さくら色の君を想う

その後すぐに、学校は期末テスト期間に入り、テストが終わると冬休みに入った。
由井はテストの採点や成績の管理、3学期の準備などで忙殺され、その年を終えた。
年が明け、3学期が始まり、授業が開始されても、野島は準備室に姿を見せなかった。
由井は授業をしながら、彼のことばかり考えている自分に気づいた。
そのうち、野島が3学期になってから学校に来ていないことを担任の高橋から聞き、副担任である自分がその事実を知らずにいたことを苦い思いで反省していると、その数日後、各教科担任に高橋から連絡が行き渡った。
野島は冬休み中に手続きを終え、昨日付で転校したという。
転校の手続きが完了するまで他の生徒や教師には黙っていてほしいとの本人の強い希望を尊重した結果、連絡が今日になった、と高橋は伝えてきた。
由井はその日一日を、うわの空で過ごした。授業中に、ビーカーとフラスコを1つずつ、不注意で落として割った。
ぼんやりとしたまま家に帰り、野島に宛てて手紙を書いた。
感情のおもむくままに一気に書き殴ってから、最後の一文を書き終わる直前にふと我に返り、自分の行動を嗤った。手紙は適当に畳んで、いつも持ち歩くノートに挟んだ。
家のくずかごではなく、二度と目につかないところに捨てようと思った。
野島が自分に何も話さずに行ってしまったことが、由井に深く爪痕を残した。
しかしそれは自業自得で、自分がそうなるように仕向けたも同然だと、喪失感に押し潰されそうになりながら由井は思った。
これでよかったのだ。彼は自分で自分の道を進み出したのだ。自分はそれを快く送り出してやらなければならない。
自分は教師なのだから。
そんなことを考えている間にも、授業の準備、校内や実験室の整備、副担任としてのサポート、バレー部の引率など、することは次々に流れて来る。由井はそれらに懸命に向き合おうとした。
野島にしてやれなかったことを埋め合わせるように、全てに誠実にぶつかろうと努力した。

ごくたまに、想いが溢れて辛くなると、準備室の窓から空を眺めて祈った。
新しい学校で、彼がよい友人や教師に恵まれますように。
守られなくても立っていられるだけの強さを身につけられますように。
彼がもう傷つかなくてすみますように。
彼の未来が明るいものでありますように。
前の学校の教師のことなど、早く忘れますように。
彼を、早く忘れられますように。



野島がいなくなってから、約半年後。

バレー部顧問の岩原から頼まれ、久しぶりに引率で訪ねた先は、その前の年にも行ったことのある男子校だった。
校門の前で出迎えてくれた相手チームのキャプテンに続いて体育館に入った。顧問に挨拶をしてから、つい先ほどまで行われていたというバスケ部の試合の片付けの様子を、由井は入口からぼんやりと見守っていた。
ガシャン、と音が響いて、そちらに皆の注目が集まる。由井もそちらに目を向けた。
息が止まった。
ノートや筆記用具やペットボトルや、様々な持ち物を体育館の床にばらまいて、それに一向に構わずに目を見開いて由井を見ていたのは、見慣れぬ制服を着た野島だった。
野島のそばにいた背の高い茶髪の生徒が、野島が落としたものを拾った。その生徒はバスケ部なのだろう、赤いユニフォームを着ていた。
野島はこちらを見ていた。由井も野島を見ていた。
しかしそれも一瞬のことで、野島はすぐにこちらに背を向けて足早にその場を去ろうとした。野島の行く先には体育館から直接外へ出られる出入り口があり、彼はそこから外へ出て行った。
由井は近くにいたバレー部の部長に断ってから、急いで野島の後を追った。
小走りに体育館を出ると、特徴のある歩き方で去っていく野島の背中が見えた。
酷く懐かしいその姿に由井は思わず声をかけた。

「野島くん!」

立ち止まり、背を向けたまま動かなくなった野島に、由井はゆっくり近づく。
話すことなど思い浮かばなかった。
どんな経緯で自分が野島と離れることになり、野島が今どんな気持ちでいるのか、考えるべきだったのかもしれない。しかし、何も考えられなかった。ただ、野島の顔を近くで見て、何か声をかけたい。由井はその欲求に勝てなかった。

「野島くん」

触れられそうな距離まで近づいてからもう一度声をかけると、野島はゆっくりと振り返った。
二人の間を風が抜けて行った。

「元気そうだね」

そこは校舎の裏手で、小道の両脇に木々が並び、緑の香りが立ち込めていた。
由井の声には笑みがにじんでいた。
野島は前の学校にいた時よりも血色がいいように見えた。くりくりとした目が由井を見上げる。その仕草は変わらない。
由井は心から安堵した。ずっと心に刺さっていた棘が柔らかく溶けていく気がした。

「この学校だったんだね。君の転入先は」

野島はぱっと顔を上げた。

「ごめんなさい。先生には本当にお世話になったのに……僕、先生に何も言わないで転校して……」
「いいんだ。君が元気でいるなら、僕はそれでいい」

ああ。そうだ。君が元気なら、本当にそれで。

「バレー部の引率ですか」
「そう。野島くんは?」
「僕は、バスケ部の友達の応援で……」
「そうか。友達もできたんだね。本当に……本当によかった」

何度、こうして君と話をしただろう。実験準備室で。教室で。僕の部屋で。
由井は自分と野島が重ねた時間に思いを馳せた。それほど多いというわけではない、それでもその時間が自分にとって確かに温かく貴重なものだったと、由井は思った。
もう大丈夫だね。
君も。
僕も。

「会えてよかったよ」

由井が言うと、野島は下を向いてしまった。
野島がこの再会をどう感じたのかはわからない。しかし少なくとも由井にとっては意味のある再会だった。
前を向くために。形にはならなかった何かに、折り合いをつけるために。

「それじゃあ。元気でがんばって」

由井は体育館に戻ろうと、野島に背を向けた。

「由井先生」

野島の声に背中を撃ち抜かれたような気がした。
野島が由井を呼ぶ。
かつてはそのことに多くの意味があって、そこには野島の命が少しだけ懸かっていた。野島に呼ばれて、由井は簡単にそのことを思い出した。

「先生」

2度目の声は震えていた。いつか、由井の部屋の暗闇から助けを求めるように、先生が好きだと言った、あの声のように。
振り返って見た野島の顔へ、その体へ、由井は手を伸ばした。
互いに少しだけ歩み寄り、由井は野島に触れた。頬を撫でてその顔を見た。そして、腕の中に抱いた。
野島の香りが懐かしかった。

「僕に何か言いたいことがあるの?」

野島は由井にしがみつきながら、微かに頷いた。

「僕も、君に言いたかったことがあるよ」

由井は野島の顔を見下ろした。腕の中の野島も顔を上げる。

「でももうすぐ試合が始まるから、もし話ができるなら、終わるまで待っていてくれないか」

野島はあのまんまるの目で、由井にむかって確かに頷いた。
野島に向けて書いた手紙をまだ捨てられずに、その日も鞄に入れて持ち歩いていた。自分はきっと、忘れようとしながらその一方で、こうしていつか野島に再会できた時に想いを伝えられるようにと願っていたのだ、と由井は思った。
もう一度野島の体を抱き締めてから、ゆっくりと腕を緩めた。

並んで体育館に戻ると、すでにコートが出来上がっていて、その脇で選手たちが控えめにアップを行っていた。
心配そうな顔で野島に近づく先程のバスケ部らしい生徒に目礼し、由井は野島に微笑を向けた。野島も恥ずかしそうに笑顔を返してきた。
それだけで十分だ、と思えた。
試合開始のホイッスルが鳴る直前、あの書きかけの、思うままに書き殴った手紙を見せたら、野島はどんな顔をするだろうかと、由井は考えた。
頬を桜色に染めた、いつかの野島の顔を思い出しながら。














手紙の最後の一文。
由井が野島に伝えたかったこと。



君がもう一度、僕のそばにいたいと言ってくれたら、僕はすぐにでも、
教師を辞める覚悟があります。
そして、君のそばに、ずっと、君のそばにいたいです。






さくら色の君を想う
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