さくら色の君を想う
君が転校したことを、今日知りました。
担任だった高橋先生から、副担任や教科担任に連絡がありました。
君は自分の道を、自分1人で決めたのですね。
今さら何を言っても、君はあんなことを言った僕を許さないかもしれない。
でも、君がどれだけ悩んだか、どんなに辛い思いをしたか、僕の知らないところでどれだけ涙を流したか、そう考えると居てもたってもいられなくなり、ペンを取りました。
1人で悩むなと、悩むなら僕と一緒にと君に約束させたのに、僕は君を裏切って突き放しました。
それが君を傷つけることを、僕はわかっていた。それでも僕はそうしなければならなかった。そうしなければならないと信じていました。
でも今はもうわかりません。僕の矜持や信念など曲げて、全てを賭けて君を守るべきだったかもしれないと思っている自分がいます。
君が離れていくことがこんなに辛いなら、他のどんな選択肢も取るに足らないことだったのではないかと思っている自分がいるのです。
こんな手紙は出せない。出すべきではないと思います。
でも、苦しくてじっとしていられませんでした。
女々しいと笑ってくれてもいい。僕の気持ちの問題です。
新しい学校はどうですか。
友達はできましたか。
元気で、楽しく過ごしていますか。
もう一度だけでいい。僕は、君に会いたいです。
君がもう一度、僕のそばにいたいと言ってくれたら、僕はすぐにでも、
さくら色の君を想う
また、桜の季節がやってきた。
その年、クラス担任を外れた由井(ゆい)は、副担任と教科担任を受け持つクラスの生徒たちを教員席から見渡していた。真新しい制服が眩しい。目を細めながら、由井は眼鏡を指で押し上げる。
ステージ上では校長の新入生への挨拶が続いており、毎年行われるこの行事はつつがなく進行されていた。
私立高校の中でも屈指の進学校であるこの学校に由井が新任教師として赴任してから、4年が経っていた。
毎年、3年生が卒業しては新入生が入学する。どんどん入れ替わる顔触れ。
由井が初めて担任を持ったクラスの生徒たちが、この3月に卒業した。それなりに悩みもしたが、皆が無事3年間を過ごし、笑ったり泣いたり冗談半分に由井の白衣のボタンを欲しがったりしながら校舎を去っていくのを見て、これでやっと少しは教師らしくなれたのかと感慨に浸ったのがついこの間。全てがいい経験、いい思い出に、ゆるりと移ろっていく。
新年度に合わせておろしたばかりのパリっとした白衣を着て、由井は穏やかな気持ちでパイプ椅子に座っていた。
式典が無事に終わり、生徒たちは列を成して教室に戻る。
由井は職員室に寄ってから、実験準備室に向かった。
化学や生物学、物理学などを担当する理科教師は全部で8人。その中で、化学担当の由井が1番若い。備品の管理や整理を任され、俄然準備室にいる時間が多かった。担任を持たない今年は益々入り浸りそうだった。
終業のチャイムが軽やかに響く中、小型電気ポットでお湯を沸かす。
煎茶の香りが立つ中、由井は湯飲みを持って窓際に立った。湯気で眼鏡がうっすらと曇る。
入学式には最高の、穏やかな晴天だった。新しい顔ぶれ、新しい教科書。また最初から、全てが始まっていく。
準備室の窓から、下校する生徒たちがちらほらと見えた。由井はぼんやりとそれを見ていた。
その中に、新しい友人たちと並んでわずかに足を引きずる生徒を見つけた。周りに比べて背も体格も少し小さい。茶色がかった髪の毛が、太陽の光を反射していた。
なんとなく、その生徒が校門から外に出て姿を消すまで見送ってから、由井は雑務を片付けるために机に向かった。
「このクラスは、もう教科係を決めたかな」
今年度最初の授業。
まだ緊張感の漂う教室で最前列の席の女子生徒に聞くと、彼女の、はい、という返事と同時に、左側一番後ろの席の男子生徒が控え目に手を挙げた。
「そう。名前は?」
「野島です」
くりくりとしたまるい目が印象的だった。緊張しているのか、表情は固い。
この学校では、教科ごとにクラスから1人ずつ教科係を決めることになっている。それは担当教師の軽い補佐の役割を担う係で、教材を運んだり、終わったプリントを集めて職員室へ届けたりという、いわば雑用係だった。教科によっては全く仕事がなかったり、逆に毎時間仕事を言いつけられたりと、当たり外れがあった。
由井はメモ用のノートに「1-7 ノジマ」と走り書きをする。
「野島くん、ね。化学の係は割と忙しいけど、よろしくね」
「よろしくお願いします」
野島は律儀に、立ち上がって礼をした。
「次回は実験を行います。実験室、わかるかな。3階の北側奥です。野島くんは、始業5分前に隣の準備室まで来て下さい」
野島は真剣な顔で頷いた。
「では、終わります」
一気に教室がざわめく。教科書を閉じる音。椅子を動かす音。話し声。笑い声。
誰かが開けた窓から心地よい風が入って、廊下へと抜けていった。
「これを各テーブルに2つずつ置いてくれるかな。あとこっちのは4つずつ」
「はい」
野島は慎重な面持ちでアルコールランプを2つ、手に持った。
授業前、言われた通り5分前に準備室のドアを開けて野島は入ってきた。
由井は丁度雑務を終えたところで、その由井に向かって野島は「1年7組教科係の野島です。よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げた。
清廉な生真面目さを感じた。肌の色が白く小柄で、背は由井の鎖骨あたりまでしかない。自分と比べると驚くほど小さな手をしていた。
「他の教科より少し忙しいかもしれないけれど、気楽にやってもらっていいから。難しいことは何もないよ」
眼鏡を押し上げながら由井が言うと、野島は素直に笑顔を見せた。
由井に言われた通りに実験器具を各テーブルへとセットしていく野島を見て、由井は思い出す。
足を引きずっていたのはこの子か。
窓の外では、つい何日か前まで満開だった桜が、強い風に吹かれて舞い散っている。
由井はもう一度野島に目をやり、それから、使用する薬品の準備に取り掛かった。
「クラスには慣れた?」
「はい」
何度目かの授業前、由井の指示で戸棚からフラスコを取り出す野島の声は明るい。
最初の授業の時は硬かった表情も、緊張のためだったのだと今はわかる。話しかければ必ず笑顔が返ってくるような根の明るさを、由井は野島から感じるようになっていた。
そこだけは変わらない手元の慎重さも好ましく思う。真面目で優しい、かわいい生徒だ。
「由井先生おはようございまーす」
「おはよう」
野島のクラスの生徒たちが実験室に集まってくる。
窓の外は雨。室内もしっとりとした湿度に包まれていた。
桜はすっかり散って、新緑が恵みの雨を一生懸命吸いこんでいるようだった。
昼休みに入ったところでノックの音がして、顔を出したのはバレー部顧問の岩原だった。彼は話し出す前から顔の前で手刀を切り、それだけで用件が大体知れる。
「由井先生、ごめん!」
「いいですよ。いつですか」
「先生の予定空いてたらだけどさ」
岩原は40代後半の現国の教師だ。地声が大きく、エネルギーが溢れているのが動作にも表情にも表れているようなタイプだった。
1年生の学年主任をしており、3人の子どもを持つ父親でもある。
由井は学生時代にバレーボールの経験があり、バレー部の練習試合に岩原の都合がつかない時などに、引率の代役を頼まれることがあった。
「悪いね。下の子の父親参観あったの忘れててよ」
「それは楽しみですね」
「いやぁ、あんまり出来が良くないからな。親父に似て元気だけはあるけど」
謙遜しながらも、ははは、と笑う。きっと3人の子ども達は目一杯の愛情を注がれているに違いない。
そんな岩原につられて、由井は思わず微笑んだ。
「じゃあそんなことで。部長の福田には言っておくから。よろしく頼むわ」
試合の詳細を由井に託して、岩原は準備室を出て行った。
渡された日程表によると、引率を頼まれたのは他校での練習試合。私立の男子校だった。
由井は集合時間を自分の予定表に書き込み、日程表を引き出しへしまった。
担任だった高橋先生から、副担任や教科担任に連絡がありました。
君は自分の道を、自分1人で決めたのですね。
今さら何を言っても、君はあんなことを言った僕を許さないかもしれない。
でも、君がどれだけ悩んだか、どんなに辛い思いをしたか、僕の知らないところでどれだけ涙を流したか、そう考えると居てもたってもいられなくなり、ペンを取りました。
1人で悩むなと、悩むなら僕と一緒にと君に約束させたのに、僕は君を裏切って突き放しました。
それが君を傷つけることを、僕はわかっていた。それでも僕はそうしなければならなかった。そうしなければならないと信じていました。
でも今はもうわかりません。僕の矜持や信念など曲げて、全てを賭けて君を守るべきだったかもしれないと思っている自分がいます。
君が離れていくことがこんなに辛いなら、他のどんな選択肢も取るに足らないことだったのではないかと思っている自分がいるのです。
こんな手紙は出せない。出すべきではないと思います。
でも、苦しくてじっとしていられませんでした。
女々しいと笑ってくれてもいい。僕の気持ちの問題です。
新しい学校はどうですか。
友達はできましたか。
元気で、楽しく過ごしていますか。
もう一度だけでいい。僕は、君に会いたいです。
君がもう一度、僕のそばにいたいと言ってくれたら、僕はすぐにでも、
さくら色の君を想う
また、桜の季節がやってきた。
その年、クラス担任を外れた由井(ゆい)は、副担任と教科担任を受け持つクラスの生徒たちを教員席から見渡していた。真新しい制服が眩しい。目を細めながら、由井は眼鏡を指で押し上げる。
ステージ上では校長の新入生への挨拶が続いており、毎年行われるこの行事はつつがなく進行されていた。
私立高校の中でも屈指の進学校であるこの学校に由井が新任教師として赴任してから、4年が経っていた。
毎年、3年生が卒業しては新入生が入学する。どんどん入れ替わる顔触れ。
由井が初めて担任を持ったクラスの生徒たちが、この3月に卒業した。それなりに悩みもしたが、皆が無事3年間を過ごし、笑ったり泣いたり冗談半分に由井の白衣のボタンを欲しがったりしながら校舎を去っていくのを見て、これでやっと少しは教師らしくなれたのかと感慨に浸ったのがついこの間。全てがいい経験、いい思い出に、ゆるりと移ろっていく。
新年度に合わせておろしたばかりのパリっとした白衣を着て、由井は穏やかな気持ちでパイプ椅子に座っていた。
式典が無事に終わり、生徒たちは列を成して教室に戻る。
由井は職員室に寄ってから、実験準備室に向かった。
化学や生物学、物理学などを担当する理科教師は全部で8人。その中で、化学担当の由井が1番若い。備品の管理や整理を任され、俄然準備室にいる時間が多かった。担任を持たない今年は益々入り浸りそうだった。
終業のチャイムが軽やかに響く中、小型電気ポットでお湯を沸かす。
煎茶の香りが立つ中、由井は湯飲みを持って窓際に立った。湯気で眼鏡がうっすらと曇る。
入学式には最高の、穏やかな晴天だった。新しい顔ぶれ、新しい教科書。また最初から、全てが始まっていく。
準備室の窓から、下校する生徒たちがちらほらと見えた。由井はぼんやりとそれを見ていた。
その中に、新しい友人たちと並んでわずかに足を引きずる生徒を見つけた。周りに比べて背も体格も少し小さい。茶色がかった髪の毛が、太陽の光を反射していた。
なんとなく、その生徒が校門から外に出て姿を消すまで見送ってから、由井は雑務を片付けるために机に向かった。
「このクラスは、もう教科係を決めたかな」
今年度最初の授業。
まだ緊張感の漂う教室で最前列の席の女子生徒に聞くと、彼女の、はい、という返事と同時に、左側一番後ろの席の男子生徒が控え目に手を挙げた。
「そう。名前は?」
「野島です」
くりくりとしたまるい目が印象的だった。緊張しているのか、表情は固い。
この学校では、教科ごとにクラスから1人ずつ教科係を決めることになっている。それは担当教師の軽い補佐の役割を担う係で、教材を運んだり、終わったプリントを集めて職員室へ届けたりという、いわば雑用係だった。教科によっては全く仕事がなかったり、逆に毎時間仕事を言いつけられたりと、当たり外れがあった。
由井はメモ用のノートに「1-7 ノジマ」と走り書きをする。
「野島くん、ね。化学の係は割と忙しいけど、よろしくね」
「よろしくお願いします」
野島は律儀に、立ち上がって礼をした。
「次回は実験を行います。実験室、わかるかな。3階の北側奥です。野島くんは、始業5分前に隣の準備室まで来て下さい」
野島は真剣な顔で頷いた。
「では、終わります」
一気に教室がざわめく。教科書を閉じる音。椅子を動かす音。話し声。笑い声。
誰かが開けた窓から心地よい風が入って、廊下へと抜けていった。
「これを各テーブルに2つずつ置いてくれるかな。あとこっちのは4つずつ」
「はい」
野島は慎重な面持ちでアルコールランプを2つ、手に持った。
授業前、言われた通り5分前に準備室のドアを開けて野島は入ってきた。
由井は丁度雑務を終えたところで、その由井に向かって野島は「1年7組教科係の野島です。よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げた。
清廉な生真面目さを感じた。肌の色が白く小柄で、背は由井の鎖骨あたりまでしかない。自分と比べると驚くほど小さな手をしていた。
「他の教科より少し忙しいかもしれないけれど、気楽にやってもらっていいから。難しいことは何もないよ」
眼鏡を押し上げながら由井が言うと、野島は素直に笑顔を見せた。
由井に言われた通りに実験器具を各テーブルへとセットしていく野島を見て、由井は思い出す。
足を引きずっていたのはこの子か。
窓の外では、つい何日か前まで満開だった桜が、強い風に吹かれて舞い散っている。
由井はもう一度野島に目をやり、それから、使用する薬品の準備に取り掛かった。
「クラスには慣れた?」
「はい」
何度目かの授業前、由井の指示で戸棚からフラスコを取り出す野島の声は明るい。
最初の授業の時は硬かった表情も、緊張のためだったのだと今はわかる。話しかければ必ず笑顔が返ってくるような根の明るさを、由井は野島から感じるようになっていた。
そこだけは変わらない手元の慎重さも好ましく思う。真面目で優しい、かわいい生徒だ。
「由井先生おはようございまーす」
「おはよう」
野島のクラスの生徒たちが実験室に集まってくる。
窓の外は雨。室内もしっとりとした湿度に包まれていた。
桜はすっかり散って、新緑が恵みの雨を一生懸命吸いこんでいるようだった。
昼休みに入ったところでノックの音がして、顔を出したのはバレー部顧問の岩原だった。彼は話し出す前から顔の前で手刀を切り、それだけで用件が大体知れる。
「由井先生、ごめん!」
「いいですよ。いつですか」
「先生の予定空いてたらだけどさ」
岩原は40代後半の現国の教師だ。地声が大きく、エネルギーが溢れているのが動作にも表情にも表れているようなタイプだった。
1年生の学年主任をしており、3人の子どもを持つ父親でもある。
由井は学生時代にバレーボールの経験があり、バレー部の練習試合に岩原の都合がつかない時などに、引率の代役を頼まれることがあった。
「悪いね。下の子の父親参観あったの忘れててよ」
「それは楽しみですね」
「いやぁ、あんまり出来が良くないからな。親父に似て元気だけはあるけど」
謙遜しながらも、ははは、と笑う。きっと3人の子ども達は目一杯の愛情を注がれているに違いない。
そんな岩原につられて、由井は思わず微笑んだ。
「じゃあそんなことで。部長の福田には言っておくから。よろしく頼むわ」
試合の詳細を由井に託して、岩原は準備室を出て行った。
渡された日程表によると、引率を頼まれたのは他校での練習試合。私立の男子校だった。
由井は集合時間を自分の予定表に書き込み、日程表を引き出しへしまった。
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