大きな声では言わないけど
番外 森田と岡崎23 (ひとくぎり)
秋。
森田さんと付き合うようになってから、3ヶ月くらいが過ぎた頃だ。
久しぶりに2人で図書館に行った帰りだった。
その日は少し足を伸ばして、少し遠くの図書館へ行ったんだ。
周りをいろいろ見て回れそうだったから、少し離れた駐車場に車を停めて、知らない道を2人で歩いた。
森田さんは借りた本の入ったトートバッグを持っていた。少し前に俺が買ってあげたやつだ。
森田さんは本をたくさん借りる。たくさん返す。だから袋があると便利だと思って、買ってあげた。
超シンプルなデザインで、森田さんが持ってしっくりきそうなやつをみつけたから。
ちなみに、その中には俺の借りたマンガも入っていた。
図書館にマンガもあるなんてすごく便利だって話して歩いた。
すごく晴れてて、森田さんが「秋晴れ」って呟いて、俺が「うん」って返事をした。
すごく気持ちがよかった。
そのあと俺が買い物したくて、ちょっと店を見てから晩メシを食べて帰る予定だった。
楽しい楽しいデートの日。何日も前からその日を楽しみにして仕事もがんばった。
なに食おうね、って言うと、何でも、岡崎さんの好きなものを、って、返事が返ってきた。
コーヒーショップの前を通りかかって、いい匂いがしたから、コーヒーがほしくなって森田さんにそう言うと、珍しく「じゃあ、俺も、飲みます」と言ってくれて、俺だけが店内に入ってテイクアウトでコーヒーを2つ買った。
店を出たら、森田さんが、男を連れた女と、向かい合って立っていた。
直感だ。これはオンナの勘だ。
いや、俺は全然オンナじゃないけど、オンナポジションの勘だ。
あいつは、森田さんの、元妻だ。
あの女だ。絶対そうだ。
頭に血が上って、勢いをつけて足を踏み出して、俺は森田さんの隣に立った。
森田さんは俺を見た。
女も、隣の男も、俺を見た。
俺は、女だけを見た。
こいつか。
許さない。
俺はお前を、ずっと、ずーっと、許してない。
「あの、」
森田さんが何か言った。
女が森田さんを見た。
見るな。お前に、森田さんを見る資格なんてない。
口を開くとひどい言葉で思い切り殴りつけてしまいそうで、俺はずっと奥歯を噛み締めていた。
「岡崎さん、俺の、その、前の、奥さんで」
小さな声を聞いた。
そんなふうに言わないで。もう苦しくて息ができない。
こいつはもう前の奥さんでも何でもない。ただの女だろ。もう森田さんとは関係ないだろ。
おねがいだから、こいつを俺に紹介しないで。
そっち側に、行かないで。
このまま、なにもなかったことにして。
誰も、なにも言うな。
なにか言葉を聞いたら、それをきっかけに俺の中で外で、大きな爆発が起きるとわかっていた。
でも女が言った。
小柄な、平凡な顔をした、化粧の薄い、でもなんか目がやたらきらきらしたような、全体的になんだか陶器のミニチュアみたいなその女が。
おとなしそうで、いかにも本を読みそうな。
森田さんと趣味が合いそうな、その女が。
「友達?」と、俺のことを森田さんに聞いた。
うるっせえ。黙れ。
「つまんなそうな女」
気づいたら、言っていた。
「あ?」
隣の男が俺を睨みつける。
「何。素直な感想なんだけど」
喧嘩売ったつもりはないけど、そう取られたなら仕方がないと身構える。
「元気そうで、よかった」
森田さんが普通の声でそう言った瞬間、俺は自分の言葉を心底後悔した。
ぱんぱんにふくらんでいたふうせんが、一瞬ではち切れて、かけらもなにも、なくなるみたいに。
「そっちもね」
女が微笑む。心からほっとしたみたいな、全身の力が抜けたみたいな、そういう笑い方だった。
この女は、少しでも自分の行動を悔いたことがあったのか。
少しでも、引きずったりしてたのか。
森田さんが忘れられなかったみたいに。
あんなにがんじがらめに、人を遠ざけて1人で生きようとするような、ああいう生き方を、こいつもしてたのか。
胸のとこがすごく痛い。
何。これ。
俺は、俺の居場所は。
頭がぼんやりする。
森田さんは、こいつのことを、許したの。
俺はこんなに、許してないのに。
それ以上言葉を交わすことなく、森田さんと元妻は、別れた。
少し時間が経って冷静になると、果てしない自己嫌悪が押し寄せた。
俺は森田さんと2人で歩いている。それはわかるのに、なんだか現実感がなかった。
どこをどう歩いているのか、どこに向かっているのか、なにもわからなかった。
コーヒーは紙袋の中で、多分もうすっかり冷めてしまっただろう。
その時の元妻と森田さんを許してやりなよと言ったのは俺だった。
もういいじゃん、忘れなよ、と言ったのは俺だった。
なのに俺が一番許せてない。あの女を許してない。
森田さんを裏切ったあの女を。
森田さんと結婚していたあの、女を。
森田さんは俺の隣を静かに歩いている。
どうしよう。俺、間違ったよね。
あんなことを言うつもりなんかなかったのに。
あの人はあの人なりに、だんなさんを理解しようとしたのかもしれない。
なのに森田さんは言葉が少ないから、どんどん不安になっていったのかもしれない。
それにしたってあの人がしたことは、俺の中では許されることではないけど。
だって俺には、森田さんの気持ちが、言いたいことが、ちゃんとわかるから。一緒にいたら、わかろうとしたら、ちゃんとわかるようになってきたんだから。
それでも、森田さんが真剣に愛して、同じだけ愛されていた時があったんだと思うと、複雑すぎる感情でパニックになりそうだった。
森田さんは何も言わない。
何考えてる?俺のこと、イヤになった?
すくんだ脚が勝手に止まって、少し遅れて森田さんも立ち止まった。
さっきまで心地よかった風が、急に肌寒く感じられた。
「俺、ひどいことしたね。森田さんの大事にしてた人、傷つけたかもしれない」
不安がでかくなると同時に、自分の顔が歪んでいく。
「あんな、あんなこと、言わなくてよかったのに、俺、あの人、すごい…ずっと勝手に恨んでて」
森田さんの顔が見られない。
「森田さんのこと傷つけたひどい女って…だから、考えないで言った…あの人は、森田さんのことちゃんと、大事にしてたのかもしれないのに、俺…ごめんなさい」
ちゃんと目を見て謝らなきゃと思った瞬間、力いっぱい抱きしめられた。
人通りもあるのに、森田さんの腕には全然迷いがない。
「もう、いいから」
森田さんが言う。とっても落ち着いた声だ。
なんだか泣きそうになる。
「森田さん」
「大丈夫だから」
「ごめん」
「いいんだ。岡崎さん」
優しい。森田さんはいつだって、誰にでも優しい。隠しているだけ。
そう。元妻にも優しい。今でも。
俺はそれに嫉妬した。だから余計なことを言ったんだ。
「でも、森田さんが大事にしてたからって、俺はそれを一緒に大事にできないよ。やっぱりムカつくし、何があったって森田さんを傷つけたやつのこと許せないんだよ。俺は嫌いなの、あの人のこと受け入れられない。絶対無理」
話しながらまた興奮してきて、俺は森田さんの腕の中で少し暴れた。言葉も強くなって、出てくるままぶつけた。
「俺は嫌なんだよ。あの人嫌い」
嫌いだ。あんなやつ。
心臓が潰れそうなくらいの嫉妬。苦しい。
「俺は、森田さん、ねえ、森田さんお願いだから、あの人のこと忘れてよ、お願い」
「岡崎さん」
「ものわかりいいやつになんかなれない。許せないんだよ」
いろんなものを振り払いたくて頭を横に何度も振った。顔が森田さんの着てるジャケットにこすれて痛む。
森田さんはさらに強く抱きしめてくれて、そしたら少しだけ落ち着いた。
「わかったよ、大丈夫…岡崎さん、……俺は、俺の気持ちは、俺は、もう、今は…岡崎さんの、ものだし…岡崎さんが、どう思ってても、大丈夫。岡崎さんの、自由だし…大丈夫」
森田さんは優しく頭を撫でてくれた。
自転車に乗った小学生が2人、じろじろとこっちを見ながら通り過ぎていく。
誰にどう思われたっていい。
でも、森田さんだけは。
今は俺の居場所が森田さんのいる、ここ。
森田さんの居場所もここだよ。そうだよね?
「戻って行ったりしないよね?」
それが、それだけが、俺の聞きたかったこと。
森田さんはすぐに言った。
「しない」
それに、と森田さんは続ける。
「あの人に会っても、あんまり、動揺しないでいられた…のは、岡崎さんが、いて、くれたから」
森田さんはまた、俺の髪を撫でた。
「それに…あの、隣の男は、…あの時の、人じゃなかった…なんか、ちょっとそれが、なんか、スッとした」
森田さんは笑みを含んだ声で言った。
それはなんかわかる。そいつとは終わったんだな。ざまあみろ。
俺もちょっと笑った。
体の力が抜けた。
「岡崎さんが、いるのと、いないのとじゃ、天国と、地獄くらいの、差が、あるように、なりました」
岡崎さん、と呼ぶ声がいつも以上に優しくて、ふわっとしていて。
「ありがとう。居てくれて、ありがとう。本当に。ありがとう、岡崎さん」
触れる。
手と、言葉と、声が、優しく、全力で、触れる。
さらさらと、ふんわりと、俺をなぐさめて、積もる。
*
少し前までは、もっと、冷めた人だと思っていた。
本音と建前を上手く使い分けて、動揺しない、こだわらない、腹から笑わない、怒らない、少なくとも、見せない人だと思っていた。
岡崎が、怒って、奥歯を噛み締めて、また怒って。その矛先は全て、彼の中で俺を傷つけたとされるものに向いていた。
俺だって大分悪かったはずなのに、岡崎はそれを、全く考えないようだった。
岡崎が怒りをあらわにする毎に、自分の気持ちは不思議とすっきりしていく。
気持ちを表に出してこなかった俺の代わりに、岡崎が言葉にしてくれたんだと感じた。
岡崎の体を抱きしめながら、俺はあの夢をもう二度と見ないだろうと思った。
今ならもう、あの時の彼女と自分を、何の迷いもなく許してやれる気がした。
運が悪かった、と言って笑ってやれる気さえした。
ちょっと前までは、そんなことは一生かかってだってできないと思っていたのに。
今までこだわって縛って背負って来た重いものを、岡崎がきれいさっぱり下ろしてくれた。
下ろしていいんだと、この体全部で俺に教えてくれた。
5歳も年下の、20歳の男の子が、たった1人で、俺をすくい上げてくれた。
戻って行ったりしないよね、と言ってひどく不安そうな顔をするその人を、俺はどうやって安心させてあげればいいのだろう。
おかざき、
まさひろ。
*
綺麗なものを見に行きましょう、と言って森田さんが車を停めたのは、河川敷沿いの一方通行の道路の端だ。
川と平行に伸びているサイクリングロードを、おじさんが乗るママチャリがゆっくりゆっくり過ぎていく。
「…多分、見えると思います、けど」
森田さんはそう言うと、俺をちらっと見てから車を降りた。
続いて土手を登って、森田さんの肩越しに向こう岸に目をやる。
「うわー」
広がっていたのは、視界いっぱいのだいだい色。
遮るもののない、きれいな夕焼け。
「すげー!」
しばらくそのまま、ぼうっと景色を眺めた。
森田さんも何も言わずに、それを見ていた。
こういうことが前にもあった気がして思い出してみると、それは俺の夢だった。
虹を、2人並んでみる夢だ。
「夢か」
思わず呟いたら、森田さんがちらっとこっちを見る気配がした。
何も話をしなかったけど、綺麗だっていう気持ちがつながっていて、すごく幸せな夢だった。
付き合う前の、行き場のない想いを膨らませていた頃のことだ。
それが今現実で起きてる。
言葉なんかなくても、同じ気持ちだってわかる。
隣で同じ気持ちでいられる。
これ以上に幸せなことなんか、きっと、ないよ。
「こっちこそ」
「え」
「こっちこそ、ほんとありがとねー」
夢の中でしていないことをしよう。
さりげなく隣の手を取って握った。森田さんは、ギュッと握り返してくれた。
好きだ。
好きだよ。森田さん。
図書館も、競馬場も、はくちょう座も。
空いてるラーメン屋も、静かな寿司屋のカウンターも、読書大会の公園も、今日のこの夕日も。
俺は、あなたの隣だから、特別に思ったんだ。
「寒い?…手、冷たい」
森田さんが、綺麗な目で俺を見る。
「寒くない。腹へった」
「なんか、食べに行きますか」
「餃子が食いたい」
あなたと食べるのは、なんでもおいしいって、俺は最近気づいたんだ。
すきな人って、そういうもんなのかなぁ。
これからいろんなこと、教えてもらう。
この人に。
ごつんと体をぶつけても、隣の森田さんはびくともしない。
メガネに夕焼けが反射して、まぶしそうに目を逸らして俺を見た。
「ねえ餃子何個食えるー?」
「…ご飯があれば…50個くらい?」
「食いすぎー!」
「わかんないけど…」
「俺は45個」
「…大丈夫ですか…」
「食えるし」
もりた、
せいご。
-end-
2016.2.7
秋。
森田さんと付き合うようになってから、3ヶ月くらいが過ぎた頃だ。
久しぶりに2人で図書館に行った帰りだった。
その日は少し足を伸ばして、少し遠くの図書館へ行ったんだ。
周りをいろいろ見て回れそうだったから、少し離れた駐車場に車を停めて、知らない道を2人で歩いた。
森田さんは借りた本の入ったトートバッグを持っていた。少し前に俺が買ってあげたやつだ。
森田さんは本をたくさん借りる。たくさん返す。だから袋があると便利だと思って、買ってあげた。
超シンプルなデザインで、森田さんが持ってしっくりきそうなやつをみつけたから。
ちなみに、その中には俺の借りたマンガも入っていた。
図書館にマンガもあるなんてすごく便利だって話して歩いた。
すごく晴れてて、森田さんが「秋晴れ」って呟いて、俺が「うん」って返事をした。
すごく気持ちがよかった。
そのあと俺が買い物したくて、ちょっと店を見てから晩メシを食べて帰る予定だった。
楽しい楽しいデートの日。何日も前からその日を楽しみにして仕事もがんばった。
なに食おうね、って言うと、何でも、岡崎さんの好きなものを、って、返事が返ってきた。
コーヒーショップの前を通りかかって、いい匂いがしたから、コーヒーがほしくなって森田さんにそう言うと、珍しく「じゃあ、俺も、飲みます」と言ってくれて、俺だけが店内に入ってテイクアウトでコーヒーを2つ買った。
店を出たら、森田さんが、男を連れた女と、向かい合って立っていた。
直感だ。これはオンナの勘だ。
いや、俺は全然オンナじゃないけど、オンナポジションの勘だ。
あいつは、森田さんの、元妻だ。
あの女だ。絶対そうだ。
頭に血が上って、勢いをつけて足を踏み出して、俺は森田さんの隣に立った。
森田さんは俺を見た。
女も、隣の男も、俺を見た。
俺は、女だけを見た。
こいつか。
許さない。
俺はお前を、ずっと、ずーっと、許してない。
「あの、」
森田さんが何か言った。
女が森田さんを見た。
見るな。お前に、森田さんを見る資格なんてない。
口を開くとひどい言葉で思い切り殴りつけてしまいそうで、俺はずっと奥歯を噛み締めていた。
「岡崎さん、俺の、その、前の、奥さんで」
小さな声を聞いた。
そんなふうに言わないで。もう苦しくて息ができない。
こいつはもう前の奥さんでも何でもない。ただの女だろ。もう森田さんとは関係ないだろ。
おねがいだから、こいつを俺に紹介しないで。
そっち側に、行かないで。
このまま、なにもなかったことにして。
誰も、なにも言うな。
なにか言葉を聞いたら、それをきっかけに俺の中で外で、大きな爆発が起きるとわかっていた。
でも女が言った。
小柄な、平凡な顔をした、化粧の薄い、でもなんか目がやたらきらきらしたような、全体的になんだか陶器のミニチュアみたいなその女が。
おとなしそうで、いかにも本を読みそうな。
森田さんと趣味が合いそうな、その女が。
「友達?」と、俺のことを森田さんに聞いた。
うるっせえ。黙れ。
「つまんなそうな女」
気づいたら、言っていた。
「あ?」
隣の男が俺を睨みつける。
「何。素直な感想なんだけど」
喧嘩売ったつもりはないけど、そう取られたなら仕方がないと身構える。
「元気そうで、よかった」
森田さんが普通の声でそう言った瞬間、俺は自分の言葉を心底後悔した。
ぱんぱんにふくらんでいたふうせんが、一瞬ではち切れて、かけらもなにも、なくなるみたいに。
「そっちもね」
女が微笑む。心からほっとしたみたいな、全身の力が抜けたみたいな、そういう笑い方だった。
この女は、少しでも自分の行動を悔いたことがあったのか。
少しでも、引きずったりしてたのか。
森田さんが忘れられなかったみたいに。
あんなにがんじがらめに、人を遠ざけて1人で生きようとするような、ああいう生き方を、こいつもしてたのか。
胸のとこがすごく痛い。
何。これ。
俺は、俺の居場所は。
頭がぼんやりする。
森田さんは、こいつのことを、許したの。
俺はこんなに、許してないのに。
それ以上言葉を交わすことなく、森田さんと元妻は、別れた。
少し時間が経って冷静になると、果てしない自己嫌悪が押し寄せた。
俺は森田さんと2人で歩いている。それはわかるのに、なんだか現実感がなかった。
どこをどう歩いているのか、どこに向かっているのか、なにもわからなかった。
コーヒーは紙袋の中で、多分もうすっかり冷めてしまっただろう。
その時の元妻と森田さんを許してやりなよと言ったのは俺だった。
もういいじゃん、忘れなよ、と言ったのは俺だった。
なのに俺が一番許せてない。あの女を許してない。
森田さんを裏切ったあの女を。
森田さんと結婚していたあの、女を。
森田さんは俺の隣を静かに歩いている。
どうしよう。俺、間違ったよね。
あんなことを言うつもりなんかなかったのに。
あの人はあの人なりに、だんなさんを理解しようとしたのかもしれない。
なのに森田さんは言葉が少ないから、どんどん不安になっていったのかもしれない。
それにしたってあの人がしたことは、俺の中では許されることではないけど。
だって俺には、森田さんの気持ちが、言いたいことが、ちゃんとわかるから。一緒にいたら、わかろうとしたら、ちゃんとわかるようになってきたんだから。
それでも、森田さんが真剣に愛して、同じだけ愛されていた時があったんだと思うと、複雑すぎる感情でパニックになりそうだった。
森田さんは何も言わない。
何考えてる?俺のこと、イヤになった?
すくんだ脚が勝手に止まって、少し遅れて森田さんも立ち止まった。
さっきまで心地よかった風が、急に肌寒く感じられた。
「俺、ひどいことしたね。森田さんの大事にしてた人、傷つけたかもしれない」
不安がでかくなると同時に、自分の顔が歪んでいく。
「あんな、あんなこと、言わなくてよかったのに、俺、あの人、すごい…ずっと勝手に恨んでて」
森田さんの顔が見られない。
「森田さんのこと傷つけたひどい女って…だから、考えないで言った…あの人は、森田さんのことちゃんと、大事にしてたのかもしれないのに、俺…ごめんなさい」
ちゃんと目を見て謝らなきゃと思った瞬間、力いっぱい抱きしめられた。
人通りもあるのに、森田さんの腕には全然迷いがない。
「もう、いいから」
森田さんが言う。とっても落ち着いた声だ。
なんだか泣きそうになる。
「森田さん」
「大丈夫だから」
「ごめん」
「いいんだ。岡崎さん」
優しい。森田さんはいつだって、誰にでも優しい。隠しているだけ。
そう。元妻にも優しい。今でも。
俺はそれに嫉妬した。だから余計なことを言ったんだ。
「でも、森田さんが大事にしてたからって、俺はそれを一緒に大事にできないよ。やっぱりムカつくし、何があったって森田さんを傷つけたやつのこと許せないんだよ。俺は嫌いなの、あの人のこと受け入れられない。絶対無理」
話しながらまた興奮してきて、俺は森田さんの腕の中で少し暴れた。言葉も強くなって、出てくるままぶつけた。
「俺は嫌なんだよ。あの人嫌い」
嫌いだ。あんなやつ。
心臓が潰れそうなくらいの嫉妬。苦しい。
「俺は、森田さん、ねえ、森田さんお願いだから、あの人のこと忘れてよ、お願い」
「岡崎さん」
「ものわかりいいやつになんかなれない。許せないんだよ」
いろんなものを振り払いたくて頭を横に何度も振った。顔が森田さんの着てるジャケットにこすれて痛む。
森田さんはさらに強く抱きしめてくれて、そしたら少しだけ落ち着いた。
「わかったよ、大丈夫…岡崎さん、……俺は、俺の気持ちは、俺は、もう、今は…岡崎さんの、ものだし…岡崎さんが、どう思ってても、大丈夫。岡崎さんの、自由だし…大丈夫」
森田さんは優しく頭を撫でてくれた。
自転車に乗った小学生が2人、じろじろとこっちを見ながら通り過ぎていく。
誰にどう思われたっていい。
でも、森田さんだけは。
今は俺の居場所が森田さんのいる、ここ。
森田さんの居場所もここだよ。そうだよね?
「戻って行ったりしないよね?」
それが、それだけが、俺の聞きたかったこと。
森田さんはすぐに言った。
「しない」
それに、と森田さんは続ける。
「あの人に会っても、あんまり、動揺しないでいられた…のは、岡崎さんが、いて、くれたから」
森田さんはまた、俺の髪を撫でた。
「それに…あの、隣の男は、…あの時の、人じゃなかった…なんか、ちょっとそれが、なんか、スッとした」
森田さんは笑みを含んだ声で言った。
それはなんかわかる。そいつとは終わったんだな。ざまあみろ。
俺もちょっと笑った。
体の力が抜けた。
「岡崎さんが、いるのと、いないのとじゃ、天国と、地獄くらいの、差が、あるように、なりました」
岡崎さん、と呼ぶ声がいつも以上に優しくて、ふわっとしていて。
「ありがとう。居てくれて、ありがとう。本当に。ありがとう、岡崎さん」
触れる。
手と、言葉と、声が、優しく、全力で、触れる。
さらさらと、ふんわりと、俺をなぐさめて、積もる。
*
少し前までは、もっと、冷めた人だと思っていた。
本音と建前を上手く使い分けて、動揺しない、こだわらない、腹から笑わない、怒らない、少なくとも、見せない人だと思っていた。
岡崎が、怒って、奥歯を噛み締めて、また怒って。その矛先は全て、彼の中で俺を傷つけたとされるものに向いていた。
俺だって大分悪かったはずなのに、岡崎はそれを、全く考えないようだった。
岡崎が怒りをあらわにする毎に、自分の気持ちは不思議とすっきりしていく。
気持ちを表に出してこなかった俺の代わりに、岡崎が言葉にしてくれたんだと感じた。
岡崎の体を抱きしめながら、俺はあの夢をもう二度と見ないだろうと思った。
今ならもう、あの時の彼女と自分を、何の迷いもなく許してやれる気がした。
運が悪かった、と言って笑ってやれる気さえした。
ちょっと前までは、そんなことは一生かかってだってできないと思っていたのに。
今までこだわって縛って背負って来た重いものを、岡崎がきれいさっぱり下ろしてくれた。
下ろしていいんだと、この体全部で俺に教えてくれた。
5歳も年下の、20歳の男の子が、たった1人で、俺をすくい上げてくれた。
戻って行ったりしないよね、と言ってひどく不安そうな顔をするその人を、俺はどうやって安心させてあげればいいのだろう。
おかざき、
まさひろ。
*
綺麗なものを見に行きましょう、と言って森田さんが車を停めたのは、河川敷沿いの一方通行の道路の端だ。
川と平行に伸びているサイクリングロードを、おじさんが乗るママチャリがゆっくりゆっくり過ぎていく。
「…多分、見えると思います、けど」
森田さんはそう言うと、俺をちらっと見てから車を降りた。
続いて土手を登って、森田さんの肩越しに向こう岸に目をやる。
「うわー」
広がっていたのは、視界いっぱいのだいだい色。
遮るもののない、きれいな夕焼け。
「すげー!」
しばらくそのまま、ぼうっと景色を眺めた。
森田さんも何も言わずに、それを見ていた。
こういうことが前にもあった気がして思い出してみると、それは俺の夢だった。
虹を、2人並んでみる夢だ。
「夢か」
思わず呟いたら、森田さんがちらっとこっちを見る気配がした。
何も話をしなかったけど、綺麗だっていう気持ちがつながっていて、すごく幸せな夢だった。
付き合う前の、行き場のない想いを膨らませていた頃のことだ。
それが今現実で起きてる。
言葉なんかなくても、同じ気持ちだってわかる。
隣で同じ気持ちでいられる。
これ以上に幸せなことなんか、きっと、ないよ。
「こっちこそ」
「え」
「こっちこそ、ほんとありがとねー」
夢の中でしていないことをしよう。
さりげなく隣の手を取って握った。森田さんは、ギュッと握り返してくれた。
好きだ。
好きだよ。森田さん。
図書館も、競馬場も、はくちょう座も。
空いてるラーメン屋も、静かな寿司屋のカウンターも、読書大会の公園も、今日のこの夕日も。
俺は、あなたの隣だから、特別に思ったんだ。
「寒い?…手、冷たい」
森田さんが、綺麗な目で俺を見る。
「寒くない。腹へった」
「なんか、食べに行きますか」
「餃子が食いたい」
あなたと食べるのは、なんでもおいしいって、俺は最近気づいたんだ。
すきな人って、そういうもんなのかなぁ。
これからいろんなこと、教えてもらう。
この人に。
ごつんと体をぶつけても、隣の森田さんはびくともしない。
メガネに夕焼けが反射して、まぶしそうに目を逸らして俺を見た。
「ねえ餃子何個食えるー?」
「…ご飯があれば…50個くらい?」
「食いすぎー!」
「わかんないけど…」
「俺は45個」
「…大丈夫ですか…」
「食えるし」
もりた、
せいご。
-end-
2016.2.7