番外編
【はじまりの朝】本編直後
朝の風景は特に変わらないというのに、雨上がりのアスファルトがきらきら輝いて見える。住宅街の塀からはみ出た枝葉が濃く濡れているのも綺麗だ。
そんな輝きよりも一層明るいのは、もちろん隣りにいる日中の笑顔だった。
日中と恋人というものになって、はじめての通学路だ。歩幅をそろえてふたりで歩いている。俺は今、日中の恋人として隣りにいる。
そう! 何を隠そう、俺と日中は“恋人”なんだ!
鼻息を荒くしたところで横から日中が顔をのぞきこんでくる。美しい顔が距離などお構いなしに近づいてくるので、すごみがあった。
「小花、聞いてた?」
「あ、ごめん。聞いてなかった」
謝ったそばから、また耳に蓋をした。日中の横顔に見惚れてしまう。俺の彼氏はイケメンだ。しかも、人柄もよし、みんなから好かれている。あと、唇もやわらかい。これは俺しか知らない情報だ。
あまりに嬉しくて、俺の口から「ふへへ」と奇妙な笑いが出る。
「小花ってば」
「ごめん」
「小花のそこが可愛くて好きなところなんだけど、あんまり話を聞いてくれないと、僕も拗ねるよ」
「ええっ、日中も拗ねたりすんの?」
「これでもちょっとは拗ねてる」
完全に拗ねた日中を想像する。ちょっと見たい気もするけど、「小花なんか、嫌いだ!」と言われたとしたら、結構、立ち直れないかもしれない。やっぱりだめだ。日中には笑っていてほしいから、少しだとしても拗ねてもらっては困る。
「俺、どうしたらいい?」
「そうだな。小花が甘やかしてくれたら、すぐに機嫌は治っちゃうけどね」
「そ、そうなのか?」
「うん。小花からキスしてくれたら許すよ」
日中はにこって笑って、俺の頬を手で包みこんできた。唇を親指で撫でてくる。
何を隠そう、今朝は日中のキスで目を覚ました。瞼を開けたときに全面が日中の肌で占められていた。つむった瞼を縁取る長いまつ毛。唇全体に押し当てられた柔らかいもの。すべては日中だった。1日が日中からはじまった。
キスする。唇と唇をくっつけるだけなのに、その相手が好きな人というだけで、こんなにも緊張するんだろう。
これが平出だったら何とも思わないのに。相手が日中というだけで、すべてが変わる。全身に流れる血が顔に集まってんじゃないかというくらい熱い。
ここが道端だとか、人目がつきやすいとか、ほぼ考えてなかった。日中の閉じた瞼だけを見て、どのタイミングで顔を近づけるか、そればかり考えていた。
身長差を埋めるためにつま先立ちして、不安定な体を支えるために日中の肩を借りる。
「ちゅっ」
触れるだけ触れて、俺は日中の視線から逃げるように顔をうつむかせた。ちゃんとできたかどうか振り返るのは無理だった。どっと疲れが出て、体が重くなる。こんな触れるだけのキスで、日中に許してもらえたら奇跡だ。
「小花、ごめん。朝からこんなの、やばい」
「何で謝るんだ? 日中は悪くない……」
見られずにいた日中の顔を、ここで真っ直ぐに見た。その時に見た表情といったら、もう信じられない。日中は口を手で抑えているけど、隠れていない顔中が真っ赤に染まっている。潤んだ瞳が俺に向けられている。
どれだけ自惚れを消しても、これは日中が照れていると言っている。俺のつたないキスにも、こんなに顔色を変えてくれるんだ。
「好きだよ、小花」
「お、俺だって好きだし」
俺たちは感極まって抱き合った。こんな日中との日々は始まったばかり。
〈おわり〉