行きたいな」
中国庭園をたっぷりと楽しんだ様子で、三条氏は一海に屈託のない笑顔を見せた。この仕事をしていて、クライアントに喜んでもらえた時が、一海は一番嬉しい。特に今日は、三条氏が満足してくれたことが嬉しかった。
「混ム前ニ、小籠包、行きマショウカ?」
一周回って、古猗園の正面入り口に戻ってきたところで、一海がそう提案した。
「ああ、楽しみにしていた小籠包だね」
三条氏にニッコリと微笑み掛けられ、またしても一海の心臓はドキドキする。なんだかよく分からないけれど、三条氏はズルい、と一海は思った。
「もちろん、石(シー)くんも一緒にテーブルに着いてくれるんだよね。独りポツンと小籠包を摘まむのなんてごめんだな」
三条氏は何でもないことのように一海を食事に誘ってくれる。だが、一海には気が重かった。
「それと、良ければドライバーさんも一緒にどうかな」
さらりと言い出した三条氏に、一海はハッとした。
「いきなり誘っては、失礼かな」
「ア…アノ…。イエ…。そんなコトは…」
まるで、三条氏と2人きりでの食事を気づまりだと感じていた一海の気持ちを読んだような申し出に、一海は戸惑いを隠せない。
「…ドライバーさんニ、聞いてテみマス…」
古猗園の前の道を右に折れた並びに、小籠包発祥と言われる老舗のレストランがある。古く地味な門構えだが、昼食時はいつも満員で、老舗ならではの貫禄があった。
すでに、その店の前の駐車場に車を停めて、ドライバーの李さんは店の駐車係と話を弾ませていた。こういった他愛もない会話が、どんな役に立つか分からないのだ。
「在真的(本当に)?可以一起吃吗(ご一緒してもいいのかい)?」
「没関係、没関係(全然、大丈夫だよ)!」
李さんに一緒に昼食をと告げると、案の定遠慮する。中国人同士ならいざ知らず、外国人のクライアントと食事をするということは、食事代をクライアントに負担させるという意味なのだから、当然一度は辞退するのが礼儀だと慣れた李さんなどは知っているのだ。
結局、三条氏との2人きりの食事が不安な一海は、積極的に李さんを誘って、無事に3人でテーブルに着くことになった。
「アリガト、アリガト」
真面目で、正直な李さんは、感謝の気持ちを知っている限りの日本語で三条氏に伝えた。
「いいんですよ。人が多い方が楽しいし」
三条氏も、自分が雇ったドライバーだと軽視することもなく、年上と思われる李さんに失礼の無い態度で接していた。
仕事柄、中小企業の管理職以上のクライアントが多い石一海は、日本での「偉いさん」として扱われる人々が、誰にどんな態度で接するのかをよく見ている。
一番偉い社長さんが、ホテルの掃除担当やベルボーイ、視察する時の専用車のドライバーさんにまで腰が低く、丁寧な態度で接することもあれば、中小企業の、ようやく管理職になったばかりで舞い上がった人間が、誰彼構わず見下げたような態度を取ることもある。
だが、本当に仕事ができる人は圧倒的に前者で、三条氏もまた、きちんと節度と威厳は保ちながら、誰に対しても丁寧で親切な態度で接していた。
3人にしては広すぎる個室でテーブルを囲んだ。なんとなくくすぐったい気分だが、すぐに料理が運ばれてくる。
オリジナルの小籠包に、この季節ならではの蟹入り小籠包、それにいくつかのサイドメニューに、烏龍茶をポットで頼んでいた。
「ああ、やっぱり蟹の風味がいいね。甘みが美味しい」
もっと高級な中華料理や小籠包も食べているであろう三条氏が、手放しで喜ぶ様子に、李さんも嬉しそうだった。自国のものを外国人が喜んで受け入れてくれるのは、誰しも嬉しいものだ。
李さんも、甲斐甲斐しく三条氏に料理を取り分けたり、お茶を継ぎ足したりしていた。
何となく、何もかもがうまく行きすぎていて、一海はますます複雑な気持ちになる。
「もっと食べないのかい、シーくん?」
そう言えば、昨日の夜は「イーハイ」と名前を呼んでくれた三条氏だったのに、今朝はずっと「石(シー)くん」と呼ばれている。
あんなに一海の気持ちを掻き乱しておいて、今朝の態度は理解出来ない。
でも、だからと言ってどうしたらいいのか、一海には分からない。そんな気持ちが一海の箸を進める手を遅くする。
「石弟(シーくん)?」
李さんも心配して思わず声を掛ける。
「!…没事(なんでもない)…」
三条氏と李さんの視線に、一海が慌てて応え、サイドメニューの1つであるスペアリブの醤油煮込みを口にした。
「小籠包が主食だというのは分かるな。こういう濃い味のおかずとも合うし。日本のように、小籠包とご飯なんて考えられないな」
食事を楽しむために話題を盛り上げようとする三条氏の努力を、一海も李さんに同時通訳をして協力する。
〈米と小籠包?ありえない!日本人は餃子と米とを一緒に食べるんだって?〉
一海の通訳で、李さんも三条氏と「会話」を弾ませる。通訳だけに専念することができて、一海は少し救われた。
充分に食べて、それでも余った料理は包装して持ち帰ることが出来る。小籠包は完食したが、ほとんど手つかずのサイドメニューの数品は、李さんが持ち帰ることになった。

車に乗り込み、上海市内へ向かう途中、三条氏が静かなことに一海が気付いた。
そっと振り返ると、気持ちよさそうに眠っている。これぞ旅の醍醐味だ。美しい景色を見て、美味しい物を食べて、そして満足して眠る…。
満足げな三条氏の寝顔を、一海は見つめた。綺麗な人だと思う。顔の作りが整っているだけでなく、清潔感があって、内面的にも洗練されているのがよく分かる。閉じた瞼の睫毛が長いのが、一海には悩まし気に見える。
(ボクの事、からかっているだけなんだ…)
こんなにも三条氏の魅力に惹かれているのに、幼稚な自分のことなど、三条氏は振り回して面白がっているだけなのだと、ちょっと一海は哀しくなった。
あんなに親切で、誠実そうに見えたのに…。これ以上恨みがましい目で見るのはやめようと、一海は後部座席から目を反らし、スマホで各所への確認を始めた。
これから行く、工芸美術博物館の開館状況。渋滞が多い地区を通るので、道路情報も確認する。ついでに、その後の多倫路周辺の道路情報も確かめて、多倫路の三条氏が好みそうな骨董店をチェックする。
その時、一海は多倫路への案内の後、ペニンシュラホテルに戻ると、そこで三条氏とはお別れなのだと気づいた。ホテルへの送迎まででアテンドの仕事は終わりだ。そうしたら、もう2度と会うことは無いかもしれない。
その事実に、キュウと一海の胸が痛くなる。
けれど、それを三条氏に伝えるわけにもいかないのだ。
切なくて、痛くて、一海は泣きそうになるが、それを李さんに知られるわけにもいかず、ただひたすらスマホを操作するふりを続けた。
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