番外 森田と岡崎16

番外 森田と岡崎16



「休みー!」

深夜3時。
自分の部屋で叫ぶ。

ほぼ一日中無人の部屋は、ムシムシして暑い。一度窓を開ける。ぽつぽつと灯る街灯の下に民家しか見えない、つまんない景色。それすら新鮮に見えるくらい、気分がいい。

今帰って来たところで、明日つーか今日は、休み。しかも森田さんも休み。

これから明日のパンツとか服の換え用意して、シャワー浴びて、すっきりしてから森田さんちに行く。

さすがに遅くなりそうだから先に寝ててねってメールしたら、まだ本読みたいから大丈夫って返事が来た。

あー早く早く行かなきゃ。

この間のエロいことできないかも疑惑については考えないようにする。
なるべく楽しいこと。楽しいこと。

何しよう?2人とも休みとか何しようー!
服欲しいな。買い物とか付き合ってくれっかな。そんでカフェで本読んでー、夜とか酒飲む?

告ることになった日、寿司屋で酔った森田さんがものすごくかわいかったことを思い出してにやける。

鼻歌交じりに身支度を済ませて玄関を出る。まだ真っ暗な空を見上げてアパートを後にする。
同棲したいなぁ。

でも俺は一緒に住んだらセックスレスとか無理だな、と思い直す。

ひっさびさに幸二さんのことを思い出した。
幸二さんに抱いてもらってた時のこと。

元気かな。奥さんとうまくやってるかな。
まあ、やってるだろう。器用なおっさんだったし。

森田さんとこんな関係になれたのも、幸二さんがきっかけをくれたからだ。

幸二さんと会ってた頃は寂しかった。
誰といても寂しかった。
それを絶対に認めたくはなかったけど。俺は毎日楽しい、一生これでいいし、って思って。

森田さん。森田さん。

森田さんを知って、俺はもうああいう感じで生きられると思えなくなっちゃった。

もっと触ったりしたいけど。
どうしたらいいんだろ。

ヤり目で出会ってばっかだったから、ヤらない付き合いがよくわかんない。
それにそれに、その前に、やっぱ森田さんは男じゃダメなんじゃないの、という暗い思いが湧き出てくる。

でも怖いから聞きたくない。

「楽しいことしたいな…せっかくお休みだもんね」

なかなか長く時間を一緒に過ごせない俺たちの、貴重な貴重な一日だから。

ぐるぐる考えるのをやめて、よーしと背中を伸ばして切り替える。
飯なに食おうかなーと気持ちを明るくしながら森田さんの家に向かった。











岡崎がうちに着いたのは4時頃だった。
俺は長編のSFホラー小説に夢中になっていて、布団に転がりながらも寝ていなかった。

おはようですーと言いながら玄関で靴を脱ぎ、ニコニコと入ってきた岡崎は、俺の目の前にどかっと座り、さらに笑みを深くした。

「森田にゃん」

そう言って、俺の前髪や横の髪をまとめて頭の上に持って行き、片手で掴んで、うわ、かわいいね、結びたい、と言った。

「かわ…いくない…です、けど」
「ねーもう寝よう。そんで明日楽しいこといっぱいしよう」

俺の髪の毛をそっと放して綺麗な顔をさらに綺麗に綻ばせる岡崎に触れたくなり、思わず手を伸ばす。髪の毛を撫でると、岡崎は手にすり寄ってきた。

もっと、触っても。

「さあさ、布団敷きましょーねー。暑いね」

するりと立ち上がって岡崎用の布団を引っ張り出した彼に、ちくりと胸が痛む。

一緒に、自分の布団で寝て欲しいと、思っていたのか。

少し前までは考えられなかったような自分の願望に愕然とする。

岡崎が俺とくっつかないで寝たいと思うことは、全く自然なことだ。

それに、体のそこそこ大きな男2人がシングルの布団で寝るのは正直狭い。仕事終わりで疲れている岡崎にはゆっくり休んで欲しかったし、明日の休みが楽しみなのは自分も同じだったので、本に栞を挟んで枕元に置いた。
眼鏡も外す。

布団を敷いて素早くパジャマに着替える岡崎からしばらく視線を外した。
岡崎は俺が初めに用意したパジャマを着続けてくれている。

「寝よ寝よ」

電気を消し、ころりと転がって、暗闇の中で岡崎はこちらを向いた。

「…手、繋いで」

勇気を出して言ってみると、岡崎はふと笑って手を伸ばしてくれた。

「楽しみだね、明日」
「…そうですね」

同じ気持ちでいてくれる。これだけでも、すでに、奇跡のようなこと。
やがて聞こえてきた寝息に、自分のため息が重なった。











はっとして目を開けると、森田さんが寝返りをうったところだった。

あれ。なんかすげえ暑いし明るいし寝すぎた感じする。
恐る恐る枕元の携帯を見た。

おい!
もう2時なんですけど!

「おわ!森田さん!やばい!」

俺の声でびっくりして、森田さんが飛び起きた。

「なにっ」
「2時だよ!2時!寝すぎたーあーもーなんで?最悪だよもったいねえ」

うなだれてしまう。

森田さんはゆっくり眼鏡をかけ、立ち上がってカーテンを開けた。

「…天気、いいです」
「だろうねー暑いもん。くっそ」

せっかくの休みが半日以上過ぎた…。

森田さんは少しの間俺を見下ろして、わきにある冷蔵庫を開け、スポーツドリンクのペットボトルを出して俺の写真の前に座り、ぬるいのと交換した。

それ見て、なんか元気が出た。

「ねえ。本物こっちにいるんだけどねー」
「…なんか、飲む?」
「飲む」

すると森田さんは冷蔵庫に戻り、ちゃんと冷えたのを持ってきてくれる。

「変な森田さん。あの写真なんなわけ。今は俺がいるのにおかしくね?」
「……岡崎さんは、なんか、もう…神様みたいな感じで」

何それ、と言って笑ったら、森田さんも少し柔らかい顔をする。

「今日も、岡崎さんが、笑っていますようにとか、毎朝、祈ったり、だから、この写真、見ると俺も、元気が出るから」

俺から目をそらしたままぼそぼそと言う森田さんに、俺はもう惚れ惚れしてしまう。
ああ。何これ。俺が特別みたいじゃないの。

「でもさー本物がここにいるのにさー先に写真にジュースやることないよね」

かわいいから追及してやる。

「あの、逆に、なんで本物がここに、いるのか、そっちの方が、不思議な気が、してきた」

なんかわかんねえけど崇拝されてる。

「変な森田さん」

変わってる。

「変な森田さーん」

寝坊によるショックはもう完全に抜けていた。

立ち上がって、森田さんの正面に立つ。戸惑い顏の森田さんに一歩近づいてキスをする。

ふにふに。はむはむ。

うう、と呻いた森田さんを置き去りにしてぱっぱと身支度をしていく。

「早くしないと休みおわるし」

硬直していた森田さんもゆっくり動き出す。

「…どこ、行きます」
「服見たいなー、付き合って?」
「…服」
「あとさ、夜どっかで飲まない?少しだけでいいから」
「…飲む…」

オウム返し森田。

「森田さんは?行きたいとこない?」

なんとなく、ないって言うような気がしてたけど。

「あの、前に行った、公園に」
「ああ、本読んだとこ?」

こくりと頷く。
時間のスケジュールを相談しながら布団を片す。
森田さんは着替える。
手を止めてそれをガン見する。今日も黒トランクスありがとうございます。

コンビニで朝兼昼ごはんを買って公園で食べて、服見に行って、夜メシ、という流れに。

「時間あるかなぁー、くそーなんでこんな寝たの」
「公園は、少しで、大丈夫」
「そう?なんで行きたいの、公園。本読む?」

聞いたけど、森田さんは気まずそうに目を逸らすだけで答えない。

楽しみ。楽しみだな。




2人で本を読んだ、てかあれ初デートだった?あの四阿はまだちゃんとそこにあった。

今日は雨が降りそうにもない。晴天。暑い。

「食べよー」

サンドイッチとおにぎりと、森田さんの希望でおいなり。
あと炭酸水と、水。

緑が目に痛いくらい。

「あちー。でも空気が新鮮すぎるよね」

森田さんはひとつ頷いて、おいなりを箸でつまんで半分口に入れる。

「ここで本読んだ時、好きだって言えなくて苦しかった頃だな」

明るく言ってみると、森田さんは困ったような顔をした。

ハムたまごサンドのパッケージを開ける。

「からし入ってるタイプかー」

辛い。

「おいなりおいしい?」
「うん」
「好きなの?おいなり」
「…好き…か…」

ものすごく真剣に考える森田さんがかわいくてかわいくて、外なのにほっぺにちゅうしてしまった。

「なっ」

固まる。
キスですらまだ大ごとだ。
でもたまに、それ以上のことを俺にしてくれるのはどうしてなのかな。
何かスイッチがあるのかな。
森田さん。
俺のこと。
どう思ってる。

「森田さん、ねー、苦しいよ」

サンドイッチのパンが喉につまったみたいになって、ぽろっと出た言葉だった。

もっと。俺は森田さんのそばに行きたいよ。
俺のこと好き?
俺は、事あるごとにキスがしたいし、外でだって構わないで触りたい。
手も繋ぎたいし、頭を撫でてほしい。

でもできない。
セックスなんか、2人っきりで居たってしてもらえない。

いつか、森田さんとこうなる前にたまたま寝た、30歳のあの人。

あの人は、好きな人が女と結婚して子どももいて、それでもそばにいるのが幸せだと言った。

あんなのは嘘だ。強がりだ。
だって、だってさ、ホテルに向かう途中、俺に、手をつないでって言ったじゃん。

本当はあれを、俺としたかったわけじゃないでしょ?
その、妻も子どももいてゲイを軽蔑してるっていう、そんなろくでもない、大事な大事な人と、そうしたかったんでしょ?

なんて理不尽なんだよ。
不自由なんだよ。
できないことばっかだ。

多分この先、森田さんとのこの関係に俺が満足できなくなる時が来る。確実に。

「岡崎さん、どした、苦しい…?飲む?」

炭酸水のペットボトルのふたを開けて手渡してくれる森田さんに笑いかけて、自分がちゃんと笑えているのか考える。

あー、やっぱうまくいくわけないのかな。
こういう時はどうするのが正解なんだろう。
誰もそんなことを、俺に教えてくれなかった。

こんなふうにそばにいられるだけで幸せと、自分に言い聞かせることは簡単だ。
でも、拒否るってことは好きじゃないんじゃないの、って疑うのも怖いくらい簡単だ。

少し可笑しくなって笑うと、森田さんもわずかに笑った。

どうしようもなく、俺はこの人が好きだ。
苦しい。

誰か。この弱っちい俺を守って。

祈るような気持ちで、炭酸水を飲んだ。
喉やいろんなところがしゅわしゅわになっていった。



結局服を見る気分にはならなくて、日が落ちるまで静かに並んでそこに座っていた。











岡崎は、助手席に座って俯いている。

今日は少し、元気がないようだ。
公園を出る時、一旦車を置きに帰ってから飲みに行こうと俺に言い、それから黙ってしまった。

そっと手を伸ばして、岡崎の手を取る。

元気になれ。元気になれ。
笑って下さい。
どうか。

祈ってみると、岡崎は顔を上げ、強く手を握り返してきた。

仕事が忙しく、疲れているのかもしれない。
せっかくの休みに無理をさせたかと心配したけれど、車を降りると岡崎は明るい笑顔を浮かべて見せた。

「酒買って公園で飲む?」
「岡崎さんの、好きなように、したい」
「俺の好きなように」

岡崎は少し考えて、やっぱあっちの居酒屋入る、と言って歩いて行く。

並んで歩きながら、こういう時に明るい話をして楽しませてあげられる能力を切望した。



居酒屋に入っても、周りのガヤガヤが際立つくらいに、俺たちに会話はなかった。

さすがに心配だったので、酒は遠慮してウーロン茶を飲む。

そのことについて、岡崎は最初少し不満げだったけれど、あとは唐揚げを食べながら一人でどんどんビールの中ジョッキを空けていった。

「おいしくなーい」

口を尖らせた岡崎が言ったのは、5杯目を空けた直後だった。

「…ビール?」
「うんー。なんか今日はまずい。全部まっずい」

自分が悪いわけでもないのにとても申し訳ない気持ちになった。
頭を撫でてやりたくなる。

岡崎の声が店員の耳に届いたようで、不快な表情を向けられる。

どうしたんだろう。おかしい。

とにかく岡崎を守らなければと思って店員を睨み返しながら会計を頼み、睨むことはなかったかと反省しながら金を払う。

岡崎はテーブルに伏せそうになっていたけれど「立てますか」と聞くと、すくっと立ち上がった。



家に向かって帰る途中、岡崎は俺の少し前を歩いている。

足元が心配で手を取ろうとすると拒否され、それで心が折れて何も言えなくなってしまった。

「ねえ。俺が死んだらどうする?」

唐突に立ち止まり、岡崎が振り返った。
その顔はよく見えない。

岡崎が、死んだら。

そのあまりにも特殊で絶望的な状況。
考えたくもない。
どうして、そんなことを聞く?

絶望的な気持ちになったので、逃げたくなって、答えた。

「忘れる」

少し、声が掠れた。

え、と小さな声が聞こえた。

「早く、忘れる」

動きを止めた岡崎に合わせて立ち止まる。俺たちの脇を車が通り過ぎて行った。

「…そっかぁ」

か細い声を聞き、ゆっくりとそばに近づくと、岡崎は俯けていた顔を上げて俺を見た。

そっかそっか、と言って、岡崎は笑った。
それがとても綺麗な笑顔だったので、見惚れた。

岡崎さんは、俺が死んだら、と聞こうとしてやめる。
怖くてそんなことを口にも出せない。

俺がいなくなれば岡崎のそばにはまた違う誰かが添うだろう。
そうして俺を忘れるだろう。

俺は。
岡崎が死んだら?
そう思うだけで胸が痛む。

忘れられるわけがない。
こんなに、こんなに、俺の中は、あなたで満たされているのに。











森田さんの家に着いて、着替えて、顔を洗って歯を磨いて、布団に横になる。

森田さんに何度か水を飲んだらと言われたけどいらないと言った。

その間も、ぐるぐると、どろどろと、俺の気持ちは黒く重くなっていく。
酒が回っている。

森田さんが小さな声で、おやすみと言って電気を消した。

悲しかった。辛かった。忘れると言われて。
俺は何があっても絶対忘れられない。森田さんのこと。
こんなに好きなんだから。

「ねえ」

立ち上がり電気をつける。
話をしないと。
とても寝られない。

森田さんは布団に起き上がって怪訝な顔をしている。
正面に座って見つめると、森田さんも見返してきた。

「俺の好きと森田さんの好きは全然違うんだねー」

森田さんは眉をひそめて目を逸らした。
そんなことにすら傷つきそうになる。

「俺のことなんか、俺の、ことなんか」

惨めになるからやめたい。こんなことは言いたくない。
でも酔っているからか歯止めが利かなかった。

「前の奥さんのことはさー、好きだったんでしょ。大好きだったんでしょ。セックスもしてたんだし。本当は今も好きなの?奥さんのことは忘れてなかったじゃん。でも俺のことは忘れるんだ。まあそうだよね、当たり前かー、はは」

悲しい。
悲しいとか嫌だとか、そういうことをちゃんと話すべきなのに。

ペラペラと、森田さんを試すような言葉だけが出てくる。

「やっぱ男だから?かわいくないもんねー、正しいよ、森田さんが正しいよ。無理して男抱きしめることないから。ほんと、馬鹿にしないでほしいよね」

止められない。
森田さんは、俺の言葉の隙間には入って来られない。ただ目を泳がせて聞いている。

「ムカつく。まじ。そういうのもムカつく。何か言えよ。お前とは付き合えないって言えよ、早く!」

言えば言うほど自分の首が締まる。森田さんを困らせて、自分を低く低くする、意味のない暴言。

「お、岡崎さん、俺は、その、前の人のことは、何も、もう」

森田さんは困っている。俺はもう、あらゆることに勝手に傷ついてしまって言葉が出ない。

すると森田さんは、手を伸ばして俺の髪をそっと撫でてから言った。

「でも、迷惑、かかるなら…もう、ここにいなくても、大丈夫です。すみません」

頭が真っ白になる。

は?意味がわかんない。
この人、本当に何もわかってない。

「森田さん」

泣かない。涙は流さない。みっともないし、恥ずかしい。男だし、意地がある。

俺は、女ではない。

「いい加減、俺の気持ち、ちゃんと受け止めてよ」

それでも声が震えた。

「なんでわかってくんないの?何回言えばわかるんだよ。俺の気持ちはそんな軽くねーんだって。諦められるならとっくにそうしてるよ。辞められるなら片想いの頃にそうしてるって。森田さんが何を怖がってんのか知らねーけど、俺をちゃんと見てよ。考えてよ。すぐ我慢したり諦めたりする癖やめろよ。俺は好きだって何回も言ってんじゃん!言い訳しろよ!俺に説明してよ!なんで死んだら忘れるなんて言うんだよ!」

森田さんは目を見開いた。

今まで、どうでもいい、なるようになれと思って、言い聞かせてきた。
森田さんが忘れるって言ったのだって、どうしようもない、仕方ないことだって笑って済ませばよかったのに。

こんな、無様にぶちまけるくらいなら。

「告ったの、やっぱ、間違いだった?」

はは、と笑ったら、森田さんがすごく痛そうな顔をした。

この質問に答えて。でなきゃ俺はもう立ち直れない。
でも、答えを聞くのが怖い。森田さんは自分で、俺から離れていくかもしれない。

「俺だって怖いんだって。弱いし誰かがいないと生きてけない。自信なんか全然ないのに。森田さんは全然わかってない。俺が影でどんな思いして来たか、知らないでしょ?」

立ち上がって服を着替える。森田さんは呆然とした顔で俺を見ていた。
玄関へ行って靴を履く。
ここにいたくない。今日は。辛い。

「岡崎さん」

呼ばれたような気がした。

ドアを開けて外に出た。そのドアが閉まる直前、慌てて起き上がるような気配がした。

追いかけてくれるかな。
俺はそんなことを思いながら、森田さんのアパートを出た。

「ちょっと。家着いちゃうんだけど」

森田さんは追いかけて来なかった。電話も鳴らない。

最低な気分で、交通量のある国道沿いをとぼとぼ歩き、家に向かう。
疲れた。すごく疲れた。今すぐぐっすり寝たい。無理かもだけど。

すると、1台の車が俺の脇で停まった。

森田さん、来てくれた?

「正浩」

助手席の窓が開いて、中から懐かしい声が聞こえた。

「幸二さん?」

ちょっと動揺しつつ、車に近づく。

「えーどうしたの、偶然?」

幸二さんは、いや、と言って苦笑いを浮かべた。

「乗る?」
「えっとね…」

どうしよう。
森田さん。
俺、どうしたらいいの?











焦れば焦るほど、岡崎が遠ざかる気がした。

岡崎が出て行ってすぐに家を出て追いかけたものの、見失い、家へ帰ったのかと思って向かっているところで、携帯を家に置いてきたことに気づき、慌てて戻って、更に家に施錠もしていなかったことに気づいた。

今度は財布と携帯とキーを持ち、施錠してから、車に乗り込む。



岡崎を傷つけてしまった。
傷つけようなどという気は少しもなかったのに。
また。また、俺は、繰り返すのか。

追いかけながら、追いつくのが怖くなる。

それでも。
もう、同じことは繰り返したくない、諦めたくないという思いが強く強くあって、せめてちゃんと、もう一度落ち着いて話をしなければと考える。

向き合わなければ。
俺を救ってくれた、凛とした岡崎ではなくて、1人では生きていけないと、怖いんだと言った岡崎と。



岡崎の家の前に着いて車を停め、携帯を取り出す。
まず電話をかけようと顔を上げると、少し離れた場所に高級車が停まっているのが見えた。

助手席に視線が吸い寄せられる。
俯いているけれど、見間違いようがない。岡崎だ。

運転席には、多分、前に会ったことのある男が座っていて、体ごと助手席の方を向いている。

誰かがいないと生きてけない、と言った岡崎の声が、頭の中で再生された。











結局俺は、幸二さんの車に乗った。

森田さんのことを考えて迷っていたら、さらったりしないよ、送ってやるから、と苦笑混じりに言われて。

「元気だったの?偶然じゃないってどういう事?」

乗ってすぐに聞くと、幸二さんは軽く笑った。

「お前に会わないかなと思って、仕事の行き帰り、毎日ここ通るんだよ」

さらっと言われて、それが本当か冗談かわからなかった。

幸二さんは優しいし、大人だ。嘘をつくのも上手だ。
そうだった。そういう話し方をする人だった。

森田さんが言葉少なに口にすることには嘘なんか絶対ないはず。
森田さんはそういう話し方をする人だ。
誠吾の誠は、誠実の誠。

「なんか老けた?」
「お前さ、ぐさっとくるね、相変わらず」
「奥さんは?元気?うまくいってる?会社も」
「まあ、普通だよ。お前と会わなくなってから、なんか全てが充実しなくなったわ」

これも、本当かよくわからない。こんな感じだったかな、もう、感覚も忘れている。

「あの人とはどうよ、森田さん」

不意に言われてドキッとした。

「付き合うことになって」
「本当に?おお、良かったな」

幸二さんの声が大きくなって、うん、と頷いた。

付き合うってなんだろう。意味とかよくわからなくなった。

アパートの前で、車が停まる。

幸二さんのは高い車だから、エンジン音がものすごく静かだ。
森田さんの車は軽だし型も古いから、少しアクセルを踏み込むとぐいーんと音が出る。

「どうしてそんな顔してる?」

頭を撫でられて顔を上げると、幸二さんの優しい笑顔があった。

俺の頭のどこかに、森田さんとうまくいかなかったら幸二さんのとこに戻るのかな、という意識があった。
でも今、こうして会って、それが全然違うということに気づく。

森田さんを知り始めた今、俺は、誰のところにも戻れない。
森田さんがいい。
森田さんのことだけ好きだ。

「ちゃんとさー、奥さん幸せにしてやんなよ幸二さん」

しれっとした顔で言うと、幸二さんは一瞬目を泳がせて、それから体の力を抜いて笑った。

「そうだな。そうする。今決めた」

うんうんと偉そうに頷いて俺は前を向く。

あ。
森田さんの車だ。
迎えに来てくれた。

森田さん。

「ごめん俺行くわ」

別れの言葉も言わずに車を降りようとしたら、幸二さんに手首を掴まれて止められた。

「正浩」

ん、と返事をした。幸二さんの顔がとても真剣で少し驚く。

「大事な人には本当の気持ちを隠すな。じゃなきゃ、失うことになる。お前の悪い癖だ。俺も、そうだけど」

ん、とまた返事をした。

「幸せになりなさいよ。何としても。わかった?素直にならないと幸せになれないからな、お前の場合は。意味のない意地は張るだけ無駄だ。わかった?わかったか?おっさんの言うことわかる?」

うってかわってふざけた口調で言うので、笑ってしまう。

「わかったよ」
「じゃあな」
「元気でね」

幸二さんの車を離れて、前に向かって歩く。
森田さんへ向かって。


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