12.水溜りに映る白壁
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ガンと頭に衝撃を感じて体が傾いた。なにが起こったのか分からなくて、目の前でバレー部のうちわを掲げる女子生徒が目を見開く光景を最後に、私の意識は途切れた。
* * *
ふわふわと、ぼんやりとした意識の中、目を開けると目の前にはまだ小学生にも満たない小さな女の子がいた。うさぎの人形を抱えて、無垢な瞳で両親の背を見上げる少女はいったい何を考えているのだろうか。
彼女の両親は有名な音楽家らしい。父親も母親も世界中を飛び回って仕事をしてる。だから少女の周りにはいつも無機質なお人形だけが座っていて、少女はいつもそのお人形に向かって問いかける。
「ねえ、どうしたらママはわたしとおでかけしてくれるのかな」
「ねえ、どうしたらパパはわたしといっっしょにあそんでくれるかな」
ああそうだった。いつしか両親が私に言っていたことを思い出した。
「俺たちは音楽家なんだ、世界中を飛び回っていて忙しい。お前に構ってる時間はないんだよ」
「私はね、あなたのお父さんのことが大好きなのよ。だから私も音楽の道に進んでお父さんと一緒にいることを選んだの。私たちはこれから大規模なツアーが始まるの。しばらくは家に帰れないから、何かあれが家政婦さんに声をかけてちょうだい。お金はたくさんあげるから、何も問題ないと思うわ」
そう言って私のもとから去った両親とはその日から一度も顔を合わせていない。その後は家政婦さんに言われるがまま小学校に通っていたけど、そこでは友達なんかできなくて、ずっとひとりぼっちで過ごしていた。なんでも私はコミュニケーションの取り方が下手くそらしい。三者面談で担任の先生が家政婦さんにそう言っていた。
本を読むことが好きだった。勉強をすることが好きだった。友達もいなくて勉強くらいしかすることがなかった。気が付いたら英語が喋れるようになっていた私は、小学校4年生になるときに1人でアメリカに留学した。いつかの面談のときに、担任の先生に勧められたからだ。学校で一番頭の良いあなたならきっと良い経験になるわよ。そうおだてられた私は先生の提案にすぐに頷いた。すると先生はにっこりと笑って私を褒めてくれた。
ぽんと視界の端っこが赤く色づいた。
ホームステイ先は親切な老夫婦の家だった。とても穏やかに笑う優しい人たちだった。このときの私は誰かに褒めてもらいたいという気持ちが強かったのだ。どうにか周りから褒められたくて、たくさん愛想を振り撒いて、たくさん勉強した。もっと可愛くなるためにも色々研究した。一般的に、容姿の良い人の方が人から好かれる傾向にある。だからスキンケアだとか、髪の毛の日頃の手入れだとか、色々頑張った。だけど上手くいかなかった。色んな人から妬まれて、裏切られた。挙句にはホームステイ先の老夫婦にも見限られた。異国から来た私の悪い噂を、老夫婦に吹き込んだ人がいたらしい。私は、あの優しい老夫婦がそんなデタラメな噂など信じるはずないと信じていた。私のことを信じてくれると信じていた。けれども現実は非情にも私の都合の良いようにはいかなかった。
もうこの場所にはにはいられないと私は家を出た。本来なら日本に帰るべきなのだけれど、私のちっぽけなプライドがそれを許さなかった。こんなことで日本に帰ってたまるか、そう思った私は行く場所もないのにアメリカの街をさ迷った。
ある時、アメリカのニューヨークの街である親子に出会った。髪も服も汚れていて、如何にも貧困といった感じの親子だ。彼女たちは1人で街を歩く私を見つけて"金をくれ"と声をかけてきた。まだ家出したばかりの私は、確かに身なりも整っていたし、質の良いリュックサックを背負っていた。彼女たちの目にはさぞかし裕福そうに映ったことだろう。実際に所持金はたくさんあった。両親が私にくれたお金だ。留学の際に無駄に持ってきたこのお金を、私は迷うことなく彼女たちに分けることにした。まずは食料をたくさん買ってあげた。そうすると彼女たちは泣いて喜んだ。私の手を握って、貴方は命の恩人ですと何度も感謝の言葉を述べてくれる彼女たちを見ていると、なんだかとても気分が良かった。
私は安いホテルに泊まっては別の土地へ行き同じ事を繰り返すようになった。いつの間にか日本へ帰るタイミングを失っていた。もう何年も経っているはずなのに、誰からも連絡など来やしない。私がこれまでに助けた人達も、もう私の事など記憶から消えているのかもしれない。
安くて硬いベッドの上で息をつく。窓の外にある巨木には一つの葉も残っていなくて、幾ら眺めていてもそれが何の木なのか、全く分からなかった。
アメリカに来て6年ほど経った頃、全く音沙汰のなかった私のケータイに一件の通知が入っていた。家政婦さんからだ。"そろそろあなたの両親が帰って来ます"たったそれだけの連絡だった。
だからなんだというのだろうか。私が日本にいないと何か不都合があるのか、これまで1度だって連絡してこなかった彼女が、突然寄越したメール。早く日本に帰ってこい。暗にそう伝えられているようで癪に触った。けれども懐にあるお金ももうほとんどないのが現実。これ以上アメリカにいられないので、家政婦さんからの連絡を都合良く言い訳にして、私は日本に帰ることにした。
家政婦さんに連絡すると、彼女はすぐに住む場所を手配してくれると言った。どうやら前に住んでいたマンションはもう私の家ではなくなっているらしい。なんとなく両親と過ごしていたことのある土地に帰るのが嫌だったので、全く別の場所に住みたいと家政婦さんに伝えると、その願いはあっさりと了承された。新しい家は兵庫県らしい。住所のみが記載されている簡素なメール文を見て、私はその場所に向かった。
私が目的地に着いた頃には全ての準備が整っていた。家政婦さんが既に近くにある稲荷崎高校という学校への編入手続きまで済ませてくれたようだ。マンションに着くと、ホコリ一つないリビングの机上には、通帳と制服と学校の資料が置いてあった。
* * *
ここでは絶対に失敗をしない。そんな気持ちを抱えて私は2-1組のクラスの前に立った。できるだけ印象が良くなるように自己紹介をして、席に着いた。
日本語、変じゃなかっただろうかと緊張で早まる鼓動をなんとか収めようと深呼吸をしたとき、隣の席の男の子が話しかけてくれた。何がおかしかったのか、私を見てわずかに口角を上げたその男の子はよろしくね、と言って私に手を振った。少し訛った彼の穏やかに顔色に、ほんのちょっと胸が高鳴ったのを感じた。この人と仲良くなりたいと素直にそう思ったのだ。
一限目の授業中、どうやって彼に話しかければ良いかずっと話題を考えていた。けれどもコミュニケーションが苦手な私には何も思いつかなくて、とりあえず次の授業の準備をしようと急いで支度をしていたとき、彼と、もうひとりの男の子が私の前に現れた。その男の子は戸惑っている私を見て、自分を指さし宮治と名乗り、次いで隣を指さして角名倫太朗と彼の名前まで教えてくれた。
2人は顔を合わせるなり次の移動教室一緒に行こうと私を誘う。その誘いに素直に頷けば、彼らは私の目を見て優しく笑ってくれた。
トクンと、また胸が高鳴った。嬉しい。嬉しい。とにかく嬉しくて、興奮する自分の顔を見られまいと私は俯いた。
それから、徐々に私の周りには人が増えていった。彼らはもとから仲の良いグループのようだったけれど、いつの間にかその輪の中には私がいた。
彼らはほんとうに私のことが大好きなようだった。たぶんこれは勘違いなんかじゃない。そう思えるほどに彼らは私をとても気にかけてくれる。なんだか初めての感覚で、心がふわふわと宙に浮かんでいる錯覚すら覚えた。彼らと関わることが、ものすごく楽しかった。みんなが私を可愛がってくれるから、私もそれに答えなくてはならないと思った。
稲荷崎高校男子バレー部、私は彼らのバレーに魅了された。それと同時に、彼らは私の手を引いて私の存在を受け入れようとしてくれた。だから私も一生懸命バレーボールの勉強をして、彼らと同じ景色を見たいと思うようになった。
彼らにもっと気に入って貰えるように頑張らないとけいない。強欲な私はこの心地よい空間を絶対に手放したくないと思った。
父や母にとって、私は特段、必要な存在ではなかったということだろう。むしろ、私が居ることは仕事人である2人にとって邪魔だったかのもしれない。
どんな理由でも良い。自分が必要な存在にならなければならないのだ。そして私自身が、彼らにとって特別な存在となって初めて、私の居場所が完成する。
* * *
いつも通りマネージャーの仕事をやってると、体育館のドアあたりが少し騒がしいことに気がついた。ちらっと確認しに行くと、ドアの前でバレーの試合を騒ぎながら見ている女の子達が居た。あのネクタイの色は1年生だろうか。
「あの、体育館のドアの前は危ないから。見学するなら体育館の2階に上がってください」
二階の応援席以外での応援は禁止されているし、ドアの前にいるのは単純に練習の邪魔になる。この場所はよくボールも飛び交っていて彼女たちが怪我するのもめんどくさいので注意をしていたとき、突然、頭に衝撃を感じた。
痛い、と感じるよりも先に恐怖で頭の中が真っ白になった。目線の先には驚いて目を見開く2人の女子生徒。徐々に薄れていく意識の中で、私はひどい焦燥に駆られた。
──あれ、ミスした?
ハッと目を覚ますと私はベッドの上にいた。部屋の中央で養護教諭の先生と話をしている倫太朗くんの姿を見つけた。私は急いでベッドから起き上がろうと身体を動かす。
そうだ、せっかく私の居場所が出来たばかりなのに。私は取り返しのつかないミスをした。これではバレー部のみんない迷惑をかけてしまう。今まで完璧にやってきたのに、どうして今ーー
「ちょっと、なに勝手に動こうとしてんの」
「ごめんなさい、直ぐに戻れるから」
「ユキ、今はとりあえず安静にしてて」
ずっと、昔の夢を見ていた。私のつまらない過去の夢。忘れかけていた幼少期の記憶が無理やり引き出されるような感覚に吐き気がする。
最悪だ。ここに来てからはまだ1回も失敗したことなかったのに。また前みたいに独りにはなりたくない。せっかく、みんなと仲良くなれたのに。酷く焦った気持ちがどんどん表に出てきて感情が思うように抑えられない。目元が熱い…。
やめて、もう同じミスはしないから私をきらわないで欲しい。
こんな小さな失敗でも、私を不安にさせるには十分だった。何よりも、自分がバレー部の時間を奪ってしまったという事実が私の心に重たくのしかかり、どれだけ抑えようとしても溢れてくる涙が止まらなかった。
せめてもの救いを求めて倫太郎くんの服を掴んだ。離れないで、と泣いて縋る私の姿はどれだけ無様だろうか。だけど、そんなことを気にしてる余裕なんてなかった。とにかく、彼らと過ごした時間が私にとって本当に特別なものだったから、絶対に失いたくないと思ったのだ。
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