ほんとはもっと甘えたい

俺も行きたいって、言ってしまった。
思わずだ。当たり前だ。別に意味があるわけじゃないし、どうしてもってほどではないし。夏休みで、たまたま部活も休みだし。予定もないし。
浩介はそれを聞いて、眉を動かした。珍しいこともあるもんだなと言って、意地悪そうに笑った。
だったらいい。別に行かなくてもいいんだし。ムカつくから行かねえ。
と言って車を降りようとしたら、腕を掴まれた。
ついてきて。
浩介はそう言って、俺の頭を撫でた。
仕方ないから、浩介の一泊二日の出張について行ってやることにした。

泊まるのは殺風景なビジネスホテル。出張と言っても今回は浩介1人で動く偵察のようなもので、それでも一応関係ない人間を車に乗っけているのは不自然だから、観光や飲食もあまり大っぴらにはできない。
そういうことを事前に俺に言った浩介は「旅行はちゃんと、次の機会に」と申し訳なさそうにしていたけれど、俺は楽しみで仕方なかった。
旅行みたいなものだ。それもお忍びの。
前日はあまりよく眠れなかった。

約束の時間より少し早く、浩介のアパートに着く。駐車場には見慣れない車が停まっていた。
インターホンを押すと、小さめのボストンバッグを持った浩介が出てきた。
浩介はスーツを着ていた。しかも俺の好きなスーツだ。

「おはよう」
「……はよ」

ワクワクして家を早く出すぎたことや、ちょっとかっこいいとか思ったことがバレないように、全力で顔の筋肉を固める。

「あの車、なに」
「社用車。会社の車」
「あれで行くの?」
「おう」
「……変な車」

思ってもないことを口にする。車なんて本当はどうでもいいんだけど。
浩介は苦笑しながら車の鍵を開けた。
助手席に乗り込んで車内を見回す。殺風景だ。何もない。カーステもラジオだけみたいだ。

「だせえ」
「社用車がフル装備の新車なわけねえだろ」
「浩介の会社、金ねえんじゃね」
「行きたくなくなった?」
「……別に」

機嫌を損ねただろうかと思い、そっと顔を窺うと、浩介はちょっと笑っていた。

「じゃ、行くか」
「ん」
「楽しみでうちに早く来すぎたあゆちゃんのためにも」
「なわけねーだろ!降ろせ!」
「嫌だね。早くシートベルトしろ」

俺はむすっとしたままベルトをノロノロと伸ばしたり縮めたりした。

「事故ったら死ぬぞ」
「死なねえっつーの」
「お前なあ、フロントガラス突き破って外に放り出されるんだぞ。死ぬって」
「死んだらそんときはそんときじゃん」

うそぶくと、浩介は眉を寄せた。

「あゆちゃんが死んだら俺も後追うからな。うぜえだろ」

浩介が俺の後を?まさか。つまらない冗談だと思う。でも浩介は笑わない。

「……う、うぜえ」
「だから死ぬな。ベルトをしろ」
「仕方ねえな。おっさんまじ面倒」

過保護、親みてえ、とか散々悪態をつきながらベルトをしたら、浩介の手が頭に触って、引き寄せられ、素早くキスをされた。

「ちょっ、なに!」
「歩はいい子だな」
「は?」
「トイレ行きたくなったら早めに言えよ、漏らしたら恥ずかしいぞ」
「ガキじゃねえって!」
「ガキだろ」

ふわふわ浮わついたような空気を乗せて、車は動き出す。

高速に乗り、車はすいすいと進む。天気がよくて気持ちがいい。流れていく景色を見ていたら、浩介がくす、と笑うのが聞こえた。

「歩、楽しいか」

低い声に聞かれて、楽しいもんかと言いそうになり、やっぱり少し折れてやることにする。

「……多少ね」
「ふぅん」

浩介は楽しそうに笑った。その、意地悪じゃない笑顔が珍しくてちらちら見ていたら、膝に置いていた手を握られた。

「なに」
「手、繋いで」
「嫌だ。暑い」

振りほどいてドア側に体を寄せると、浩介は黙った。
そんなことしてやらない。そんな恋人みたいなこと。

「冷てえな、あゆちゃん」
「キモい」

浩介は俺が何を言ってもこうやって流す。多分、俺のことを本当にガキだと思っているからだ。ガキのすることにいちいち構っていられねえとか、多分そんな感じだと思う。そういうことを考えると、いつももどかしいような急ぎたいような気持ちになる。
早く大人になりたい。それまで浩介が待ってくれますようにと、俺はぎゅっと目をつむった。

歩、と呼ばれたような気がして目を開けると、浩介の顔が目の前にあった。

「起きたか。ホテル着いたぞ」

いつの間にか眠ってしまったみたいだ。

「浩介……仕事は?」
「これから行ってくる。チェックインするからお前ホテルで待ってろ」
「うん」
「この辺、本屋とか、おもしろそうな店がたくさんあるから、暇だったら見て回るといいよ」
「ん」

浩介と2人、荷物を持ってロビーに入る。浩介がカウンターで何かを書かされている間、落ち着かなくてキョロキョロしてしまった。

「8階だって」

浩介とエレベーターに乗る。疑問に思ったことを、隣を見上げて尋ねる。

「ホテルの人が案内してくれるんじゃねえんだ」
「ビジネスホテルだからな」
「へえ」
「お前、家族旅行とか結構連れてってもらった?」
「中学くらいまでは」
「そうか」

浩介は神妙な顔で俺を見て、頬をさらっと撫でた。

「うわー狭っ」
「いい方だって」
「これでー?」

文句を言いながらも楽しくて嬉しくて、バスルームを覗いたり引き出しを開け閉めしたりしてしまう。

「歩」

ふいに後ろから抱き締められて、俺は固まった。

「仕事行きたくない」

そう言いながら俺の肩口に唇を押し付ける浩介の腕から抜け出す。

「なにそれ子どもかよ。行けよ。大人なんだから」

浩介はタバコを1本吸ってから、夕飯は一緒に食えると思うと言って出て行った。

ホテルの周囲には確かに店がたくさんあって栄えていた。でも1人だとつまらなくて、すぐに一周してしまった。
ホテルに戻る道沿いに公園があって、その一角にうさぎ小屋があった。見るともなしに見ていると、カップルが近づいて隣に立った。
女が言う。
うわぁ、かわいいね。うさぎもいいな。
男が答える。
猫がいいって言ってたくせに。
女が笑う。
引っ越し落ち着いたらペットショップ行こうね。
男も笑う。
いいけど、飼うのは式終わってからの方がいいんじゃないかな。
仲良さそうにうさぎを観察するカップルを残し、俺はホテルへと歩き出す。
同棲。入籍。結婚式。その先に出産?育児?俺にはどれも遠い国の話みたいだ。
でも浩介にとってはどうなんだろう。
浩介は今28歳で、多分周りの友達や同僚は彼女と同棲したり結婚したり、子どもだっていても全然おかしくない歳だ。そろそろ身を固めたいと思ったって不思議じゃない。
そうしたら俺はどうなる。捨てられるんだろうか。
嫌だ。

「……浩介」

思わず声に出してしまう。
俺は自分が早く高校を卒業して、早く大人になったら、浩介に近づけるような気がしていたんだ。
だけど違う。浩介には浩介の時間が流れている。ずっと俺だけを見て待っててくれるなんて保証はどこにもない。俺との将来なんか何にも考えていないかもしれない。今は好かれて大事にされてるような気がするけど、どこかの時点で切るつもりかもしれない。
不安はどんどん膨らんで、どんよりと俺の胸を支配していく。
ホテルの部屋に戻ってテレビをつけるけれど、内容は頭に入ってこない。
携帯を取り出し、2つあるベッドのうち壁側の方に寝転がってゲームを起動する。
浩介。早く帰ってこい。
そうだ。晩メシは何を食べるんだろう。外ではあんまり一緒に動けないって言ってたし、コンビニ弁当買ってここで食べるのかな。
画面の中では次々に同じ色のキャンディが揃って消えていく。
テレビがついているのになんだか寂しくなって、ゲームの音量を上げた。

暗闇の中でまた、浩介に名前を呼ばれた。

「ごめんな。退屈だったよな」

囁くような浩介の声が聞こえる。それから衣擦れの音。ベッドが軋む気配。優しく髪を撫でていく手は、次に俺の手に触れた。
ゲームをしながら眠ったらしい。なんとなく目を開けづらく、されるがまま寝たふりをした。

「友達と遊んでた方が楽しかったか」

浩介の声はいつもより優しくて静かで、なぜだか無性に悲しくなった。

「歩は将来、何になるの」

浩介の指が耳に触れた。

「お前はいつまで、俺のものでいてくれんの」

何。なんでそんなこと。

「お前は大学とか行くのかな。それとも就職すんの?また友達がたくさんできて、それで、俺は捨てられんのかな」

目を開けようと思った。そんなわけないじゃん、バカじゃねえのって言ってやろうと思った。
でも次に浩介が言った言葉に絡まれて、俺は動けなくなる。

「まあ、仕方ないか」

仕方ない。
仕方ない、で、諦めがつくんだ。浩介は、俺のこと。
鼻の奥がつんとする。
大事にされてる気がしてた。だけど、そのくらい簡単なのかもしれない。俺とは違う、大人だから。

「あ、歩?」

浩介の声が揺れた。

「おい、どうした、歩」

揺り起こされて目を開けると、視界がふにゃふにゃしていた。
びっくりして起き上がると、ふにゃふにゃした浩介が目の前にいて、頬が熱い。

「なんで、泣いてる?」

浩介に聞かれるのと同時に、俺は浩介の首に飛び付いていた。浩介は驚いたみたいだったけど、そのまま抱き締めてくれた。
何も話したくない。言い訳は聞きたくなかった。俺よりずっと頭のいい浩介に、今ここで言いくるめられることだけは避けたいと思った。
「仕方ない」という言葉がぐるぐる回った。
浩介は何も言わない。ぎゅっと腕に力を込めたら、同じだけ抱き返された。
まぶたが熱い。まさか泣くなんて、と唇を噛み締める。

「歩」

しばらくそのままじっとしていたら、名前を呼ばれた。それでもまだ黙っていたら、浩介はふっと笑った。

「寂しかった?」

腹が立つ。そんなんじゃない。全然そんなんじゃないのに。

「怖い夢でも見たか?」
「黙れよ」

きつい口調になった。
浩介は俺を離すと真顔で俺の目を覗き込んでくる。

「歩?どうした。なんかあったのか」

あったよ大ありだよバカ。
言いたいことはたくさんあって、それが全部こんがらがってぐちゃぐちゃして喉にひっかかっているみたいに、言葉が何も出てこない。

「歩」

もう呼ぶな。その声で俺の名前を。
浩介を黙らせたくて、他に方法も思い付かずに唇を塞ぐ。舌を入れて浩介の前歯を舐めた。奥から差し出される浩介の舌を避けて、そのもっと奥へ舌を差し込む。
気持ちがぐちゃぐちゃだった。せっかく旅行みたいなことをできたのに。さっきまで、ホテルに着くまではすごくすごく楽しかったのに。どうしてこんなことになったんだ。どうしてこんなに胸が詰まるんだ。
浩介の唇を唾液まみれにして、そのままベッドに押し倒す。

「歩」

驚いて見上げる浩介を俺は見られない。目が合うと泣いてすがってしまいそうだったから。どうして俺をずっと連れていてくれないの、と。
いい。いいや。もう自分でも訳がわからない。

「浩介」
「歩、お前、」
「ヤろ」

浩介は少しの沈黙の後、今?と聞いた。

「今。このまま」

言いながら浩介のワイシャツのボタンを外していく。
俺の目にはまだ涙の雫が残っていて、目尻が滲んでいるのがわかる。

「頼むって。めっちゃくちゃに、して」

声がか細くならないように、腹に力を入れる。

「お前、どうしたの、なんか変」

戸惑う浩介に、自然と笑みがこぼれた。

「いいから。話はしたくない」

なぜだろう、いつもは絶対に浩介の前でできないような、綺麗な笑顔を浮かべることができた気がした。
案の定、浩介は目を見開く。そして珍しく不安そうな表情を浮かべた。それを、俺の中の俺が冷静に見つめている。
不安にでも何でもなればいい。俺なんか具合が悪くなるほど不安なんだから。
浩介に跨がってキスをしながら自分の服を脱ぐ。キスだけでもう息が荒くなって、それは戸惑っていたはずの浩介にも移る。
はあはあと息をしながら、浩介のスーツのズボンを太ももまで下げて、下着姿のそこを擦り合わせると、俺も浩介も勃っていた。
心を支配していたぐちゃぐちゃの塊が、快楽に押し流されていく。

「はぁ、あぁ、……こうすけっ」

俺の下着には先走りが染みている。それを浩介の下着に塗りつけるみたいに腰を動かしたら、浩介が熱い息を吐いた。

「浩介、んっ、気持ちいい?」

目が合うと、浩介は俺を横に転がして覆い被さってきた。口全体を塞がれるみたいに激しく口づけられて、浩介の頭を掻き抱く。
浩介の手が下着の上から俺のものを撫でた。もっと強くとねだるように腰を浮かせて、浩介の下着を下ろす。

「ほんと、どうした」

ポツリと零れた浩介の言葉も、今は心からどうでもよかった。
なにも考えたくない。なにも答えたくない。
浩介の体を押し返して、また浩介の上に乗る。今度は体の向きを逆にして、浩介の目の前に下半身を晒した。

「浩介の舐めたい。俺のも、して」

一言だけ発して、俺は初めて浩介にフェラをした。

「ちょっ、と、待て」

浩介が慌てた声を出した時にはもう、浩介のものの先端が俺の口に飲み込まれていた。

「んっ、んん、」

熱い。熱くて硬い。先端から少ししょっぱいものが出て、俺はそこに舌の先を押し当てた。

「っ、歩、っはぁ、」

浩介の堪えるような声が聞こえて、ひどく興奮した。自然と腰が揺れてしまう。次の瞬間。

「んぐ、あっあぁんっ」

自分のものに吸い付かれて、思わず浩介のものを放してしまった。
じゅるじゅる、じゅぷ、と音をたててしゃぶられ、腰が逃げる。それを両腕で抑え込まれ、浩介の口に出し入れを繰り返させられた。

「あっ、あっ、あぁ、や、やだ、っあぁ」

イってしまいそうになって慌てて目の前の屹立に舌を這わせると、浩介が鼻から息を吐き、くぐもった低い声を上げた。
ただ一方的にしてもらういつものセックスよりずっと気持ちがよかった。浩介の声や息をもっと乱したくて、喉の奥までくわえる。

「歩、ヤバい。待って」

浩介が急に焦ったような声を上げて、俺の興奮も頂点に近づく。浩介の太ももをしっかり掴んで、くわえたまま頭を上下させた。

「待てって、おい」

浩介が上体を起こす気配がした。そしていきなり、思いきり晒している後孔にぬめりを帯びた何かが挿入された。

「んくっ、や、っあ!んっ、やめっ、」

振り向くとそれは浩介の舌で、くにくにとイヤらしく動いてそこを拡げていく。

「浩介!やめろっ、てばっ、ずるい」

浩介は舌を抜かない。もっと奥へと進もうとする。
俺は意地になって快感に耐えながら、再び浩介のものを口に含み、わざと大きな音をたてて啜った。

「はぁっ…は……歩」

熱い吐息と共に舌が抜かれ、甘く上擦ったような声で名前を呼ばれて、身震いが走った。ものすごい力で後ろから抱き起こされ、そのまま組伏せられる。
息が上がったまま見上げると、久し振りにまともに浩介と目が合った。
こんなに、こんなに優しい目で俺を見るくせに。
仕方ないって、俺を諦めるんだな。
それ以上じっとしていれば簡単に快楽の波が引いてまた情けないことになりそうで、奥歯を噛み締めてうつ伏せになった。

「歩?」
「……浩介。後ろから、して」
「お前、今日、」
「なぁ、いいから早く。お願い。バックで犯して、浩介ので」

尻を高く上げて、浩介が濡らした穴を見せつける。
早く。早くして。
早くめちゃくちゃにしてくれないと、苦しくて大声で泣いてしまいそうだ。
背中から包まれるように抱かれて、肩や首筋にキスをされる。その間、浩介の腰がゆっくり動いて、太ももや尻に熱いものが当たった。

「浩介」
「大丈夫なの、お前」
「早くっ、つってんだろ」
「……歩」

切なげに響いた声と共に、中に浩介が入って来る。

「ううっ…あ…」

ベッドについた両手を浩介が上から握る。ゆっくりゆっくり労るように進む浩介に、苛立ちが募った。

「っ、早く…!こうすけ、もっと、うっ、激しくして…!」

すると浩介は、ため息を吐いてから笑った。

「無理。こんなに大事なのに、優しくしないなんて無理」

どうして今そんなことを言う?

「やめろ、そういうの」
「なんで?」
「いいから……頼むってば……お願い…浩介……」

胸が苦しい。優しさがつらい。
堪えきれなくなって、涙が一滴零れたと同時。
浩介が一番奥を突いた。

「っあ゛ぁっ!あ、あっ!あっ!あっ!やぁぁ!」

腰を掴まれて思いきり腰をぶつけられる。

「何なんだ、お前は」

呟いた浩介の声は振動で揺れている。

「歩、歩」
「あっ!ああ、や、浩介っ!」
「好きだ。歩」

聞きたくない聞きたくない聞きたくない。
振り払うように首を左右に振って、繋がっている体にだけ集中する。願った通りに激しく揺さぶられながら、何が悲しいのかもう訳がわからなくなった。
ずっとこうしていたい。話なんかしたくない。嫌なことは聞きたくない。

「歩」
「もっと、もっとして…!あっ、ん、きもちいい…!」
「っ、はぁ、あゆむ、」

浩介の腰の動きが激しさを増す。パンパンパンと乾いた音をたてて肌と肌がぶつかっている。

「あ゛っ、あーっ、だ、だめ、もうっは、はぁっあああっ!」
「…あゆ…っ」
「イく、イくぅっ、こう、すけぇっ!あっ、く、うぅっ…!」

目を瞑ると、浩介のものが出ていき、俺は激しく射精しながら体を震わせた。
浩介も低く呻いて、ああよかった、これで少し楽になったとなぜか安心した俺は、静かに体の力を抜いて、眠った。



目を開けても真っ暗で、回らない頭で考えていると、後ろから規則的な寝息が聞こえて全てを思い出した。
結局、ヤっても何も解決しなかった。わかっていたことだけど。
帰らなきゃ。それしか考えられなかった。朝になれば、いろいろ問い質されるに決まっている。もう、説明するのも面倒だ。傷つくのも嫌だ。
そう思うと居ても立ってもいられない。
起き上がろうとすると、後ろから俺の体を抑え込んでいる腕に力が加わった。
舌打ちをしたいような気持ちで、ゆっくり浩介の腕を持ち上げる。そろりと体を動かし、ベッドから抜け出した。

「…歩?」

呼ばれて驚いて声を上げそうになり、また心の中で舌打ちをする。

「どこ行く…?」
「……トイレ」

一度ユニットバスのドアを開けて中に入る。
眩しくて目をしばたくと、鏡には腫れぼったい目をした自分の顔が写っていた。
しばらくして、部屋に続くドアをそっと開けると、なんと電気がついていた。

「大丈夫か」

浩介はベッドに腰かけてタバコを吸っていた。

「歩、腹減った?」
「今、何時」
「9時」
「……朝?」
「夜。お前、覚えてないのか?」

心配そうな顔をした浩介が近づいて、俺は逃げるように後退ってしまった。

「歩?」
「ちょっと」
「何。座れば?」
「いい」
「いいって……」
「俺、帰るわ」

は、と言って浩介は固まり、みるみるうちに険しい表情になった。

「帰るって?」
「うん」
「どうして。今から?どうやって」
「駅行けばなんとかなんじゃねえの」
「いや、なんで」
「うるせえ。とにかく帰るから」

荷物を掴むと、その手を捕まえられた。

「なあ、どうしたんだよ。言えよ。さっきからおかしいだろ」
「話したくない」
「歩」
「話したくないっつってんじゃん!しつこい!」

力任せに手を引くと、浩介の手が俺を放した。
思わず見上げると、浩介は、見たことのない顔をしていた。
浩介を傷つけたということはすぐにわかった。わかるような顔をしていた。
どうして。俺の言葉なんかいつも簡単に流すくせに。どうしてそんな顔をしてるの。
俺よりずっと歳上の、大人のくせに。
すぐに視界がふにゃふにゃになり、浩介の悲しい顔がぼやけた。

「なん、で…そんな顔してんだよ…浩介、の、バカ…」

絞り出した声は、湿っていて気持ちが悪かった。浩介は俺の頭をくしゃっと撫でた。

「聞きたいのはこっちだって。何言ってんの、お前はさっきから。とりあえずちょっと落ち着け。座れよ」

帰りたい。聞きたくない。俺はまだ何の勇気も出ていないんだから。首を横に振って、立ったまましばらく泣いた。
すると浩介は、俺を無理矢理抱き上げた。

「…降ろせっ」
「嫌だ。いいから来い」

体をひねって降りようとすると、浩介は言った。

「頼むから。黙って居なくなるな」

浩介は、動けなくなった俺をベッドにぽんと降ろし、その横に座って俺の肩を抱いた。

「歩」

どこから話せばいいのかわからない。何を考えてこうなったのか、自分でもよくわからないんだから。
黙っていると、浩介は別のことを聞いてきた。
俺が仕事行ってる間、お前何してた。
優しい声だった。
まず何をしたっけ。俺はぽつぽつと話し出す。

浩介が出ていってから、部屋をもう一回見て回った。
携帯と財布だけ持って部屋を出ようとして、オートロックのカードキーを慌てて取りに戻った。
CD屋や本屋を見たけど、1人ではつまらなかった。
服屋はなんとなく入りづらくてやめた。
公園でうさぎを見た。
結婚する直前のカップルに会った。

そこまで話して、思い出す。聞きたかったことを。

「浩介さ、俺じゃなくて、女の人と付き合って結婚したいとか、思うことねえの?」

びっくりするほどスルリと言葉が出た。
浩介は眉をひそめて唸った。

「……そんなことで泣いてたのか?」
「そんなことって!すげえ問題なんだって!」
「お前な……歩が事故ったら後追うってあれ、冗談じゃねえからな」

一瞬何のことかと考えてしまった。

「何、今それ関係ない」
「考えろ。ガキ」
「なんで!意味わかんねえ」

浩介は、座ったまま俺を力いっぱい抱き締めた。

「苦しいっ」
「俺がお前をどんなに好きか、わかれ」

浩介がどれだけ、俺を好きか。そんなのわからない。

「歩。もう言わねえからよく覚えとけよ」

浩介が言うから、聞き逃さないように耳を澄ます。耳が浩介の胸にくっついているから、浩介の声が響いて一層低く聞こえる。

「俺はお前よりずっと年上だから、情けないところはお前に見せたくないってカッコつけてるけど。本当は、高校卒業したお前が『もう浩介はいらなくなった。バイバイ』ってあっさりいなくなるんじゃねえかって考えたら怖くて、お前に進路すら聞けねえんだよ。だけどお前みたいに素直に泣けないし、年だけとってるけど、中身なんかお前とそう変わらねえよ」

でもさっきは。

「浩介、さっきさぁ…」
「うん」

顔は見られたくないから、抱き締めてくる腕にしがみついた。

「……仕方ないって言った」
「何を?」
「俺と別れても仕方ないって」

早口で言い切る。また涙が出そうだったから。
浩介は少し考えてから、ああ、と言って笑った。
その穏やかな笑い声を聞いたら、なんだか気持ちがとても落ち着いた。安心して顔を上げることができた。

「俺は歩より狡くて弱いんだよ」

そう言って浩介は僅かに眉を下げた。

「お前がいつ俺から離れてもいいように、その時のショックが少しでも小さくなるように、仕方ないって言い聞かせるんだよ。格好悪いだろ、そんなこと知られたくなかったよ」

浩介が弱い?格好悪い?それを俺には隠してた?
なんだか不思議な気がした。大人でも俺みたいなことを考えるんだ。

「浩介、俺のこと信じられないってこと?」
「そうじゃない。ただ、人生なんて何が起きるかわかんねえ。お前が本気で今俺のことを好きでも、もっと魅力的に見えるやつがいつ現れてもおかしくないから。もっと若いやつとか。それは誰のせいでもないし、起きないとは言い切れないだろ」
「……そんなの、考えたらキリない」
「そう。だけどいつもどこかでそういうことを考えてた」

変だ。こんなの、俺が知っている浩介じゃない。

「変だ。そんなの」
「変か」
「変。浩介じゃねえみたい」
「でも俺だよ、それが」

幻滅したか、と聞かれて、別に、と答える。
安心した。言葉にはできないくらい、重かった気持ちがぽんと軽くなった。

「俺の進路」
「……決めてるのか」
「整備士。車の」

浩介は俺の顔を見ている。

「専門行く」
「専門学校?」
「うん」
「そうか」
「実家は出る」
「……一人暮らし?」
「一回はしたいじゃん、やっぱ。親から離れたい」
「そうか」

浩介は、もしかして、今も、聞きたいことを俺に聞けないんだろうか。

「浩介」
「うん」
「……俺、一人暮らししたら」
「うん」
「今より、浩介んちに泊まりに行けるけど」
「うん」
「……行っていい?」

俺だって怖いのに。こんなこと聞くの。でも、浩介もそうなのかと思ったら、意外と勇気が出た。
浩介は優しい顔をした。普段絶対しないのに。

「いいよ。来い。来て」

低い声。大好きな声。
浩介はまた俺を力いっぱい抱き締める。

「うれしいよ。歩、ありがとうな」

本当に安心したような声で浩介が言うから、なんだか変な感じがして、思わず笑ってしまった。

「浩介、変なの」
「何が」
「全部。全部、変」

浩介にこんなところがあるなんて、全然知らなかった。
浩介は大きく息を吐いて、俺を抱いていた腕を解いた。

「歩。腹減らない?」
「まあ、少し」
「メシ食いに出るか」
「……出ていいの?」
「もう時間も遅いし誰かに会うこともないだろ。居酒屋くらいしか開いてないかもしれないけど」

いい。居酒屋だってなんだっていい。浩介と外で飯を食うなんて、滅多にない機会だから。
頭を撫でられながら思う。ま、言ってはやらないけど。

外に出て、一緒に知らない街を歩く。
さっき一人で歩いた時とは違う。
キラキラして、明るく見える。
街灯やネオンのせいだ。きっと。
自分に言い聞かせながら、浩介と並んで歩いた。



帰りの車の中、寝ないように缶コーヒーを飲みながら窓の外を見ている。

「お前が整備士になったら、車検とか頼めるのかな」

ハンドルを片手で操作しながら浩介が言う。

「やってやってもいいけど。別に」

答えると、繋がれた手がぎゅっと握られた。たまになら、手も繋いでやってもいい。仕方ねえから。

「次、旅行はどこに行こうな」

別にどこだって。浩介と行けるなら多分どこでも楽しいから。
付き合ってやってもいいよ。どこでも。






-end-
2013.8.13
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