大きな声では言わないけど

番外 森田と岡崎 スーパーハッピーハーフウェイ



その日は、なんてことはない、記念日でもなんでもない、ただの一日だった。

付き合い始めて三年。
同棲して、二年。
繁華街に近かった和室のあるあのアパートが老朽化で改装されることになり、森田さんはそれをきっかけに引っ越しをした。
もう、治安の悪い場所を選ばなくてもよくなっていて、普通の、住宅街の中の静かなマンションへ。
それに伴って俺は、ほとんど帰らなくなっていた自分の部屋を引き払い、押しかけるようにして同棲を始めた。
ペット可の物件だから、そのうちなにか飼いたいねと話して、それから二年、生き物は増えていない。
俺の写真は相変わらず飾られていて、信者によってスポーツドリンクを供えられている。

友達と飲んで、帰ったのは深夜三時。
森田さんは半分眠ったような顔でのそりとベッドから起き上がり、おかえり、と言ってくれた。
今の家では布団じゃなくて、ダブルベッドで寝起きしている。
べろべろだったのだ。久しぶりに会う友達と調子に乗って日本酒やブランデーを飲んで、楽しくて、森田さんの顔を見たら途端に切なくなって、床に座り込んで、哀願するように俺は言った。
「森田さん。俺と結婚して」
酔っ払いの深夜のテンションは恐ろしい。
結婚なんて、普段は怖くてとても口にできるような単語ではない。
ただ、会った友達が、彼女が妊娠したから結婚しようと思う、と言ったから。それだけのこと。それだけの。
「酔ってる……酔ってるね、岡崎さん」
「酔ってる。ねえねえ結婚して」
ベッドから下りてきて、俺の前にしゃがんだ森田さんは、とりあえず寝よう、と話を流した。
ムッとした。
「わかったよ、もういい。森田さんはそうやってずっと一生ジメジメしてればいいんだ」
ああどうしてこういうことを言ってしまうんだろう。口にした瞬間から後悔するのに、許されるかどうか何度だって試してしまう。
森田さんはちょっと何か、なんとも言えないような顔をした。
「岡崎さん」
そして悲しそうでもなく、傷ついたふうでもなく、森田さんはいつもの静かな声で俺を呼んだ。
「ちょっと、水飲んで。たくさん」
「水?」
「酔いがさめたら、ちょっと、外に出ませんか」
その言葉だけですっと酔いが引いた。
森田さんは冷蔵庫からいつも飲んでいる水のペットボトルを出して俺に手渡し、水を飲み始めた俺の肩を優しく抱く。
なんだかいつもと雰囲気が違って、怖いような、ひどい緊張感を味わった。

少し行ったところにいい場所を見つけたと言い、言葉少なに俺を連れて歩く森田さんは、いつも着ている紺色のパーカー姿で、それは俺がホワイトデーに買ってあげたやつだ。
履いてるスニーカーは、一緒にセールに行ったときに買ったもので、お気に入りなのでかかとがすり減っている。
デニムは、俺と付き合う前から持ってるやつ。
ポケットに入っている財布もそう。
森田さんは物持ちがいい。

知ってるものがどんどん増える。
一緒にいたら一緒にいただけ、お互いがお互いの一部になっていく。
それが本当は、少し怖いと思っていた。その延長線上にあって、ほとんど二人が重なるようなところにあるのが、俺の知らない結婚生活というものだと、なんとなく漠然と、思っていた。
知らないものは、怖い。一生手に入らないと諦めていたもの。遠くから眺めていたもの。

「ここ」
そこは住宅街の高台で、目の前には下へおりる階段がゆるやかに続いていた。
「すごいね。高い」
「そうだね」
その一段目に、森田さんは俺を座らせて、自分はそれに向かい合うように膝をついてしゃがんだ。
眼鏡をかけた森田さんの顔が、自分の視線より下にある。
出会った頃より少し短くなった髪。
森田さんの後ろには住宅街の地味な夜景と、きらきら光る星空。
白鳥座は、どこだろうか。
森田さんは下から俺を見上げて、俺の両手を包み込むように握った。
そして、静かな声で話し出した。それは寝静まったあとの、静かで平和で平凡な住宅街にとても似合う声だった。
「俺は、あなたの人生を、俺に預けてほしいなんて、そんな、そんなことは、まだ怖くて、とても言えません。幸せにしたい、とか、幸せにするとか、そういうことも、自信がない、から、言えません。信じてと言っていいのか、すら、わからない。あなたが俺のことを、なぜか、ちょっと……、気に入ってくれてるみたいなのが、どうしてかさっぱり、理由が、わからない……でも少し、自信が持てるようには、なりました。大変なことが起きても、自分には、岡崎さんがいるから、と思うと、強い気持ちでいられて、無駄に傷つかずに済むように、なりました。それは、昔の自分からしたら、全く予想もできなかったことで、本当に、俺はあなたと出会えて、あらゆるものに、感謝をしたいような気持ちです。そういう、そういう重い、ものを、重い人間を、背負わせることになるけど、それでもいいのなら、……いいのかな……。もともとあまり、なにも持っていない俺が今、岡崎さんに約束できることは少なくて、でも、確実に言えるのは、言いたいのは……俺が……俺にはこの先、何があっても、大切にしたいと思う人は、あなた、岡崎さん、ただ一人だけだと、それだけは、あなたに、胸を張って、言えます」
森田さんは今、どんな顔をしてる?
視界が歪んで、ぼんやりとした光しか見えない。
「岡崎正浩さん。俺と、結婚して下さい」











岡崎は顔を歪め、しゃくりあげるほど泣いた。
友人と飲んで帰った岡崎は酔っていた。だからもっと違うタイミングでとも思ったけれど、岡崎がそれを望んでくれた今しかないとも思った。
前からいいなと思っていた場所で、綺麗に出ていた星に勇気づけられて、それでも言いたかったことの半分も言えなかった。
付き合う前からそうだけれど、岡崎はちゃんと、俺の下手な話を聞いてくれる。
プロポーズにしては回りくどくスマートではなかったけれど、ひとしきり泣いたあとで、鼻声で「よろしくお願いします」と答えてくれた岡崎に安心して転びそうになってしまった。
岡崎はそれを見て笑った。今日も綺麗な笑顔だ。

戸籍のことや、岡崎の家族への報告や、そういう現実的なことは、二人で話し合ってゆっくり決めればいい。
俺はもう、欲しいものが全て揃っているので、あとは岡崎がしたいと思うことをしていけばいいと思っていた。
結婚式や新婚旅行や結婚指輪や、ほかのカップルがするようなことを、岡崎が望むだけ叶えたい。

「俺は森田さんにたくさん、笑うことを教えてもらった」
帰り道、岡崎はそう言った。
そういえば、付き合う前、岡崎の心からの笑顔を、俺は心底望んでいた。
ちゃんと笑ってほしいと思っていた。
「森田さんの前だと、なんか笑っちゃうんだー。なんでだろ」
握った手を引き寄せて、頭をそっと撫でる。
俺の幸せはこの人そのものでできていて、それ以外は何もいらない。岡崎以外は、何も。
俺たちは、階段の一番上に登りきったわけではない。これから下るわけでもない。これから上の方へ、自分たちで階段を作って登って行くのだ。結婚しようと決めたあの一段は、後から見れば、階段の途中になるはずだ。
「今度また競馬見に行かねー?」
「そうだね。行こう」
「次休みいつ?」
「シフト、明日だ」
「待って、忘れてた、トイレットペーパーなくね?」
「昨日、買ったよ」
「まじか!さすが。大好き」
「あ、ありがとう」
「こちらこそ」
階段は、日常の延長。
少しずつ、少しずつ、できていく。






-end-
2018.3.22
修正2023.1.9
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