さくら色の君を想う

夏休み中に入る予定の校内の補修工事のことが職員室で話題に上り、4階北側の窓の話が出た。
その窓に付いている柵が以前から壊れていて、危ないので窓自体を開かないように固定していた。あまり人気のない場所ではあるが、他を直すならついでに直したらどうか、ということになり、由井は様子見を買って出たのだった。
4階北側には、空き教室と図書室が並ぶ。その向こうにある窓を目指して歩いていると、使っていない教室から声が聞こえた。

「これでほんとに高1?ちっせーな、子どもみてえ」
「早く写真撮れ」

続いて、電子音と笑い声。

「ちょっと、暴れんなって」
「お前、ほんとにゲイなの?」
「俺のこと由井だと思っていいよ」

由井はガラスから中を覗くと同時にドアを開けた。

「何をしてる」

3人に囲まれて口に何かを詰められ、制服を脱がされていたのは野島だった。

「別に」
「みんなで遊んでましたー」

言いながらへらへらと、しかし素早い動作で3人は教室を出ていこうとする。野島は机に押し倒された体勢から動かなかった。
由井は珍しく頭に血が上り、軽く目眩を感じた。

「2の5の生徒だな。3人とも携帯を出しなさい」

由井は生徒の顔を覚えることには自信があった。クラスまでばれたことに焦ったのか、目配せをし合っておずおずと差し出された3つの携帯から、今撮影されたと思われる画像を削除して返した。
証拠を残すことより野島を傷つけないことの方が大事だった。

「話は後日ゆっくり聞かせてもらう」

普段は穏やかな由井の低い声に怖じ気づいたのか、3人はこそこそと退散した。廊下で、由井の名前を出して何か言ったようだったが、ほとんど耳に入らなかった。
由井は尚も動かずにいる野島に近づいた。

「野島くん、大丈夫か」

野島は我に返ったようにびくりと体を震わせ、体を起こして由井から顔を背けた。口に詰められたものを出しているようだったので、由井は動かずに少し待った。
野島は酷い状態だった。ベルトが外され、床に落ちている。ズボンは膝まで下げられ、下着は辛うじて着けていたが、上半身には何も着ていなかった。むき出しになった白い肩には、赤い引っ掻き傷のようなものが浮き上がっていた。
由井は床に落ちた制服の上着を拾い、埃をほろった。
野島の手から何かがぼとりと床に落ちた。よく見るとそれは大量のティッシュペーパーで、それを口に詰められていたのだと思い至り、怒りで頭が痛んだ。
また動かなくなった野島の肩に、後ろから上着をかける。その肩が震えているのを見て、由井は静かに声をかけた。

「野島くん。肩に怪我をしているけれど、他に痛むところは」

野島はゆっくりこちらを向いた。視線は由井の目より僅かに下で止まった。予想に反して、彼は泣いてはいなかった。その代わり、全身が小刻みに震えている。

「由井先生」

声も震えて小さかった。由井は、自分も怒りで震えそうになるのをこらえ、努めて落ち着いた声で、怖かったね、と言った。

「先生、誰にも言わないで」

野島は消え入りそうな声で言う。

「……他の先生にも……誰にも、知られたくない……」
「わかったよ。誰にも言わない。約束する」

引き吊っていた野島の顔から緊張が少しずつ抜けていく。

「体は大丈夫?」
「……はい」

野島はゆっくり立ち上がってズボンを上げ、由井の手から受け取ったベルトを締めた。肩にかかった上着を整える。
それから、はっとしたように由井の方を見た。

「僕、何もされてません!」
「……野島くん」
「今日もこの間もちょっと触られただけで、僕、」
「今日が初めてじゃないのか」

聞き返すと、野島は少し後退った。それを見て、由井はゆっくり深呼吸をした。

「話したくないなら無理には聞かない。大丈夫だ、僕は何があっても君の味方だよ」
「……何も……何もされてません……」

野島は悲痛に繰り返した。それだけでも、彼がどれだけ傷ついたかが伝わってきた。
ここで教師が生徒を抱きしめたらおかしいだろうか、と由井はぼんやり考えた。

「僕は、僕は、」

由井はそっと野島の手を取った。

「誰にも言わないって約束するから、野島くんも僕と約束して」

野島はまんまるの目を由井に向けた。小さな手が由井を握り返してくる。

「野島くんが忘れたいなら、僕も忘れる。でももし1人で抱えきれなくなったら必ず僕に話して。一緒に思い出そう。僕と一緒に。いいね?1人で悩んではだめだ。絶対に」

野島のふっくらとした唇がせんせい、という形に動いたのを見て、由井は念を押す。

「約束だよ?」

一呼吸置いてから、野島はこくんと頷いた。茶色い髪がふわりと揺れた。

「よし。野島くんに僕の特別なお茶をご馳走してあげる」

なんだかわからないという顔をした野島に由井は微笑んで見せる。明るい声が出るように注意を払った。

「とってもやっかいで面倒な仕事が終わった時にこっそり煎れる玉露があるんだ。準備室で一緒に飲もう」

その場に似つかわしくない、玉露、という響きがおかしかったのか、それとも由井につられたのか、野島は微笑んだ。
気づけば教室は夕闇に包まれるところだった。由井は野島を促すようにその肩にそっと触れた。
早くここから出してやりたかった。自分が忘れさせてあげられればどんなにいいか、野島を連れて準備室にむかいながらそんなことを考えた。
壊れた窓のことはすっかり忘れていた。

夏休みも明け、秋が始まったころから、野島は週に1、2回、弁当を持って準備室を訪れるようになった。
野島を追い詰める輪は少しずつその直径を狭め、クラスでも一部の生徒から陰口をたたかれることがあるようだった。
そんな話を聞くたびに、由井の心は痛んだ。
自分が野島を救ってやれるのか、何をしてやれるのか、という不安がいつも付きまとった。
その一方で、野島が準備室で自分に見せる笑顔に、由井の方が救われるような気がしていた。

そうして季節は冬に入った。その日の放課後は、雨だった。
激しくもなく、かといってやみそうにもない。朝から降り続いた寒々しい雨は、水捌けがいいはずの校庭のあちこちに水溜まりを作っていた。
由井がテストの採点を終わらせたのが午後8時。一度職員室へ寄って、残っていた教頭と軽く言葉を交わしてから学校を出た。
傘に雨粒が当たり、ぼつぼつと音を立てる。少し肌寒い。
校門を出て駅へ向かう道は通学路のため、交通量が少ない割には明るい。
由井の先を歩く影が見えた。ビニール傘に街灯の白い光が反射している。見るともなしにその後ろ姿を見ながら歩く。その歩き方に見覚えがあった。
その人物が駅に入り、由井も間もなくそれに続く。
切符売り場で料金表を見上げる横顔に、由井は声をかけた。

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