さくら色の君を想う
「どこに行くの。こんな時間から」
驚いてこちらを見上げた色白の頬が、ほんの少し赤みを帯びる。野島は制服を着ていた。
聞けば、家の鍵を忘れたのだと言う。そんな日に限って家族が留守にしていて、今まで近くのショッピングセンターで時間を潰していたらしい。
「それで、これから祖母の家に行くんです」
「おばあさんの家はどこなの」
野島が出した地名は、ここから電車を乗り継いで優に1時間半以上かかる場所だった。
「それは大変だな。明日の朝も早く出なきゃいけないね」
「でも鍵を忘れた僕が悪いから」
野島の畳まれた傘の先端から、水滴が規則的なリズムで垂れている。
先生、声かけてくれてありがとうございました、僕少し心細かったみたいで、でももう大丈夫になりました。
恥ずかしそうに、でも律儀に目を見て礼を言う野島に、後で思い出せば後悔するような提案を、気づいたら口にしていた。
「僕の家においで」
暗闇に抵抗するかのように瞬くネオンや街灯の明かりが、車窓の向こうで左から右へと流れて行く。
雨の日のそれはいつもよりくっきりして見える。
濃度差による光の屈折。ついこの間読んだ論文の内容を思い出したところで、目の前の席が空いた。
座りなさい、と声をかけると、野島は素直に礼を言ってそこへ掛けた。
少し前、切符販売機の前で押し問答をした。恐縮して辞退しようとする野島に、由井は言った。
「その代わり、今度する実験室の備品整理を手伝ってくれると助かるんだけど」
逡巡している野島に、更に声をかける。
「悪い条件じゃないと思うよ。それに、この時間から制服で外出していると補導されるかもしれない」
由井が笑って見せると心が軽くなったのか、野島は頷いた。
その途端、由井は後ろめたさを感じた。
半ば無理矢理話を決めて、自分は何がしたいのだ。
いや、困っている生徒を泊めるなんて、別におかしいことではない。やむを得ないことだ。
しかし、祖母の家に行くと言う野島を誘ってしまった。
でも夜間の外出は心配だ。
内心大きく揺れながら、野島と共に帰路についた。
そしてふと思う。
相手が野島でなかったら、自分はこんなに迷わなかったのではないか。一体自分にとって野島は何だというのだろう。
由井はもう、その答えから逃れられそうになかった。
「お邪魔します」
「あんまり綺麗にしてないけど、好きにしていいから」
「いえ全然。綺麗です」
野島は恥ずかしそうに少し笑った。
野島をローテーブルの脇に座らせようとしてふと思う。
「野島くん、ベッドに座るかい?」
足が少し不自由な彼は、椅子に座りたいのではないかと思った。
「あ、あの……」
野島は赤くなって口ごもった。由井はそれを見て優しい気持ちになる。
「いいんだよ、遠慮しないで。うちは地べた生活でイスがないから、そんな場所で申し訳ないんだけど」
「いえ、あの、すみません……」
「僕は軽く夕飯を食べるけど、野島くんも食べる?」
「……大丈夫です」
「遠慮しないで。どうせお茶漬けくらいしかできないから」
「あ、はい、じゃあ……いただきます」
恐縮しきりの野島が少し気の毒になり、テレビをつけてキッチンへ行き、ヤカンを火にかけた。
2人分のお茶漬けの準備をしながらそっと窺うと、彼はベッドの端にちょこんと腰掛けて、両手で頬を包み、ふーっと息を吐いたところだった。くりくりとした目が部屋を控え目に見渡す。
何か小動物を思わせる仕草だった。
準備が終わったところで、ヤカンがシュウシュウと音を立て始めた。
由井はなんとなく軽くなる心を抑えつつ、野島のいる部屋へと戻った。
……先生。
名前を呼ばれたような気がして、由井は目を覚ました。
雨粒が窓ガラスを叩く音が聞こえる。暗闇の中に浮かび上がる景色に微妙な違和感を持って、由井は一瞬考えを巡らせた。
「由井先生」
呟くように小さな声。それでも確かに自分を呼ぶ声がする。
ベッドの隣に自分用の布団を敷き、ベッドの方に野島を寝かせたことを思い出した。起きた時の視界がいつもと違うのはそのせいだ。
寝慣れない布団の上で、はっとして体を起こそうとした由井は、次に聞こえた言葉に固まった。
「先生が、好きです」
野島は由井が目を覚ましていることに気づいていない。
「せんせ…」
言葉の最後は震え、掠れていた。
締め付けられるように胸が痛んだ。今すぐ腕に抱いて、心配することは何もない、僕が守ってやる、と言ってやりたかった。
きっと人知れず悩んできたのだろう。それは由井も同じだった。飲み込んでも飲み込んでも、野島を見ていると甘い痛みが次々に湧き出てくる気がした。
決して人に知れることの許されない想いだからこそ、胸の中で出口を求めて膨らみ続け、窒息するほど自分を苦しめる。
自宅に連れてきたのは間違いだった。自分の身勝手な押しつけが、野島を苦しめる結果になってしまった。
そして、それを黙ってやり過ごさなければならないことが、こんなに辛い。
手を握ってもやれない。言葉ひとつかけることも許されない。それが、こんなに苦しい。
由井は自分の中の嵐が収まるのを、拳を痛いほど握って待った。
雨の音は止まない。
野島は、もう何も言わなかった。
登下校する生徒たちが、コートを着てマフラーや手袋を身に着ける季節になった。
「由井先生、今日もまだ仕事するの?」
「ねえ。帰ろう先生」
1-7、野島のクラスの女子が、4人で準備室を占領している。
「君らがどうしたら反応熱をちゃんと理解してくれるか考えてるんだよ」
「なにそれ」
「意味わかんない」
「ほら、わからないだろ。これが僕の仕事。だからもう帰りなさい」
皆が皆、不満そうな顔をする。
卓上の内線が鳴った。職員室に戻るようにとの指示だった。
「ほら、行かなきゃならなくなったから、みんなで出るよ」
「先生が戻って来たら帰る」
「どうして」
「どうしても!」
「早く行かないと先生が怒られるよ」
短い押し問答をして、由井は彼女たちを追い出すことを諦めた。
「じゃあ約束。備品には絶対に触らないこと。いいね?」
危険な薬品などは鍵のかかるロッカーに入っているため、生徒たちを危険にさらすことはないと思われたが、由井は念を押した。
彼女たちはしたり顔で口々に、はい、と潔い返事をした。
20分ほどで所用が終わり、整理する必要のある資料を入れた段ボール箱を抱えて、由井は準備室に戻った。
引き戸を開けようと、箱を一旦床に置いた。
中から聞こえた声に、心臓がずきりと痛んだ気がした。
「野島、まじキモい」
「どんだけ先生に付きまとえば気が済むの?」
「先生だって忙しいんだから、あんたにばっか構ってらんないじゃん。由井先生優しいけど、あんたの弁当攻撃にはさすがに引いてんじゃないの」
野島が中にいてこの言葉の暴力を直接浴びているのか。背筋が凍った。戸を開ける。
一瞬静まった部屋の中から引き続き聞こえてきたのは、さらにヒステリックになった声。
「怒られるの絶対私たちだよね」
「私たち悪くないのに」
「先輩たちだってみんな、あんたのことキモいって言ってるよ」
すぐそばに、野島がいた。その向かい側に4人の女子。1人は由井の顔を見て気まずそうな顔をしたが、他の3人は野島を責める手を緩めなかった。
「男のくせに弱そうな顔して先生に助けてもらってばっかりで」
「あんたのそういうとこ、本当に、嫌い。ずるい」
「野島だけの先生じゃないんだよ。むかつく」
「もうやめなさい」
由井は静かに割って入った。
野島だけの先生ではない。
その言葉は由井にも牙をむいた。
自分は今、野島を守りたい一心で鍵を開けた。野島だけの自分だった。それ以外の生徒たちがそのことをどう感じているかなど、考えていなかった。
野島のことになると、相手が生徒であれ冷静でいられない自分を、由井は知っていてどうすることもできないでいた。
できる限り中立で、平等であるべきなのに。自分は何をしているのだろう。何をしてきたのだろう。
由井は無力感に苛まれながら、女子生徒たちを宥めた。
言いたいことを言ってすっきりしたのか、怒られると思っていたのがそうならなかったので安心したのか、彼女たちは比較的すぐに落ち着きを取り戻し、由井に促されて野島に一言ずつ謝った。
女子生徒たちを帰し、2人だけになった準備室で野島にどう声をかけようか迷っていると、野島は由井に向かって微笑んで見せた。無理に笑っていることは明らかだった。それでも、どこか凛とした表情だった。
「僕、先生に話したいことがあってここに来て、ドアを開ける前にちゃんと確認すればよかったです。先生がいるかどうか」
「僕がここにいればあんなこと言われなくて済んだのにね。ごめんな」
野島はぶんぶん頭を横に振った。柔らかい髪が揺れる。
「それで、話したいことって何だったの?」
由井が聞くと、野島は床に視線を向けた。
「先生が前に……思い出した時は先生のところに、来ていいって言ってくれたから……」
2年生に襲われそうになった時のことを言っているのだ。
「いいよ。もちろん。それだったらなおさら、いなくて悪かったね」
「でも僕は先生に、」
野島が由井を見る。
「先生に甘えすぎていて、先生がいなかったら僕は、もしかしたら生きていけないんじゃないかと思って、そしたらすごく怖くなって、それで……」
「それはこの学校の中でだけの話だろ?君はちゃんと自分の足で歩くことのできる子だよ」
「でも僕は学校に来るしかないから、その中でちゃんとできなくて、僕は弱くて」
学校という、小さな小さな単位の集団の中でやっていけないからと言って、絶望する必要は全くないのに、社会を知らない子どもたちにはそれがわからない。
逃げ道は無数にある。そして、逃げてもいい。
それを教えるのが教師の役目なのに。自分たちは、一体何を教えているのだろう。
「今いる場所が全てだと思ってはいけない。そこが辛ければ、生きる場所を変えることはいつだって誰にでもできるんだ」
頼むから自分の前でそんな顔をしないでくれ、と由井は思った。
そんな、心細そうな顔を。
「でも僕は先生がいるから学校に来られるし、先輩たちに何を言われても辛くないです。それより先生のところにいたいです」
「僕のそばにいるから辛いんじゃないのか」
お願いだから突き放さないでと訴える野島の心の声が聞こえた気がして、由井は思わず本音を漏らした。
野島の気持ちを知っているような由井の一言に、彼は目を見開いた。
野島は、あの夜の独白を由井が聞いていたことを知らない。
「違います、僕は、その、別に……先生のそばにいられたら、本当にそれで……」
野島のいじらしい言葉が由井の胸に刺さる。今どれだけ彼を抱きしめたいか、どれほど努力してそれを抑えているか、野島は何ひとつ知らないままだ。
そう思うと堪らなかった。
「僕は君に、何もしてあげられない」
絞り出すように言って、由井は野島の顔から目を離した。
「そんなことありません。たくさん助けてもらっています」
「君がここにいても、僕は君にだけ時間を割くことはできない」
「……やっぱり、迷惑ですか?」
「そうじゃない。僕は教師だ。生徒を守るのが僕の仕事だ。だから野島くんがここにいたいならそれでいいんだ。でも、他のたくさんの生徒のことも考えないわけにはいかない。君のことを、みんなと同じように見て、同じように扱わなければならない。だから」
一気に言ってしまってから、由井はまた野島の顔を見た。野島はまっすぐに見返してくる。
いつもそうだ。この子は教師である僕を疑わない。教師の僕が、生徒である彼に惹かれて狂いそうになっているなどということは考えないに違いない。
由井は空気を飲み込んだ。
喉が絞まって苦しかった。
「それが、僕は辛い」
野島は虚を突かれたような顔をした。
それから、ゆっくり、うっすらと、そのまるい瞳に涙を溜めた。
「……先生が……つらい……?」
野島はほとんど聞こえないような声で呟いた。
野島が由井の言葉をどう理解したのかはわからない。聡い彼のこと、もしかすると由井の気持ちになんとなく思い至ったかもしれない。
しかしそんなことはどうでもよかった。
傷つけた。
大事な生徒を、自分は傷つけた。
上級生やクラスメイトに何をされても何を言われても涙を見せなかった野島の心を、自分は踏みにじって傷つけて、泣かせてしまった。
由井はその事実に酷く打ちのめされた。
「わかりました。少し、いろいろ、考えます」
小さな声で言い、野島は俯いた。表情は見えなかった。微かに震えているようにも見えたが、気のせいだったかもしれない。
離れていく。彼の気持ちが、体が、自分から離れていこうとしている。
それを強く感じながらも、自分が何もできないことを由井はわかっていた。
差し伸べかけた手を、由井は静かに下ろした。
驚いてこちらを見上げた色白の頬が、ほんの少し赤みを帯びる。野島は制服を着ていた。
聞けば、家の鍵を忘れたのだと言う。そんな日に限って家族が留守にしていて、今まで近くのショッピングセンターで時間を潰していたらしい。
「それで、これから祖母の家に行くんです」
「おばあさんの家はどこなの」
野島が出した地名は、ここから電車を乗り継いで優に1時間半以上かかる場所だった。
「それは大変だな。明日の朝も早く出なきゃいけないね」
「でも鍵を忘れた僕が悪いから」
野島の畳まれた傘の先端から、水滴が規則的なリズムで垂れている。
先生、声かけてくれてありがとうございました、僕少し心細かったみたいで、でももう大丈夫になりました。
恥ずかしそうに、でも律儀に目を見て礼を言う野島に、後で思い出せば後悔するような提案を、気づいたら口にしていた。
「僕の家においで」
暗闇に抵抗するかのように瞬くネオンや街灯の明かりが、車窓の向こうで左から右へと流れて行く。
雨の日のそれはいつもよりくっきりして見える。
濃度差による光の屈折。ついこの間読んだ論文の内容を思い出したところで、目の前の席が空いた。
座りなさい、と声をかけると、野島は素直に礼を言ってそこへ掛けた。
少し前、切符販売機の前で押し問答をした。恐縮して辞退しようとする野島に、由井は言った。
「その代わり、今度する実験室の備品整理を手伝ってくれると助かるんだけど」
逡巡している野島に、更に声をかける。
「悪い条件じゃないと思うよ。それに、この時間から制服で外出していると補導されるかもしれない」
由井が笑って見せると心が軽くなったのか、野島は頷いた。
その途端、由井は後ろめたさを感じた。
半ば無理矢理話を決めて、自分は何がしたいのだ。
いや、困っている生徒を泊めるなんて、別におかしいことではない。やむを得ないことだ。
しかし、祖母の家に行くと言う野島を誘ってしまった。
でも夜間の外出は心配だ。
内心大きく揺れながら、野島と共に帰路についた。
そしてふと思う。
相手が野島でなかったら、自分はこんなに迷わなかったのではないか。一体自分にとって野島は何だというのだろう。
由井はもう、その答えから逃れられそうになかった。
「お邪魔します」
「あんまり綺麗にしてないけど、好きにしていいから」
「いえ全然。綺麗です」
野島は恥ずかしそうに少し笑った。
野島をローテーブルの脇に座らせようとしてふと思う。
「野島くん、ベッドに座るかい?」
足が少し不自由な彼は、椅子に座りたいのではないかと思った。
「あ、あの……」
野島は赤くなって口ごもった。由井はそれを見て優しい気持ちになる。
「いいんだよ、遠慮しないで。うちは地べた生活でイスがないから、そんな場所で申し訳ないんだけど」
「いえ、あの、すみません……」
「僕は軽く夕飯を食べるけど、野島くんも食べる?」
「……大丈夫です」
「遠慮しないで。どうせお茶漬けくらいしかできないから」
「あ、はい、じゃあ……いただきます」
恐縮しきりの野島が少し気の毒になり、テレビをつけてキッチンへ行き、ヤカンを火にかけた。
2人分のお茶漬けの準備をしながらそっと窺うと、彼はベッドの端にちょこんと腰掛けて、両手で頬を包み、ふーっと息を吐いたところだった。くりくりとした目が部屋を控え目に見渡す。
何か小動物を思わせる仕草だった。
準備が終わったところで、ヤカンがシュウシュウと音を立て始めた。
由井はなんとなく軽くなる心を抑えつつ、野島のいる部屋へと戻った。
……先生。
名前を呼ばれたような気がして、由井は目を覚ました。
雨粒が窓ガラスを叩く音が聞こえる。暗闇の中に浮かび上がる景色に微妙な違和感を持って、由井は一瞬考えを巡らせた。
「由井先生」
呟くように小さな声。それでも確かに自分を呼ぶ声がする。
ベッドの隣に自分用の布団を敷き、ベッドの方に野島を寝かせたことを思い出した。起きた時の視界がいつもと違うのはそのせいだ。
寝慣れない布団の上で、はっとして体を起こそうとした由井は、次に聞こえた言葉に固まった。
「先生が、好きです」
野島は由井が目を覚ましていることに気づいていない。
「せんせ…」
言葉の最後は震え、掠れていた。
締め付けられるように胸が痛んだ。今すぐ腕に抱いて、心配することは何もない、僕が守ってやる、と言ってやりたかった。
きっと人知れず悩んできたのだろう。それは由井も同じだった。飲み込んでも飲み込んでも、野島を見ていると甘い痛みが次々に湧き出てくる気がした。
決して人に知れることの許されない想いだからこそ、胸の中で出口を求めて膨らみ続け、窒息するほど自分を苦しめる。
自宅に連れてきたのは間違いだった。自分の身勝手な押しつけが、野島を苦しめる結果になってしまった。
そして、それを黙ってやり過ごさなければならないことが、こんなに辛い。
手を握ってもやれない。言葉ひとつかけることも許されない。それが、こんなに苦しい。
由井は自分の中の嵐が収まるのを、拳を痛いほど握って待った。
雨の音は止まない。
野島は、もう何も言わなかった。
登下校する生徒たちが、コートを着てマフラーや手袋を身に着ける季節になった。
「由井先生、今日もまだ仕事するの?」
「ねえ。帰ろう先生」
1-7、野島のクラスの女子が、4人で準備室を占領している。
「君らがどうしたら反応熱をちゃんと理解してくれるか考えてるんだよ」
「なにそれ」
「意味わかんない」
「ほら、わからないだろ。これが僕の仕事。だからもう帰りなさい」
皆が皆、不満そうな顔をする。
卓上の内線が鳴った。職員室に戻るようにとの指示だった。
「ほら、行かなきゃならなくなったから、みんなで出るよ」
「先生が戻って来たら帰る」
「どうして」
「どうしても!」
「早く行かないと先生が怒られるよ」
短い押し問答をして、由井は彼女たちを追い出すことを諦めた。
「じゃあ約束。備品には絶対に触らないこと。いいね?」
危険な薬品などは鍵のかかるロッカーに入っているため、生徒たちを危険にさらすことはないと思われたが、由井は念を押した。
彼女たちはしたり顔で口々に、はい、と潔い返事をした。
20分ほどで所用が終わり、整理する必要のある資料を入れた段ボール箱を抱えて、由井は準備室に戻った。
引き戸を開けようと、箱を一旦床に置いた。
中から聞こえた声に、心臓がずきりと痛んだ気がした。
「野島、まじキモい」
「どんだけ先生に付きまとえば気が済むの?」
「先生だって忙しいんだから、あんたにばっか構ってらんないじゃん。由井先生優しいけど、あんたの弁当攻撃にはさすがに引いてんじゃないの」
野島が中にいてこの言葉の暴力を直接浴びているのか。背筋が凍った。戸を開ける。
一瞬静まった部屋の中から引き続き聞こえてきたのは、さらにヒステリックになった声。
「怒られるの絶対私たちだよね」
「私たち悪くないのに」
「先輩たちだってみんな、あんたのことキモいって言ってるよ」
すぐそばに、野島がいた。その向かい側に4人の女子。1人は由井の顔を見て気まずそうな顔をしたが、他の3人は野島を責める手を緩めなかった。
「男のくせに弱そうな顔して先生に助けてもらってばっかりで」
「あんたのそういうとこ、本当に、嫌い。ずるい」
「野島だけの先生じゃないんだよ。むかつく」
「もうやめなさい」
由井は静かに割って入った。
野島だけの先生ではない。
その言葉は由井にも牙をむいた。
自分は今、野島を守りたい一心で鍵を開けた。野島だけの自分だった。それ以外の生徒たちがそのことをどう感じているかなど、考えていなかった。
野島のことになると、相手が生徒であれ冷静でいられない自分を、由井は知っていてどうすることもできないでいた。
できる限り中立で、平等であるべきなのに。自分は何をしているのだろう。何をしてきたのだろう。
由井は無力感に苛まれながら、女子生徒たちを宥めた。
言いたいことを言ってすっきりしたのか、怒られると思っていたのがそうならなかったので安心したのか、彼女たちは比較的すぐに落ち着きを取り戻し、由井に促されて野島に一言ずつ謝った。
女子生徒たちを帰し、2人だけになった準備室で野島にどう声をかけようか迷っていると、野島は由井に向かって微笑んで見せた。無理に笑っていることは明らかだった。それでも、どこか凛とした表情だった。
「僕、先生に話したいことがあってここに来て、ドアを開ける前にちゃんと確認すればよかったです。先生がいるかどうか」
「僕がここにいればあんなこと言われなくて済んだのにね。ごめんな」
野島はぶんぶん頭を横に振った。柔らかい髪が揺れる。
「それで、話したいことって何だったの?」
由井が聞くと、野島は床に視線を向けた。
「先生が前に……思い出した時は先生のところに、来ていいって言ってくれたから……」
2年生に襲われそうになった時のことを言っているのだ。
「いいよ。もちろん。それだったらなおさら、いなくて悪かったね」
「でも僕は先生に、」
野島が由井を見る。
「先生に甘えすぎていて、先生がいなかったら僕は、もしかしたら生きていけないんじゃないかと思って、そしたらすごく怖くなって、それで……」
「それはこの学校の中でだけの話だろ?君はちゃんと自分の足で歩くことのできる子だよ」
「でも僕は学校に来るしかないから、その中でちゃんとできなくて、僕は弱くて」
学校という、小さな小さな単位の集団の中でやっていけないからと言って、絶望する必要は全くないのに、社会を知らない子どもたちにはそれがわからない。
逃げ道は無数にある。そして、逃げてもいい。
それを教えるのが教師の役目なのに。自分たちは、一体何を教えているのだろう。
「今いる場所が全てだと思ってはいけない。そこが辛ければ、生きる場所を変えることはいつだって誰にでもできるんだ」
頼むから自分の前でそんな顔をしないでくれ、と由井は思った。
そんな、心細そうな顔を。
「でも僕は先生がいるから学校に来られるし、先輩たちに何を言われても辛くないです。それより先生のところにいたいです」
「僕のそばにいるから辛いんじゃないのか」
お願いだから突き放さないでと訴える野島の心の声が聞こえた気がして、由井は思わず本音を漏らした。
野島の気持ちを知っているような由井の一言に、彼は目を見開いた。
野島は、あの夜の独白を由井が聞いていたことを知らない。
「違います、僕は、その、別に……先生のそばにいられたら、本当にそれで……」
野島のいじらしい言葉が由井の胸に刺さる。今どれだけ彼を抱きしめたいか、どれほど努力してそれを抑えているか、野島は何ひとつ知らないままだ。
そう思うと堪らなかった。
「僕は君に、何もしてあげられない」
絞り出すように言って、由井は野島の顔から目を離した。
「そんなことありません。たくさん助けてもらっています」
「君がここにいても、僕は君にだけ時間を割くことはできない」
「……やっぱり、迷惑ですか?」
「そうじゃない。僕は教師だ。生徒を守るのが僕の仕事だ。だから野島くんがここにいたいならそれでいいんだ。でも、他のたくさんの生徒のことも考えないわけにはいかない。君のことを、みんなと同じように見て、同じように扱わなければならない。だから」
一気に言ってしまってから、由井はまた野島の顔を見た。野島はまっすぐに見返してくる。
いつもそうだ。この子は教師である僕を疑わない。教師の僕が、生徒である彼に惹かれて狂いそうになっているなどということは考えないに違いない。
由井は空気を飲み込んだ。
喉が絞まって苦しかった。
「それが、僕は辛い」
野島は虚を突かれたような顔をした。
それから、ゆっくり、うっすらと、そのまるい瞳に涙を溜めた。
「……先生が……つらい……?」
野島はほとんど聞こえないような声で呟いた。
野島が由井の言葉をどう理解したのかはわからない。聡い彼のこと、もしかすると由井の気持ちになんとなく思い至ったかもしれない。
しかしそんなことはどうでもよかった。
傷つけた。
大事な生徒を、自分は傷つけた。
上級生やクラスメイトに何をされても何を言われても涙を見せなかった野島の心を、自分は踏みにじって傷つけて、泣かせてしまった。
由井はその事実に酷く打ちのめされた。
「わかりました。少し、いろいろ、考えます」
小さな声で言い、野島は俯いた。表情は見えなかった。微かに震えているようにも見えたが、気のせいだったかもしれない。
離れていく。彼の気持ちが、体が、自分から離れていこうとしている。
それを強く感じながらも、自分が何もできないことを由井はわかっていた。
差し伸べかけた手を、由井は静かに下ろした。