さくら色の君を想う

「由井先生、いますか」
「いるよ。どうした?」

放課後、薄暗くなってから、野島のクラスの女子が何人かで準備室を訪ねてきた。

「先生、まだ帰らないの?」
「まだだけど、どうして?」
「先生電車でしょ?みんなで一緒に帰ろう」
「どうして?」
「どうしてって、帰りたいから」

顔を見合わせてくすくすと笑う。
そういう年代だ、と由井は思う。毎日何かが楽しくて、毎日何かが憂鬱で、すぐ笑い、すぐに泣く。それでも明日は必ず来て、それは楽しいに違いないとか、悲しいに違いないとか、信じて疑わない年代。
普通の明日が来てそれをなんとかやり過ごせるだろうと、楽観とも諦めともつかないような気持ちで日々生きている自分がひどく年寄じみて感じられるようなことが、生徒をみているとよくあった。

「明日の準備がまだ終わりそうにないから、暗くなる前にみんなで帰りなさい」
「えー、先生仕事しすぎじゃないの?」
「明日の準備って何?」
「3年生の実験だよ」

ふーん、と大して興味なさそうに声を上げて、じゃあまた今度ね、絶対一緒に帰ろうね、と口々に騒ぎながら、生徒たちが準備室を出ていく。
一気に静かになった準備室で、由井はお茶を淹れるために立ち上がった。
雨はまだしとしとと降っていて、止みそうにない。

学校という場所は、外の社会よりも季節をより濃く感じられるようにできていると、学校を職場にしている由井は思う。
入学式、宿泊研修、夏休み。文化祭、修学旅行。
体育祭、冬休み、卒業式、春休み。
そして日々の授業も、その季節とともに近づき、過ぎ去ってゆく。
準備室から見える四角い景色も、毎日違う。
今日の雨は本降りだ。雨の日特有のにおいが教室や実験室へも入り込んで纏わりつく。由井はその感覚も嫌いではなかった。
まだ昼休みだというのに空は暗く、雲はまだ余力を残しているというように、たっぷりと重そうだ。

「失礼します」

ノックの音とともに準備室に入ってきたのは野島だった。

「ああ、ごくろうさま」
「すみません。ちょっと早く来すぎました」

壁の時計をちら、と見てから野島が微笑を浮かべる。つられて時計を見ると、5時間目始業時間の15分前だった。

「そうだな、今日はそんなに器具を使わないから……野島くん、お茶飲む?」
「え、でも」
「みんなには内緒だよ。たまり場になると僕が怒られるから」

プラスチックのカップにお茶を淹れて野島に差し出すと、申し訳なさそうに受け取ってから、小さな声で、いただきますと言った。大きな目がそっと伏せられる。
窓を叩く雨の音に、2人は外へ視線を向けた。

「ひどい雨だね。野島くん、通学は電車?」
「いえ、徒歩です」
「家、近くなんだ」
「はい。歩いて20分くらい。先生は電車ですか」
「うん」
「少し憧れます。電車通学」

由井を見上げる目は真っ直ぐで、育ちの良さを窺わせた。湿気のせいかいつもより髪の毛がふわふわしている。野島が動くと、せっけんと温かい体臭の混ざったような香りが漂った。
ふうふうとお茶を冷ます野島を見ながら、由井は聞く。

「野島くんは足が悪いんだね。股関節?」
「はい。生まれつき少し弱いんです」
「聞かれすぎてうんざりするような質問だったかな」
「いえ、あまり聞かれません。僕がそのこと気にしてると思うみたいで」
「そうか。気にしているなら悪かった」
「いいえ。僕にとっては、髪茶色いけど地毛?って聞かれるのと似ています」

だから大丈夫、と言って、また見上げる。そのまるい瞳に一瞬言葉を忘れ、考えるより先に手が動いて、由井は野島のふわりとした髪を撫でた。
野島は由井を見上げたままふっくらとした頬を赤く染めた。
小さな手からプラスチックカップが滑り落ちる。それは咄嗟に出した由井の手に支えられ、中身が零れ落ちることを免れた。

「大丈夫?……髪に、ゴミが付いていたから」

自分の無意識の行動に内心激しく戸惑いながら、由井は野島に嘘をついた。
自宅に帰ってからも、由井はその衝動の意味をぐるぐると考え続けた。

あまり暖かい春ではなかった。雨が続き、少し気温が上がってきたと思えば、季節はもう梅雨を迎えた。

「じゃあ、それぞれの試験管に食用油を3滴ずつ入れてみよう」

蒸し暑く、衣服が体に張り付くような不快感がある。生徒たちもノートやファイルで自らを扇いでいた。
由井は生徒たちに実験を進めさせながら、白衣の袖をまくった。眼鏡を押し上げてから、ホワイトボードにサインペンを滑らせる。

「変化があったかな。この現象を乳化といいます」

実験室を振り返って各グループを見渡す。皆、試験管へ目を向けている。
そんな中、野島が由井の袖のあたりを見ていた。わずかに首をかしげているように見えたので、由井は自分の白衣を確認する。特に異常はない。どうした?と問うような視線を向けると、彼と目が合った。
野島は驚いたように目を見開いた。丸い目がさらにまんまるになり、由井は思わず微笑んだ。
彼は恥ずかしそうにテーブルの上へと視線を移した。



「先生。手伝っていいですか?」

野島のクラスの実験後、いい加減な後処理をしたグループの試験管を洗い直していると声をかけられ、振り向くと野島が立っていた。
野島のクラスメイト達は皆、もう既に実験室を出た後だ。

「助かるけど、もうお昼休みだよ」
「今日はパンを持ってきているから……すぐ食べられるし」
「そう?じゃあ。ありがとう」

2人並んで流しに向かった。レモンイエローのスポンジが洗剤を含んで泡を立てる。ビーカーを洗いながら野島が口を開く。

「先生はいつも、お昼には何を食べるんですか?」
「学食から運んでもらって、お蕎麦のことが多いかな」
「……お弁当を持って来たりは、しないんですか」
「料理はあまり得意じゃないからな。作ってくれる人もいないしね」

由井は流水で試験管をすすぎながら、笑みを含んだ声で言った。
野島は、そうですか、と小さく呟いた。



「どうしたの、それ」
「……作りました」

次の日、3時間目が終わった後の準備室で、由井は椅子に掛けたまま野島と向き合っていた。
俯きがちに佇む野島の手には、きれいな水色のナプキンに包まれた四角いもの。

「お弁当?」
「すみません、やっぱり……ちょっとあの、……やめます」

野島は顔を真っ赤にして踵を返した。由井はその背に声をかける。

「野島くんが作ったの?」
「……はい」

野島は立ち止まって振り返った。

「僕のために?」
「……はい」
「ちょっと、戻っておいで」

野島は手招きした由井に素直に従い、おずおずと包みを差し出す。
ナプキンを解くと紺色の弁当箱が顔を出し、由井はそのふたを開けた。派手ではないが配色のきれいな弁当だった。

「へえ、おいしそうだね。食べていい?」
「……はい」
「いただきます」
「味見とかはしたから、多分……そんなに不味くは、ないと思います……」

蚊の鳴くような声を聞きながら鶏の唐揚げを口に入れた。

「おいしいよ」

お世辞ではなかった。人の手料理を食べるのは久しぶりのことで、思いの外感激して箸が進む。野島は照れたように笑って、ふう、と息を吐いた。

「ありがとう。君は器用なんだね」

心から礼を言うと、野島は困ったような顔をして目を泳がせた。

「失礼しまーす」
「あ、先生お弁当!」
「めずらしくない?ソバじゃないんだ」

3年生の女子たちがガヤガヤと入室して、場が一気に騒がしくなる。
野島は、じゃあ僕失礼します、と言っていそいそと出て行こうとした。

「もしかして今の子が作ったの?」
「まじで?」
「先生ついに男にも好かれちゃうんだ」

野島の肩がぴくりと跳ね、彼は逃れるように準備室を出て行った。

「君らも料理するの?」
「ひどくない?」
「うちらだってやるし!」
「今度作ろう。ね、先生、食べてくれる?」

出て行った背中が気になって、由井は戸を見つめた。

翌日、廊下で野島と出くわしたので、時間がある時に準備室へ来てくれるように言った。
放課後に準備室を訪れた野島に、由井は立ち上がって礼を言い、洗った弁当箱と畳んだナプキンを手渡す。野島の表情はいつになく暗かった。

「どうしたの。元気がないみたいだけど」

いえ、と言ったまま立ち尽くす。何か言いたいことがあるのだと思い、由井は言葉を重ねた。

「お弁当、本当においしかったよ。またお願いしたいくらいだ」

屈んで顔を覗き込むと、思い切ったように由井を見上げる。その目には想像していたより強い光が宿っていて、少し驚いた。

「あのっ、僕がいろいろ……先生に話しかけたり、授業前でもないのにここに来たりするの、……迷惑ですか?」
「そんなことはないよ。どうして?」
「……本当に?」

縋るような声音を聞いて、由井は、小さな鈴の音のような、野島の想いに触れた気がした。

「ほんとうだ」

噛んで含めるように言うと、野島の表情が若干和らいだ。

「誰かに何か言われたの?」
「……由井先生は女の子に人気があるし、僕がここにいたら邪魔かなと思って……」

野島は否定も肯定もしなかった。恐らく何かあったのだろう。
それには触れず、由井は微笑んでゆっくり首を振った。

「君が居たいと思う場所に居ればいい。この人と一緒に居たいと思う人のそばに。友達でも、教師でも。誰に縛られる必要もない。ここが気に入ったなら、いつでも来てくれていいよ」

野島は顔を赤くして俯いた。
何か誤解を生む言い方だったかと思ったが、言い訳をしても墓穴を掘るだけだと思って黙っていた。
しばらく気づまりでない沈黙が流れて、準備室の空気が柔らかいものへ変わった。
野島は顔を上げ、唐突に言った。

「先生は、教え子の女の子を、好きになったこと、ありますか」

身じろぎした由井の靴のゴム底が床に擦れ、湿気できゅうと音を立てた。

「ないよ。生徒のことをそういう目で見ることはなかったし、」

野島の眼差しはどこまでもまっすぐで、由井はそれに絡め捕られる前に目を逸らした。弁当箱を持つ野島の手は、やはり自分のものよりずっと小さかった。

「これからもないだろうな」

それは自分に対する警告でもあった。
野島は視線を逸らさずこちらを見ていた。
どうかそれが嘘にならないように。どの生徒にも分け隔てなく接することができるように。
由井はそれが教師の務めだと信じて疑わなかった。
窓の外では、しとしとと雨が降り続いている。

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