安達さん、シット。
「安達さん。お話があるんですけれど」
僕は深刻な顔でこう切り出しました。
安達さんの家のソファに座って、ラジオを聴きながらカルピスを飲み、団欒していた時のことです。
言おう言おうと思いながらもう一週間も無駄に過ごしていたので、今日こそはという決意のもと、僕は安達さんの家に上がり込んでいました。
安達さんは僕を見返して「なんですか」と優しく言いましたので、僕は腹を決めて口を開きました。
「僕は、太ってしまったのです」
「ふむ。そうかい」
安達さんは表情を変えず、深く頷きました。
「安達さんと出会った頃に比べたら、三キログラムも重いのです」
「猫一匹抱いていると思えばどうってことないね」
「しかし僕は猫を抱いていませんし、大学もバイトもさぼらないで行っているのにどうしてこんなことになったのかと考えて、それで」
安達さんは僕の必死さに気づき、僕の顔をじっと見つめました。
「そうだね。それで、答えは出たのかい」
「それは」
僕が口ごもると、安達さんは体ごと僕に向き直り、顔を覗き込むようにしました。
「まさか君、もう僕のシチューを食べないと言い出すんではないだろうね」
僕は思わず安達さんから目を逸らしてしまいました。そこで安達さんはさらに僕の両肩をがしっと掴み、揺すぶりました。
「みっちゃん。まったくこの子は正気かな。何を言いだすかと思えば」
そしてゆっくりと続けます。
「太っていることが罪なのではない。魅力的であり続けようとしないことが罪なのだ」
太っていたってみっちゃんは十二分に魅力的ですよ、と言い、安達さんはうつくしい顔で微笑むのです。
「でも僕は」
「みっちゃん。私は君のみてくれを気に入ったのではないよ。君の友人はどうだい。ご両親は。バイト先の店長さんは。みてくれで付き合っているのかい」
「違うと思います、けれど」
「ああ! 嘆かわしい!」
安達さんは突然悲嘆に暮れ頭を抱えて叫び始めました。
「あのシチューの大好きなみっちゃんが、みっちゃんのためだけに丹精込めて作る私のシチューを金輪際食べないなんて!」
「安達さん、僕はなにもそこまでとは」
「寂しくて死んでしまいそうだよ、みっちゃん、私がどれだけ、みっちゃんが美味しそうに私のシチューを食べる様を気に入っているか君にはわかるまい! それは私にとって、生物にとっての酸素くらい、魚にとっての水くらい、芸術家にとっての自由くらい、また政治家にとっての金くらい、取り上げられたら死してしまうほど大切なものだというのに……ああみっちゃん。君は私からそれを取り上げようと言うのだね……まあ仕方がない……何もかも君の自由さ……ああ……」
最後にはソファにぐったりと倒れこみ、息も絶え絶えとなってしまった安達さんの腰のあたりに、僕はたまらず抱きつきました。
「安達さんのシチューを断つのはやめにします。その分僕は運動をします。おやつを食べるのをやめます。だから安達さん、どんかそんなに落ち込まないで」
そばにあった安達さんの手の甲に、僕はキスをしました。
「ああ……みっちゃん……なんて優しい子なんだろう……愛している、愛しているよ、みっちゃん……だがどうか、私のために無理をしないでくれ……」
安達さんの声はどんどん消え入りそうになっていきます。
「いいえ安達さん、無理だなんて、僕、安達さんを傷つけるつもりなんかなかったんです。どうか元気を出して下さい」
「いいんだよみっちゃん。私の人生には常に絶望がついてまわるのさ……これまでもそうだった……しかしみっちゃんという宝物に出会って、私の目は少しばかりくらんでいたのかもしれないな。そうだ……君には君の人生があるのだ……私に縛られることはない。その美しい翼で、大空へ飛び立ってごらん。私にその雄姿を見せてくれ。ああ……それはそれでひどく幸せだよ、みっちゃん……さあ、薄汚い私の最期を、君のくもりなき眼に焼き付けないで……その前に旅立ちを、さあ、どうか……後生だよ……」
「安達さん! 死なないで!」
僕の声はほとんど悲鳴のようになりました。安達さんが本当に瀕死のように見えたからです。
「ごめんなさい、僕、ひどいことを言って……お願い安達さん、僕を置いて行かないで下さい。一人にしないで、安達さん……僕もあなたを愛しています……!」
涙すら出てきました。
安達さんの着ている深緑色のカーディガンに顔を押し付けて、僕は泣きました。
すると安達さんは深呼吸をしました。
「みっちゃん。豆はどうだろうね」
先程までとはうってかわってしっかりとした発声です。
「……マメ?」
「豆のシチューなんかは、体にいいんじゃないか。ヘルシーだし。そして白米を食わなければいいのでは。どうだろう。豆ね……豆……」
ぶつぶつと呟きながら、安達さんは何事もなかったかのようにキッチンへ立ちました。
僕は自分が泣いていることが急に恥ずかしくなり、服の袖で顔を拭きました。
「みっちゃん。私はこれから買い物に出るよ。豆を買いにね。みっちゃんはどうする。留守番しているかい」
「いいえ。僕も行きます。運動をしなければ」
すると安達さんは、僕の体を強く抱きしめました。
「みっちゃん。私を愛していると言ってくれたね。とても嬉しいよ。私も、それはそれは君のことを愛していますよ」
僕はとっても幸せな気持ちで、もう少し太ってもいいかもしれないなどと考えたのでした。
2018.6.8
僕は深刻な顔でこう切り出しました。
安達さんの家のソファに座って、ラジオを聴きながらカルピスを飲み、団欒していた時のことです。
言おう言おうと思いながらもう一週間も無駄に過ごしていたので、今日こそはという決意のもと、僕は安達さんの家に上がり込んでいました。
安達さんは僕を見返して「なんですか」と優しく言いましたので、僕は腹を決めて口を開きました。
「僕は、太ってしまったのです」
「ふむ。そうかい」
安達さんは表情を変えず、深く頷きました。
「安達さんと出会った頃に比べたら、三キログラムも重いのです」
「猫一匹抱いていると思えばどうってことないね」
「しかし僕は猫を抱いていませんし、大学もバイトもさぼらないで行っているのにどうしてこんなことになったのかと考えて、それで」
安達さんは僕の必死さに気づき、僕の顔をじっと見つめました。
「そうだね。それで、答えは出たのかい」
「それは」
僕が口ごもると、安達さんは体ごと僕に向き直り、顔を覗き込むようにしました。
「まさか君、もう僕のシチューを食べないと言い出すんではないだろうね」
僕は思わず安達さんから目を逸らしてしまいました。そこで安達さんはさらに僕の両肩をがしっと掴み、揺すぶりました。
「みっちゃん。まったくこの子は正気かな。何を言いだすかと思えば」
そしてゆっくりと続けます。
「太っていることが罪なのではない。魅力的であり続けようとしないことが罪なのだ」
太っていたってみっちゃんは十二分に魅力的ですよ、と言い、安達さんはうつくしい顔で微笑むのです。
「でも僕は」
「みっちゃん。私は君のみてくれを気に入ったのではないよ。君の友人はどうだい。ご両親は。バイト先の店長さんは。みてくれで付き合っているのかい」
「違うと思います、けれど」
「ああ! 嘆かわしい!」
安達さんは突然悲嘆に暮れ頭を抱えて叫び始めました。
「あのシチューの大好きなみっちゃんが、みっちゃんのためだけに丹精込めて作る私のシチューを金輪際食べないなんて!」
「安達さん、僕はなにもそこまでとは」
「寂しくて死んでしまいそうだよ、みっちゃん、私がどれだけ、みっちゃんが美味しそうに私のシチューを食べる様を気に入っているか君にはわかるまい! それは私にとって、生物にとっての酸素くらい、魚にとっての水くらい、芸術家にとっての自由くらい、また政治家にとっての金くらい、取り上げられたら死してしまうほど大切なものだというのに……ああみっちゃん。君は私からそれを取り上げようと言うのだね……まあ仕方がない……何もかも君の自由さ……ああ……」
最後にはソファにぐったりと倒れこみ、息も絶え絶えとなってしまった安達さんの腰のあたりに、僕はたまらず抱きつきました。
「安達さんのシチューを断つのはやめにします。その分僕は運動をします。おやつを食べるのをやめます。だから安達さん、どんかそんなに落ち込まないで」
そばにあった安達さんの手の甲に、僕はキスをしました。
「ああ……みっちゃん……なんて優しい子なんだろう……愛している、愛しているよ、みっちゃん……だがどうか、私のために無理をしないでくれ……」
安達さんの声はどんどん消え入りそうになっていきます。
「いいえ安達さん、無理だなんて、僕、安達さんを傷つけるつもりなんかなかったんです。どうか元気を出して下さい」
「いいんだよみっちゃん。私の人生には常に絶望がついてまわるのさ……これまでもそうだった……しかしみっちゃんという宝物に出会って、私の目は少しばかりくらんでいたのかもしれないな。そうだ……君には君の人生があるのだ……私に縛られることはない。その美しい翼で、大空へ飛び立ってごらん。私にその雄姿を見せてくれ。ああ……それはそれでひどく幸せだよ、みっちゃん……さあ、薄汚い私の最期を、君のくもりなき眼に焼き付けないで……その前に旅立ちを、さあ、どうか……後生だよ……」
「安達さん! 死なないで!」
僕の声はほとんど悲鳴のようになりました。安達さんが本当に瀕死のように見えたからです。
「ごめんなさい、僕、ひどいことを言って……お願い安達さん、僕を置いて行かないで下さい。一人にしないで、安達さん……僕もあなたを愛しています……!」
涙すら出てきました。
安達さんの着ている深緑色のカーディガンに顔を押し付けて、僕は泣きました。
すると安達さんは深呼吸をしました。
「みっちゃん。豆はどうだろうね」
先程までとはうってかわってしっかりとした発声です。
「……マメ?」
「豆のシチューなんかは、体にいいんじゃないか。ヘルシーだし。そして白米を食わなければいいのでは。どうだろう。豆ね……豆……」
ぶつぶつと呟きながら、安達さんは何事もなかったかのようにキッチンへ立ちました。
僕は自分が泣いていることが急に恥ずかしくなり、服の袖で顔を拭きました。
「みっちゃん。私はこれから買い物に出るよ。豆を買いにね。みっちゃんはどうする。留守番しているかい」
「いいえ。僕も行きます。運動をしなければ」
すると安達さんは、僕の体を強く抱きしめました。
「みっちゃん。私を愛していると言ってくれたね。とても嬉しいよ。私も、それはそれは君のことを愛していますよ」
僕はとっても幸せな気持ちで、もう少し太ってもいいかもしれないなどと考えたのでした。
2018.6.8