あなたたち、狙われていますよ。
~営業企画課~
俺は見てしまったのだ。心から尊敬し、憧れてやまない先輩たちの修羅場を。
「柏木をこれ以上追い詰めたら、いくら気心の知れた同期でも許さないよ?」
我らが営業企画課の先輩であり筋肉布団、由梨さんの頬をそう言いながら撫でたのは、お隣の営業課の王子、宮園さん。微笑んではいるものの、その目には怒りが宿っているように見える。
焦った表情の由梨さんの目の前には、身を縮めて涙目になっているもう1人の王子、柏木さん。
どんな状況なの…?
とにかく俺は放尿どころではなくなり、急いで席に戻って隣の佐野に見た状況を報告した。
「何?何?なんなのそれ?」
「わかんないよ。どうしよう。とにかくやばい」
「やばいよ」
「やばいよね」
「やばい」
俺も佐野も興奮状態で言葉がうまく出てこない。
そうこうしていると由梨さんが課に戻って来たので俺たちは体を竦ませて様子を窺った。
由梨さんはゴツい手でハンカチを取り出し汗を拭いている。
表情は若干暗い。
積み上げられた資料に隠れるようにして佐野と会話を再開する。
「おかしいよ。由梨さんと宮園さんは割と仲がいいでしょ」
「そこに柏木さんが絡んで?宮園さんが柏木さんを庇う?何があった……」
「由梨さん……もしかして、課を超えてなんか、なんか……」
「なんだよ」
「パワハラ……?とか……だって、『追い詰めたら』って言ったんだよ」
「あり得ねえよ、由梨さんだぞ?あんななスポーツマンシップの塊みたいな人がそんな陰気なこと……」
「じゃあ何よ?」
「わかった」
「何」
「柏木さんが由梨さんの女を寝取ったんだよ」
「え!柏木さんがそんなことを……」
「絶対そうだよ。それで怒った由梨さんが柏木さんを責めて、それを宮園さんが庇ったんだ。どんな女だって由梨さんより柏木さんの方がいいに決まってるだろ?」
「酷いな。お前、由梨さんのことバカにしてんの?」
「してない。してないけどお前もよく考えてみろ。筋肉布団と営業成績トップの王子だぞ。お前ならどっちよ?」
「柏木さん」
「即答じゃん……酷いな……俺は宮園さんだけど」
「おい酷いぞ……」
仕事そっちのけでそんなことを話していると、由梨さんに「おい」と声をかけられてビクつく。
「雑用で悪いんだけどさ。山内と佐野で明日の打ち合わせの資料仕分けといてくれるか」
「はい」
「喜んで」
「悪いな。今日はちょっと、定時で上がるわ」
由梨さんは寂しげな笑みを残して帰って行く。
その筋肉もりもりの後ろ姿を見送り、俺たちは同情を抱きながら呟いた。
「やっぱ柏木さんがいいな」
「俺は宮園さん」
~営業課~
「かーしーわーぎー。そろそろ帰ろうよ。今日塚本のペットショップに付き合う約束があるんだってば」
宮園さんの声が聞こえる。
「あと1分待って下さい」
「大丈夫だって。由梨ならさっき帰ったよ」
「その名を口にしないで下さい吐きそう…」
「もしかして孕まされたんじゃないの?」
殺意。
「未遂ですから!」
それにその顔で孕むとかいう言葉遣いをしないでほしい。
「わかってるよ。あーもう……」
宮園さんのため息を聞きながら、今日は珍しく俺を庇ってくれたな、と、ぼんやりした頭で考える。
俺と宮園さんを隔てるのはトイレの個室の扉だ。個室に篭っているのは俺で、宮園さんはそれに付き合ってくれている。
しかしひどい。あの先輩のゴリラはひどい。会社のトイレで迫ってくるとは。全身筋肉なだけはある。
これからは通勤に麻酔銃が必要なのか。
「ところで塚本のペットショップって何ですか」
「なんかね。一人暮らしが寂しいから猫でも飼うかって悩んでるみたい。そんなもの必要ないのに」
「塚本に合う首輪を買ったりしないで下さいね」
「ふふ」
何を笑っている。
「鳴海に会いたい……」
「想いは通じたんでしょ?どうなの、その後」
「忙しくてあれっきりです」
「勿体無いなあ」
「宮園さんこそ塚本とどうしたんですか。どうせ何もしてないんでしょう」
「えー?もうヤりまくりだよ」
思わずドアを開けて個室を出た。
「嘘」
「本当」
「嘘だ」
「本当だってば。なんなら写真見る?」
携帯を取り出した宮園さんの手を掴み、見たくないものを全力で封じ込める。
「いいです」
「そう?可愛い顔がたくさん撮れたから」
信じられない。何って人にその写真を見せようとする倫理観だ。
「寂しいから猫を飼いたいなんて、きっと俺に一緒に住もうって言ってほしいんだ。可愛いな。食べちゃいたいよ」
摘み取った木苺を食べたいとでも言うような爽やかな笑みに鳥肌が立つ。
のろのろ動いて手を洗い、用を足してないんだから洗わなくてもよかったか、いやあいつに触られた手だ、洗車用の洗剤が欲しいくらいだ、などと考えていると、廊下の方から足音が近づいてきて思わず宮園さんの影に隠れた。
「う、あ、す、すみませんっ」
入ってきて俺たちに気づき、なぜか明らかに狼狽したのは営業企画の、ゴリラの後輩の1人だった。
「出直します!」
「山内」
踵を返す姿に、咄嗟に声をかけた。
振り返った山内はみるみる顔を赤くする。
「お前の先輩、もう帰った?」
「せ、あ、由梨さんですか?」
「そうそれ」
「あ、はいっ、もう今日は、あの、帰還されました」
帰還って。
でもよかった。一安心だ。
「あの……柏木さん……」
「ん?」
「名前……あの、俺なんかの名前でも、覚えて下さってるんですね」
「当たり前だろう。会議で一緒になることもあるし。第一お前だって俺の名前を覚えてるじゃないか」
「はっ、あっ、それは、そう、そうですか、はい、はい」
首が取れるほど頷く山内に、なんだかちょっといい考えが浮かぶ。
ゴリラに復讐だ。
「なあ。山内」
ニコニコしている宮園さんを避けて山内のすぐ前に立ち、見下ろす。山内は鳴海と同じくらいの背丈だった。
平和そうな顔をして。
「俺さ。ちょっと最近、ゴリ、いや、由梨さんのことで悩んでて。お前たちにはいい先輩か?」
憂い顔を作って聞くと、山内は途端に心配そうな顔をした。
「あの、そうですね、僕らにはあの、そう、そうかな、優しいかな、仕事もできるような気がし、しますし」
「……そうか……」
「どどどどうしたんですか」
一旦視線を外すと、宮園さんが乗ってくる。多分面白がって。
「柏木。いくらなんでも由梨の後輩にあんなこと打ち明けちゃダメだよ。由梨と彼らの関係も大事なんだから。いくらあんな酷いことされたからって。ね」
「……ですね」
諦めたように微笑んでから、俺は山内の顎を指先で優しくすくった。
真っ直ぐに見上げてくる山内の視線を正面から受ける。
「由梨さんに敬意を持って、後輩として慕ってついていけ。学ぶことも多いだろう。でももし由梨のことで何か悩むようだったら、俺のところに来い」
しまった。さん付けんの忘れた。まあいいや。
「いつでも相談に乗るから。わかった……?」
顔を近づけ、低い声で囁くと、山内は体を震わせた。
面白いやつめ。
「わかりました!絶対にそうします!俺、俺、何があっても柏木さんについていきます!あの……尊敬してます!失礼しました!」
敬礼でもしそうな勢いで走って出て行った山内が、これから由梨さんにどんな態度で接するか、見ものだ。
「楽しい」
「楽しいね」
「鳴海に会いたい」
「あ、塚本迎えに行かなくちゃ」
多少溜飲を下げた俺たちは、やっとトイレを出た。
~営業企画課~
また用を足しそびれた。
「やっぱり柏木さんは貴公子だよ。王子様だ。みんなの王子様だったんだよ」
「どしたの」
課に戻るなり、資料整理をしていた佐野に報告する。
まだ顔が熱い。柏木さんの指、細くて長くて、でも男らしい手だった。
「柏木さんに話しかけられちゃった……」
「いいなぁ。宮園さんも一緒だったんだろ?」
「どんな女だって由梨さんより柏木さんがいいに決まってんだろ!当たり前だ!ふざけんな筋肉布団!」
「山内。それさっきの俺のセリフだけどそれより結構酷い」
「うるさいな。もう俺は決めたんだ。柏木さんについていく」
「落ち着きなさい、まず由梨さんのこの仕事を」
「知らん。あのムキムキはみんなの王子に何したんだよ。筋肉の布団なんか着込んでるからそんなことになるんだよ。ほんと勘弁して。今月のあの人の残業代でピザを何枚か頼んで自宅に届けてやりたい」
「何枚かっていうどうにかできそうな感じが微妙に嫌だな……」
「あーあ。クソ。鳴海が羨ましい。俺も柏木さんの下僕になりたい」
「どうしたのよ山内怖いよなんか」
佐野が引いている。
とにかく由梨さんが柏木さんに何か酷いことをしたのは明白だ。
「腹立つ…」
「温かいお茶でも飲む?」
「女子かよ」
くだらない話をしているところへ通りかかったのは数少ない女性の同期の村井だった。
「あ、村井」
「おつかれー。残業?」
「村井さ、営業の宮園さんと柏木さん知ってる?」
村井は総務課だ。
「知ってるよー。名前だけ」
「顔は?」
「ちらっと見たことはあるけど」
「どう思う?」
うーん、と考える横顔は愛嬌があってかわいらしい。俺も佐野もちょっといいなと思っている。
「よくわかんないな。話したことないからなー」
中身を知らずには語らない。
「村井はそういうとこがいいね」
「わかる」
「その2人がどうしたって?」
「今度話しかけてみてよ。総務ならなんかいろいろあるでしょ。そんで感想教えてよ」
いいけど、と不思議そうな顔をし、村井は課へ戻って行った。
佐野がため息をつき、椅子の背もたれに思い切り寄りかかった。
「敵に塩を送ってしまった」
「俺らの敵って誰?」
「村井が宮園さんを選んだら……その時は仕方ない。諦めがつく」
「柏木さんを選んだら俺も諦める。でも敵は柏木さんたちじゃない気が……」
「万に一つもないけど、もし村井が由梨さんを選んだら?」
「出前の寿司を5人前送りつけてやる……!」
「仕返しの規模が小さいんだよなぁどうにかなんないの」
「帰り、回転寿司寄んねー?」
「寄る寄る」
みんなお子様舌だと馬鹿にするけど、海老マヨ軍艦を思い切り食べたい気分だ。
~営業課~
課に戻ると、鳴海が一生懸命パソコンに向かっていた。
ああ。マイ、エンジェル。
ところが。
「鳴海。ちょっといいかな。話があるんだけど」
宮園さんが声をかけると、鳴海はぱっと顔を上げた。
「はい!」
いいお返事。
じゃなくて。
鳴海が立ち上がると、宮園さんはその背に軽く手をあて、鳴海を連れて廊下へ出て行った。
何なんだよ。不穏だ。
やきもきしながら報告書を作っていると、しばらくして2人が戻ってきた。
立ったままの鳴海を見上げて声をかけようとする。
「おう、おつか、」
「柏木さん」
「何だ」
「帰りましょう」
「え?」
「ご飯でもどうですか。忙しいですか。僕に構ってる暇なんかないですか」
若干プルプルしている。下唇も多少出ている。
何だ。どうした。
「いや、いいけど」
「チーズいももちがおいしい居酒屋があるんです」
「マニアック」
「早く、早く行きましょう、柏木さん」
鳴海は焦ったような顔をして俺のスーツの袖を引いた。
こういうところが本当に下半身に来る。
宮園さんを見ると、帰り支度をしながらほくそ笑んでいた。何かしたな。イケメンタヌキめ。
鳴海オススメのその店は何の変哲もない居酒屋だったが、確かにチーズいももちが美味だった。
あまり混んでいない店内のカウンターに並んで座り、ビールを飲む。
「うまいな」
「ああ、よかった。僕の好み、柏木さんと似てるはずだから…」
鳴海は安心したようなそうでもないような、複雑な笑みを浮かべた。
次の瞬間、鳴海が頭を俺の肩に乗せてため息をついた。
「柏木さん……」
「な、何だ」
「宮園さんから聞いたんですけど、営業企画の山内さんと柏木さんが、なんかちょっといい感じだって……」
「……え?」
いや意味わかんねえし。
鳴海は体を俺に預けたまま続ける。
「だから、鳴海も少しがんばらないと柏木さん取られちゃうって宮園さんが……僕、それ聞いてすごく、ここが痛くて」
手を胸にやり、キュッと握る。
「苦しくて……嫌だって思って……僕、初めて、ヤキモチ焼きました。これが、好きってことなんですね……柏木さんを誰にも取られたくないんです。ワガママで、すみません」
思わずその手を取る。
「なぁーるみぃー」と言いながら抱きしめてちゅっちゅしたいのを何とか堪えた。
「何言ってやがる……俺は、俺のここは……鳴海のもんだ」
鳴海の手を自分の胸にあてながら、俺は宮園さんの「塚本とヤリまくり」という状況を思い出していた。
今夜、何とかしよう。できるはずだ。
「柏木さん、うれしい……」
「鳴海……」
「あの、このあと、よかったら……僕の家に来ませんか?」
「お前、誘ってるのか?」
「いいモノ、買ってあるんです」
鳴海が頬を染める。
何、この夢展開は。
心の準備は3億年前に整っている。
俺は思いきり拳を握った。
「双頭バイブ?!」
「宮園さん声でかいほんと勘弁して下さい二日酔いなんで」
「どういうこと?棒なら自前のが2本もあるのに?倍にしてどうする気?」
「知りませんよ……鳴海の中では俺との関係性は百合なんですよ……」
鳴海の家に行ってみたら、柏木さんともっと仲良くなりたくて買っちゃいましたという報告と同時にあれが出てきて俺は泡を吹いて後ろに倒れた。
「使ったの?」
「使いませんよ……俺は俺のを使いたかっただけなんですよ……どういうことだと思います?」
「柏木のじゃ不満足なんじゃないの?」
「まだ!試しても!いないのに!」
「あーあ、せっかく山内の話持ち出して焚きつけたのになぁ、もったいないね」
「何もしてないのに自信がどんどん削がれていく……」
大きさはアレだけどテクニックがあるぞって説得すれば、と言って、宮園さんは凪いだ海のように微笑んだ。
~営業企画課~
「ちょっと……聞いた……佐野さん……」
「聞きました……山内さん……」
俺たちはまた用を足しそびれたけれどもそんなことはどうでもいい。
トイレに入ろうとしたら、宮園さんが柏木さんにテクニックがすごいとかなんとか言っているのを聞いてしまった。
「柏木さん……テクニックが……すごいなんて……」
「ハイスペックの鬼かよ……」
「抱かれたい……抱かれたい男ナンバーワンだよ……」
「きっと大きさもすごくご立派なんだぜ……」
「そこらへんの女の子じゃ……そう簡単には入らないレベル……はっ、待って佐野さん聞いて!」
「何よ」
「柏木さんの声で想像して。……『すまない……痛くないか……お前があまりにかわいいから……俺のパワーポインターが容量オーバーだぜ……』」
「山内のセンスは疑うけど女抱いてる柏木さんはやばい」
「やばいよね」
「柏木さんのパワーポインター」
「やばい!」
「パワーポインターってなに?その容量オーバーってなに?」
筋肉布団を捨てて俺も営業に行きたい。
-end-
2016.6.2
俺は見てしまったのだ。心から尊敬し、憧れてやまない先輩たちの修羅場を。
「柏木をこれ以上追い詰めたら、いくら気心の知れた同期でも許さないよ?」
我らが営業企画課の先輩であり筋肉布団、由梨さんの頬をそう言いながら撫でたのは、お隣の営業課の王子、宮園さん。微笑んではいるものの、その目には怒りが宿っているように見える。
焦った表情の由梨さんの目の前には、身を縮めて涙目になっているもう1人の王子、柏木さん。
どんな状況なの…?
とにかく俺は放尿どころではなくなり、急いで席に戻って隣の佐野に見た状況を報告した。
「何?何?なんなのそれ?」
「わかんないよ。どうしよう。とにかくやばい」
「やばいよ」
「やばいよね」
「やばい」
俺も佐野も興奮状態で言葉がうまく出てこない。
そうこうしていると由梨さんが課に戻って来たので俺たちは体を竦ませて様子を窺った。
由梨さんはゴツい手でハンカチを取り出し汗を拭いている。
表情は若干暗い。
積み上げられた資料に隠れるようにして佐野と会話を再開する。
「おかしいよ。由梨さんと宮園さんは割と仲がいいでしょ」
「そこに柏木さんが絡んで?宮園さんが柏木さんを庇う?何があった……」
「由梨さん……もしかして、課を超えてなんか、なんか……」
「なんだよ」
「パワハラ……?とか……だって、『追い詰めたら』って言ったんだよ」
「あり得ねえよ、由梨さんだぞ?あんななスポーツマンシップの塊みたいな人がそんな陰気なこと……」
「じゃあ何よ?」
「わかった」
「何」
「柏木さんが由梨さんの女を寝取ったんだよ」
「え!柏木さんがそんなことを……」
「絶対そうだよ。それで怒った由梨さんが柏木さんを責めて、それを宮園さんが庇ったんだ。どんな女だって由梨さんより柏木さんの方がいいに決まってるだろ?」
「酷いな。お前、由梨さんのことバカにしてんの?」
「してない。してないけどお前もよく考えてみろ。筋肉布団と営業成績トップの王子だぞ。お前ならどっちよ?」
「柏木さん」
「即答じゃん……酷いな……俺は宮園さんだけど」
「おい酷いぞ……」
仕事そっちのけでそんなことを話していると、由梨さんに「おい」と声をかけられてビクつく。
「雑用で悪いんだけどさ。山内と佐野で明日の打ち合わせの資料仕分けといてくれるか」
「はい」
「喜んで」
「悪いな。今日はちょっと、定時で上がるわ」
由梨さんは寂しげな笑みを残して帰って行く。
その筋肉もりもりの後ろ姿を見送り、俺たちは同情を抱きながら呟いた。
「やっぱ柏木さんがいいな」
「俺は宮園さん」
~営業課~
「かーしーわーぎー。そろそろ帰ろうよ。今日塚本のペットショップに付き合う約束があるんだってば」
宮園さんの声が聞こえる。
「あと1分待って下さい」
「大丈夫だって。由梨ならさっき帰ったよ」
「その名を口にしないで下さい吐きそう…」
「もしかして孕まされたんじゃないの?」
殺意。
「未遂ですから!」
それにその顔で孕むとかいう言葉遣いをしないでほしい。
「わかってるよ。あーもう……」
宮園さんのため息を聞きながら、今日は珍しく俺を庇ってくれたな、と、ぼんやりした頭で考える。
俺と宮園さんを隔てるのはトイレの個室の扉だ。個室に篭っているのは俺で、宮園さんはそれに付き合ってくれている。
しかしひどい。あの先輩のゴリラはひどい。会社のトイレで迫ってくるとは。全身筋肉なだけはある。
これからは通勤に麻酔銃が必要なのか。
「ところで塚本のペットショップって何ですか」
「なんかね。一人暮らしが寂しいから猫でも飼うかって悩んでるみたい。そんなもの必要ないのに」
「塚本に合う首輪を買ったりしないで下さいね」
「ふふ」
何を笑っている。
「鳴海に会いたい……」
「想いは通じたんでしょ?どうなの、その後」
「忙しくてあれっきりです」
「勿体無いなあ」
「宮園さんこそ塚本とどうしたんですか。どうせ何もしてないんでしょう」
「えー?もうヤりまくりだよ」
思わずドアを開けて個室を出た。
「嘘」
「本当」
「嘘だ」
「本当だってば。なんなら写真見る?」
携帯を取り出した宮園さんの手を掴み、見たくないものを全力で封じ込める。
「いいです」
「そう?可愛い顔がたくさん撮れたから」
信じられない。何って人にその写真を見せようとする倫理観だ。
「寂しいから猫を飼いたいなんて、きっと俺に一緒に住もうって言ってほしいんだ。可愛いな。食べちゃいたいよ」
摘み取った木苺を食べたいとでも言うような爽やかな笑みに鳥肌が立つ。
のろのろ動いて手を洗い、用を足してないんだから洗わなくてもよかったか、いやあいつに触られた手だ、洗車用の洗剤が欲しいくらいだ、などと考えていると、廊下の方から足音が近づいてきて思わず宮園さんの影に隠れた。
「う、あ、す、すみませんっ」
入ってきて俺たちに気づき、なぜか明らかに狼狽したのは営業企画の、ゴリラの後輩の1人だった。
「出直します!」
「山内」
踵を返す姿に、咄嗟に声をかけた。
振り返った山内はみるみる顔を赤くする。
「お前の先輩、もう帰った?」
「せ、あ、由梨さんですか?」
「そうそれ」
「あ、はいっ、もう今日は、あの、帰還されました」
帰還って。
でもよかった。一安心だ。
「あの……柏木さん……」
「ん?」
「名前……あの、俺なんかの名前でも、覚えて下さってるんですね」
「当たり前だろう。会議で一緒になることもあるし。第一お前だって俺の名前を覚えてるじゃないか」
「はっ、あっ、それは、そう、そうですか、はい、はい」
首が取れるほど頷く山内に、なんだかちょっといい考えが浮かぶ。
ゴリラに復讐だ。
「なあ。山内」
ニコニコしている宮園さんを避けて山内のすぐ前に立ち、見下ろす。山内は鳴海と同じくらいの背丈だった。
平和そうな顔をして。
「俺さ。ちょっと最近、ゴリ、いや、由梨さんのことで悩んでて。お前たちにはいい先輩か?」
憂い顔を作って聞くと、山内は途端に心配そうな顔をした。
「あの、そうですね、僕らにはあの、そう、そうかな、優しいかな、仕事もできるような気がし、しますし」
「……そうか……」
「どどどどうしたんですか」
一旦視線を外すと、宮園さんが乗ってくる。多分面白がって。
「柏木。いくらなんでも由梨の後輩にあんなこと打ち明けちゃダメだよ。由梨と彼らの関係も大事なんだから。いくらあんな酷いことされたからって。ね」
「……ですね」
諦めたように微笑んでから、俺は山内の顎を指先で優しくすくった。
真っ直ぐに見上げてくる山内の視線を正面から受ける。
「由梨さんに敬意を持って、後輩として慕ってついていけ。学ぶことも多いだろう。でももし由梨のことで何か悩むようだったら、俺のところに来い」
しまった。さん付けんの忘れた。まあいいや。
「いつでも相談に乗るから。わかった……?」
顔を近づけ、低い声で囁くと、山内は体を震わせた。
面白いやつめ。
「わかりました!絶対にそうします!俺、俺、何があっても柏木さんについていきます!あの……尊敬してます!失礼しました!」
敬礼でもしそうな勢いで走って出て行った山内が、これから由梨さんにどんな態度で接するか、見ものだ。
「楽しい」
「楽しいね」
「鳴海に会いたい」
「あ、塚本迎えに行かなくちゃ」
多少溜飲を下げた俺たちは、やっとトイレを出た。
~営業企画課~
また用を足しそびれた。
「やっぱり柏木さんは貴公子だよ。王子様だ。みんなの王子様だったんだよ」
「どしたの」
課に戻るなり、資料整理をしていた佐野に報告する。
まだ顔が熱い。柏木さんの指、細くて長くて、でも男らしい手だった。
「柏木さんに話しかけられちゃった……」
「いいなぁ。宮園さんも一緒だったんだろ?」
「どんな女だって由梨さんより柏木さんがいいに決まってんだろ!当たり前だ!ふざけんな筋肉布団!」
「山内。それさっきの俺のセリフだけどそれより結構酷い」
「うるさいな。もう俺は決めたんだ。柏木さんについていく」
「落ち着きなさい、まず由梨さんのこの仕事を」
「知らん。あのムキムキはみんなの王子に何したんだよ。筋肉の布団なんか着込んでるからそんなことになるんだよ。ほんと勘弁して。今月のあの人の残業代でピザを何枚か頼んで自宅に届けてやりたい」
「何枚かっていうどうにかできそうな感じが微妙に嫌だな……」
「あーあ。クソ。鳴海が羨ましい。俺も柏木さんの下僕になりたい」
「どうしたのよ山内怖いよなんか」
佐野が引いている。
とにかく由梨さんが柏木さんに何か酷いことをしたのは明白だ。
「腹立つ…」
「温かいお茶でも飲む?」
「女子かよ」
くだらない話をしているところへ通りかかったのは数少ない女性の同期の村井だった。
「あ、村井」
「おつかれー。残業?」
「村井さ、営業の宮園さんと柏木さん知ってる?」
村井は総務課だ。
「知ってるよー。名前だけ」
「顔は?」
「ちらっと見たことはあるけど」
「どう思う?」
うーん、と考える横顔は愛嬌があってかわいらしい。俺も佐野もちょっといいなと思っている。
「よくわかんないな。話したことないからなー」
中身を知らずには語らない。
「村井はそういうとこがいいね」
「わかる」
「その2人がどうしたって?」
「今度話しかけてみてよ。総務ならなんかいろいろあるでしょ。そんで感想教えてよ」
いいけど、と不思議そうな顔をし、村井は課へ戻って行った。
佐野がため息をつき、椅子の背もたれに思い切り寄りかかった。
「敵に塩を送ってしまった」
「俺らの敵って誰?」
「村井が宮園さんを選んだら……その時は仕方ない。諦めがつく」
「柏木さんを選んだら俺も諦める。でも敵は柏木さんたちじゃない気が……」
「万に一つもないけど、もし村井が由梨さんを選んだら?」
「出前の寿司を5人前送りつけてやる……!」
「仕返しの規模が小さいんだよなぁどうにかなんないの」
「帰り、回転寿司寄んねー?」
「寄る寄る」
みんなお子様舌だと馬鹿にするけど、海老マヨ軍艦を思い切り食べたい気分だ。
~営業課~
課に戻ると、鳴海が一生懸命パソコンに向かっていた。
ああ。マイ、エンジェル。
ところが。
「鳴海。ちょっといいかな。話があるんだけど」
宮園さんが声をかけると、鳴海はぱっと顔を上げた。
「はい!」
いいお返事。
じゃなくて。
鳴海が立ち上がると、宮園さんはその背に軽く手をあて、鳴海を連れて廊下へ出て行った。
何なんだよ。不穏だ。
やきもきしながら報告書を作っていると、しばらくして2人が戻ってきた。
立ったままの鳴海を見上げて声をかけようとする。
「おう、おつか、」
「柏木さん」
「何だ」
「帰りましょう」
「え?」
「ご飯でもどうですか。忙しいですか。僕に構ってる暇なんかないですか」
若干プルプルしている。下唇も多少出ている。
何だ。どうした。
「いや、いいけど」
「チーズいももちがおいしい居酒屋があるんです」
「マニアック」
「早く、早く行きましょう、柏木さん」
鳴海は焦ったような顔をして俺のスーツの袖を引いた。
こういうところが本当に下半身に来る。
宮園さんを見ると、帰り支度をしながらほくそ笑んでいた。何かしたな。イケメンタヌキめ。
鳴海オススメのその店は何の変哲もない居酒屋だったが、確かにチーズいももちが美味だった。
あまり混んでいない店内のカウンターに並んで座り、ビールを飲む。
「うまいな」
「ああ、よかった。僕の好み、柏木さんと似てるはずだから…」
鳴海は安心したようなそうでもないような、複雑な笑みを浮かべた。
次の瞬間、鳴海が頭を俺の肩に乗せてため息をついた。
「柏木さん……」
「な、何だ」
「宮園さんから聞いたんですけど、営業企画の山内さんと柏木さんが、なんかちょっといい感じだって……」
「……え?」
いや意味わかんねえし。
鳴海は体を俺に預けたまま続ける。
「だから、鳴海も少しがんばらないと柏木さん取られちゃうって宮園さんが……僕、それ聞いてすごく、ここが痛くて」
手を胸にやり、キュッと握る。
「苦しくて……嫌だって思って……僕、初めて、ヤキモチ焼きました。これが、好きってことなんですね……柏木さんを誰にも取られたくないんです。ワガママで、すみません」
思わずその手を取る。
「なぁーるみぃー」と言いながら抱きしめてちゅっちゅしたいのを何とか堪えた。
「何言ってやがる……俺は、俺のここは……鳴海のもんだ」
鳴海の手を自分の胸にあてながら、俺は宮園さんの「塚本とヤリまくり」という状況を思い出していた。
今夜、何とかしよう。できるはずだ。
「柏木さん、うれしい……」
「鳴海……」
「あの、このあと、よかったら……僕の家に来ませんか?」
「お前、誘ってるのか?」
「いいモノ、買ってあるんです」
鳴海が頬を染める。
何、この夢展開は。
心の準備は3億年前に整っている。
俺は思いきり拳を握った。
「双頭バイブ?!」
「宮園さん声でかいほんと勘弁して下さい二日酔いなんで」
「どういうこと?棒なら自前のが2本もあるのに?倍にしてどうする気?」
「知りませんよ……鳴海の中では俺との関係性は百合なんですよ……」
鳴海の家に行ってみたら、柏木さんともっと仲良くなりたくて買っちゃいましたという報告と同時にあれが出てきて俺は泡を吹いて後ろに倒れた。
「使ったの?」
「使いませんよ……俺は俺のを使いたかっただけなんですよ……どういうことだと思います?」
「柏木のじゃ不満足なんじゃないの?」
「まだ!試しても!いないのに!」
「あーあ、せっかく山内の話持ち出して焚きつけたのになぁ、もったいないね」
「何もしてないのに自信がどんどん削がれていく……」
大きさはアレだけどテクニックがあるぞって説得すれば、と言って、宮園さんは凪いだ海のように微笑んだ。
~営業企画課~
「ちょっと……聞いた……佐野さん……」
「聞きました……山内さん……」
俺たちはまた用を足しそびれたけれどもそんなことはどうでもいい。
トイレに入ろうとしたら、宮園さんが柏木さんにテクニックがすごいとかなんとか言っているのを聞いてしまった。
「柏木さん……テクニックが……すごいなんて……」
「ハイスペックの鬼かよ……」
「抱かれたい……抱かれたい男ナンバーワンだよ……」
「きっと大きさもすごくご立派なんだぜ……」
「そこらへんの女の子じゃ……そう簡単には入らないレベル……はっ、待って佐野さん聞いて!」
「何よ」
「柏木さんの声で想像して。……『すまない……痛くないか……お前があまりにかわいいから……俺のパワーポインターが容量オーバーだぜ……』」
「山内のセンスは疑うけど女抱いてる柏木さんはやばい」
「やばいよね」
「柏木さんのパワーポインター」
「やばい!」
「パワーポインターってなに?その容量オーバーってなに?」
筋肉布団を捨てて俺も営業に行きたい。
-end-
2016.6.2