大きな声では言わないけど

番外 森田と岡崎14



森田さんがアパート前の駐車場に車を停める。

握られた手が離れて、森田さんが外に出る。少し遅れて俺も降りた。すると助手席側に回り込んでいた森田さんがまた、俺の手をそっと握り、そのままアパートの階段を上がって行く。

森田さんの背中を見ることができなくて、俺はずっと階段を見ていた。視界に入る、握られた手。

早く。早く、触って。
もっと、もっと違うとこも、早く、早く。
早く、家に入りたい。

気ばかり焦る。手に汗をかいた。森田さんの手も少しだけ汗ばんでいるようだった。

鍵を開けて、森田さんが先に俺を入れてくれる。玄関に入ると後ろから森田さんも続いて、ドアの閉まる音と同時に森田さんの体温を背中に感じた。遮断される、俺たち以外の音。

ほとんど何も見えない暗闇。
森田さんのかすかな吐息。その空気だけが、俺の肩口で動いている。

「……岡崎さん」

一言で、動けなくなる。俺の体に回された腕に力が入った。

森田さんがキスしたのは、俺の耳?それともピアス?微かに、柔らかく、触れて離れていく。
待って、待ってよ森田さん。

「岡崎さん」

さっきよりもしっかりした声で呼ばれて、俺の体は金縛りから解き放たれる。

急いで振り向くと、すぐそばに森田さんの顔があって、俺は考えるより先にその頭を引き寄せて唇を奪った。

心臓が苦しいくらいにドキドキしている。森田さんがしっかり抱き返してくれて、腰を抜かしそうになりながら夢中で森田さんの舌に舌を絡ませた。お互いの口の中で唾液が混じり合う。俺のと、森田さんの。

俺のものにしたい。この人の全部を。
俺のものだと思われたい。俺の全部。何もかも。
もっと触って。もっと。早く。早く。

「森田さん」

濃厚になっていくキスの合間に呼ぶと、森田さんが少し息を乱しながら目を開けた。

その目。その息遣い。
間近で感じて、俺はもうほとんど意識を失いかけた。

森田さんだ。森田さんが、男の顔をしてる。俺を見てる。

「…ぐちゃぐちゃにして」

か細い声が出た。
言葉にして初めて、自分にこれっぽっちも余裕がないことに気づく。

おかしいな。いつもはもっと、イヤらしい言い方とかできるのに。

森田さんは短く息を吐き、部屋の中の方へ、ちらりと視線を向けた。

「…布団を。敷いて、いいですか」

うん、と返事をした声もまた、頼りなく揺れた。



靴を脱ぎ、部屋の電気をつけて、森田さんは部屋の隅に畳まれた俺用の布団に手を伸ばす。

「森田さんの布団がいい」

後を追って森田さんの背後に立ち、後ろから抱きつく。

ああ。やばい。脚にも力が入ってない。早く倒れたい。森田さんの下に。

一瞬止まった森田さんは、俺の腕を振りほどくこともなく、そろそろと動いて自分の布団を敷いた。

あのまま、勢いのままに玄関で抱こうとしないのが森田さん。ちゃんと布団を敷いてくれて、それで、俺を絶対邪険に扱わないのが森田さん。

好きだよ。
大好きだ。
その丁寧なところが。たまに強引なところが。

森田さんの背中にへばりついたまま、感情が溢れるに任せる。

布団が敷かれて、森田さんが後ろの俺に手を伸ばす。

「電気、どうする?」

見たい?俺のからだ。俺はどっちでもいいんだけど。

こうこうと部屋を照らす白っぽい蛍光灯を見上げて聞くと、森田さんは顔を真っ赤にした。

「い、…いや、け、消しましょう…恥ずかしいので…」

森田さんは手の甲で鼻の下を拭った。照れ隠しの仕草?
かわいい。かわいいよ。どうしようもない。

そして何かをかき消すようにして、壁のスイッチをぱちんと押した。
森田さんらしくて少し緊張が解ける。

再び俺たちは暗闇に包まれた。

優しく俺の手を取った森田さんは、布団の上に身を屈めた。俺も引かれて座る。

俺の後頭部に手を当てて森田さんが少し体重をかけてきて、体が素直に後ろに倒れた。
その上に、森田さんの体が重なる。

「岡崎さん、ごめん」

謝りながら、俺の頭を撫でる森田さん。
その体に腕を回してしっかりホールドし、耳に口を寄せる。

「何が?」
「…俺…、すごく、本当に…」

ぽそっと言いながら、森田さんは俺の耳にキスをした。

「っん…」

思わず吐息が漏れる。スイッチが入りそうだ。いつもより、ずっとずっと早い。

「嫉妬深くて、…恥ずかしい」

森田さんの手はまだ、頭を撫でている。

嫉妬?あいつらに、ヤキモチ焼いたの?
誰に?どの言葉で?どの行動に?

聞きたいことがたくさんあって、でも、今してほしいのはそんなことじゃない。

「森田さん、俺のこと、抱きたい?」

すでに息が上がっていて、苦しい。酸素が足りない。

森田さんがごくりと唾を飲むのがわかる。それくらい近い。

「………ん」

言葉ははっきりしなかった。
でも、森田さんははっきり、首を縦に動かした。

だめだ俺やばい。我慢できる気がしない。速攻イきそう。どうしよう。

そんな心配を知らない森田さんが、俺の頬に手をやり、そっとそっと、キスをしてくる。
角度を変えて、またキス。

「ふ、ぁ…ん……」

ほらな。もう。キスだけなのに。声が出ちゃうし。目を閉じて、森田さんをなるべくゆっくり感じる。

森田さんの手が頬から少し下がる。
首を撫でる。喉仏をくりっと触られる。
唇にキス。
鎖骨、肩を撫でる。
また鎖骨。
唇にキス。
鎖骨を撫でる手の、小指だけ、少し下に下がる。
キス。
手が鎖骨から離れる。下がって行く。
キス。
舌が唇を舐める。
俺も舌を伸ばして絡める。
Tシャツを捲り上げることはなく、あくまで肩口から下がる形で、一番下にある小指が、もう少しで、乳首に。

「あっ…」

まだ触れられてないのに、もう少しだと思っただけでもう声が出る。

森田さんの呼吸が少し乱れる。
興奮してる?俺の声で?

「触って…お願い…我慢できない…早く…!」

待てない。
でもすぐ終わっちゃいそうで怖い。
悪魔と天使が戦うような内心を自分で感じながら、俺の手は勝手に動いて森田さんの前に伸びる。

「…は…え……すごい…」

感想がダダ漏れだ。

森田さんの脚の間、触れたそこはまだやわらかで、それでもちょっと想像していたサイズとかけ離れていた。

びくっと体を震わせた森田さんは、一呼吸置いてから、俺の乳首に触れた。

「あぁ!っん…」
「ごめん、俺、岡崎さん…すみません…」

何を謝ってるのかちゃんと聞いて、大丈夫だよって安心させてあげたいけど、そんな余裕はない。
股間が痛くなってきた。

「もっと、して?」

早く、もっと俺の声聞いて、森田さんももっと固くなればいい。

丁寧で慎重な手つきで、森田さんはゆっくり俺の服を脱がせた。下着一枚になった俺は、自分の体に森田さんの視線が注がれてると思っただけでもうイきそうになってしまう。

「森田さんも脱ぐ?」

うん、と小さく返事をした森田さん。かわいくて仕方がない。

森田さんの上半身。初めて見る。暗闇に浮かび上がる、うっすら割れた腹筋と、毎日重いものを運んでついた、肩や腕の筋肉。

「やばい…やばい…」

呪文のように繰り返しながら、目を逸らしてしまう。

「嫌じゃ、ない?」

森田さんが聞く。

「嫌じゃない。全然。早く触ってほしい。ぎゅってして」

腕を伸ばすと、森田さんがゆっくり覆いかぶさった。

あったかいな。肌が、すべっとして、俺のとくっついて、少し汗もかいてて、吸いつくみたいに。

「ああ、…ん…森田さん…好き」

肌が触れただけで濡れた声が出る。

森田さんの手が、ゆっくり動き始める。脇腹を撫でる。

「は、あっ」

一旦腰に下りた手が、するりするりと肌を確かめるように動いて、腹から胸へ上がってくる。

「んっ、やぁ…あ…んんっ」

スイッチが入ったみたい。
感じやすい俺の体は、少しの刺激だけでびくびくと波打つようになってしまう。声も出るし、もう腰も動いちゃう。

唐突に、乳首に濡れた感触。

「ああっ!」

森田さんが唇を押し当てていた。

「あ、ん…あ、森田さんっ」

腰が浮く。下着を濡らし続けるペニスが、森田さんのに当たった。

森田さんは少し身じろぎしながら俺の胸をぺろ、ぺろ、とゆっくり舐めている。

焦らしてるわけではないと思う。ただ優しいだけ。でも、そのテンポに激しく煽られた。

「あっ…ぅ…んっ……は、はぁっ、…」

じれったい。もっと、強く、して。

森田さんの頭に腕を回す。髪の毛を軽く掴んで、くしゃりと握り込んだ。

その間も森田さんは、乳首をただぺろぺろと舐めている。
また腰が浮く。早く、触って。もう、意地悪。

「お…岡崎さんは、」
「っう…ん?」

森田さんが乳首のすぐそばで声を出すから、俺の体がまた跳ねた。
森田さんはそのまま続ける。

「どうされるのが、好きですか」

なに、その、エロい質問は。

「こう…ゆっくりの方が、いいか」

言って、さっきのように優しく、ぺろりと舐める。

「ん……うん…」
「それか、」

一呼吸置いて、森田さんは固く尖らせた舌先で乳首を押し、くにくにと動かした。

「ん!っ、あ、ああっ」

途端に跳ねる体。頭に回した腕が強張って、締め付ける。

森田さんはさらに、唇を押し付けてじゅっと音をたて、乳首を吸った。

「っく、あ!だめ、おかしく、なる…!」

だめ。だめだ。イきそう。恥ずかしい。

すると森田さんは、こっちか、と呟く。

「え…?」
「こっちがいい?強い、方が」

森田さんの声はあくまで優しい。
でも、すごく恥ずかしい質問をわざとされているみたいで、顔が熱くなった。

じゅぷ、と音がして、また乳首を強く吸われた。

「いっ、だめ、だめだ森田さん、俺ね…まじで…イきそう」

焦る。
いくらなんでも。早すぎる。

森田さんは顔を上げた。暗い中、至近距離で目が合う。

その顔には微かに笑みが浮かんでいた。

「岡崎さんは、本当に、かわいいですね」

しばらくじっとして、森田さんの言葉の意味を考える。
噛みしめる。

うれしい。
うれしいな。
どうしよう。

幸せで、イけそう。

「俺が、触っていいのか、とか、何回も、思ったけど」

森田さんは小さな声で言いながら、濡れた乳首や腹、へそを撫でて、それから、俺の下着のウエストのゴムに指を引っ掛けた。

「でも、他の、誰にも、触ってほしくない、から…」

ゆっくり、ゆっくり、下着が下がる。ガン勃ちのペニスが、ひっかかってぷるりと弾かれた。

「あっ…はぁ…」
「やっぱり、俺が…」
「ああ!だめ!森田さんっ、あ、う、は、はぁ、」

晒されたそこに、森田さんの熱い手が重なる。
びくびくと反応しちゃう、俺の体。腰が浮く。声も我慢できない。

「ねえ、だめっ、ほんと、おかしくなるよ…森田さん、んっんん、あぁ、だめ!イっ、ちゃう、から、っ」

握られて、ゆっくり扱かれて、思いっきり背中を反らした。

森田さんの息も荒い。それだけで。

「ね、だめ、森田さん、あ、あっ、ああ、イく…!」
「綺麗、岡崎さん…」

囁く声を聞いて、ものすごい快感に包まれる。あんなに嫌だと言ったわりに、何の躊躇もなく、激しく射精してしまった。



どのくらいぼうっとしていただろう。

森田さんの体重が俺から離れて行って、俺は顔を上げた。上半身に、自分の精液が飛び散っている。

森田さんから感じる気配はもう穏やかで、俺は安心と少しの不満を感じた。

「森田さんは?俺、何もしてないんだけど」

ティッシュを取って戻って来た森田さんは、ん、と短い返事をした。

やっぱり。
もう、森田さんの興奮はおさまってる。

不安がどんと、大きくなった。

「もしかしてキモかった?男とか…」

言いながら死にたくなる。どうしよう、怖い。

すると森田さんは驚いたように顔を上げて、拭いてくれようとしていた手を止めた。
そして、そっと俺の肩を抱いた。

「違う…岡崎さん見てたら、綺麗で…触ったり、見たり、聞いたりするのに、夢中に、なってしまって…その…一緒に…満足してしまって」

そう言って、背中をさっと撫でた。

「…そうなの?」

こくりと頷く森田さん。

「満足?…イかなくても、ってこと?」

また頷く。
そんなことってある?あるのか…?

「ねえ、フェラしよっか?」

少し考えて提案すると、森田さんはぶんぶんと頭を横に振った。

「そんな…恐れ多いので」
「何それ。するよ?俺」
「いや、…今日は、やめましょう」
「んー…そう?えー、もう終わり?」

不満と幸せがまぜまぜだ。

「今度、また」

森田さんは、お預けが好きだ。

なんとなく、もっと触ったり触られたりしたかったような気がして、でもちょっと扱かれただけでイったのは俺だし、また今度、リベンジでいいかと考え直す。

そのあと、ちゃんと体を拭いてくれた森田さんは、自分もその横に転がり、俺の体を抱いた。

「岡崎さん」

耳元で呼ばれて、んー?と返事をすると、囁き声が返って来た。

「すごく、すごく、好きです」

今度は返事ができなかった。

ちゃんと、好きと言われた。

涙声になるのが怖くて、代わりに、強く強く抱き返す。

密着したまま、俺たちは朝までぐっすり眠った。








次の日、森田さんも俺も仕事に行って、深夜、森田さんの家に帰る。

預けられた合鍵を使って部屋に入ると、森田さんは珍しく寝ていた。
いつもは本を読んで待っててくれるけど、今日は疲れていたのか、本に手を乗せたまま畳に転がっていた。

「かわいい寝顔、ってか眼鏡かけたままだし。風邪引いちゃうよーダーリン」

キスしちゃおっかなぁ、と思って近づいた俺の視界に、見慣れないものが入る。

「あ」

部屋の隅、窓のそばの畳の上に、木でできた小さな写真立てが置いてあった。
入っている写真は、昨日俺があげた、俺の写真。
だけど。

「これって」

一緒に映っていたはずの友達の姿がない。
綺麗に俺のところだけ、切り抜いてあった。

「…かぁわいい。森田さん」

Tシャツとパンツだけになり、タオルケットを引っ張り出す。

愛してる愛してる愛してる、と何度も思いながら、森田さんにくっついて眠った。





「ねえねえ、あれ、飾ったんだ」

朝、森田さんに聞く。

「あ…はい」
「切ったんだ、俺だけ。くはは」
「…はい」
「友達んとこは?どうした?」
「捨て…た…」

噴き出して笑った。

「なんで横にペットボトル置いてあんの?」
「岡崎さんの、好きなやつ、だから」
「いや俺死んだみたいになってっから!完全にお供えだからこれ!」

森田さんは、いろいろ、独特。







仕事から帰り、 うがいをする。クリーニングから戻ったシャツをしまって、水を飲む。

すき焼き弁当を食べてから、手を洗って、必要な物を集めて部屋の真ん中に座った。

写真をもらった。
海で、友人と、楽しそうに笑って。背後に見える海も空も青く、とても暑そうな夏の日の。

俺はこの日、どこで何をしていただろう。

岡崎のことを、とんでもないやつと誤解していた頃。

ため息をつきながら、俺は少し迷いながらも、岡崎と友人をハサミで切り離す。

ごめんなさい、あなたに恨みはありません、と一応謝罪してから、友人の方は折りたたんで屑篭へ捨てた。

岡崎だけになったその紙片を、しばらく直視できないでいた。

その間に、買ってきた写真立てを箱から出す。
写真を飾るなんて、何年ぶりだろう。



ふと頭に浮かぶ、昨日会った岡崎の友人4人。いかにも大学生という外見。それだけでもう、自分がその場にいることに気が引けて仕方がなかった。
その中の1人に、岡崎と席を離されて内心生きた心地がしなかった。
でも隙を見て、岡崎が隣へ来てくれた。

どうしてわかったのだろう。俺が居づらい思いをしていると。

ちゃんと相手を見ているのだろう。空気を読むのが得意なのだろう。人の気持ちがわかる人なのだ。俺にはできないことだ。それをなんでもないような顔でしてしまう。

岡崎が隣に座った時の安心に、依存しそうな自分を感じて少しだけ怖くなった。

同時に、少し焦った。
岡崎の周りにはたくさんの友人がいると、実感したせいかもしれない。

そうして、帰ってすぐに岡崎の体に触れた。
どこに触れても反応し、体を震わせ、可愛らしい声を零す。
あの綺麗な生き物は一体何なのだろう。
ずっと見ていたいと思った。

いつか、飽きられるのかもしれない。
それはもう、明日かもしれない。
そうなったら。
いや、例えそうなっても。

自分がつまらない人間だという自覚はある。岡崎のように明るく輝いているような人の目に留まったのは本当に偶然で、自分より若くて好かれやすい、惹きつけやすい岡崎が、次に移って行くことを、常に頭に置いておかなければ。

そうしなければ、怖くて今すぐにでも逃げ出してしまいそうだ。依存していたものを失う辛さを、思い出したくもない。

もし、その時が来たとして。
それでも俺の元にはこの写真が残る。きっと大事にしようと心に決める。

今日まで、何度、岡崎に救われたかわからないから。
悲しい日が来ても、この写真に胸を張れるように生きようと思う。

よし、と声に出して、意を決し、写真を見る。

綺麗な笑い顔の岡崎。こちらもつられそうな、楽しそうな顔。

今は22時。まだまだ、岡崎は帰って来ない。


何か予定がない限り、岡崎は真っ直ぐうちに来るようになった。
岡崎はそれほど食にこだわりがないようで、起きるとコンビニで買ったものを食べている。

俺が休みの日は2人でそうする。
岡崎1人の時は、食べないこともあるようだ。

その、朝食とも昼食とも言えないような食事を、作ろうかと思うことが何度かあった。岡崎の仕事は体力勝負なのに、賄いは焼肉丼などの肉と炭水化物だけのようで、彼の日々の食事には圧倒的にビタミンやカルシウムが足りていない。

うちの賄いウマいよ、と笑う岡崎に、それを忠告してやる勇気がない。そんなふうに笑われたら、まあいいか、それよりずっとそうして笑っていてほしい、と、俺なんかの意志は簡単に流されてしまうのだ。

それにまだ、岡崎のために食事を作るのが少し怖かった。料理をしようとすれば、嫌なことばかり思い出す。自分のための料理すら完全に辞めてしまったのだ。自分の体に気を遣うことを辞めてしまった。そんな俺が、岡崎のために何をしてやれるというのだろう。

思考がマイナスになりかけたところで、俺は岡崎の写真を見た。

この人のおかげで、以前のように過去のことを恐れなくてよくなった。
まだまだ引きずることは多いし、根本的には何も解決していない。それに未来のことはわからない。
でも少なくとも、今日は岡崎がここへ帰って来る。

気づけば、つられて少し表情を緩めている自分に気づく。

写真立てに収まった岡崎を親指で撫でてから、部屋の端に置いた。

何と無く、岡崎の喉が渇いているような気がして、冷蔵庫からスポーツドリンクのペットボトルを取ってきて横に並べた。

岡崎の帰ってくる時間に起きていられるように、この時間に少し寝ておくことにしている。

殺風景な部屋の片隅にできた、ほわりと明るいその光景に満足して、俺は読みかけの文庫本を開いた。















翌日、起きがけに、写真を飾ったことやペットボトルを置いたことを岡崎にからかわれ、バツの悪い思いをした。

「ほんっとかわいいね、森田さん」と言われて抱きつかれ、抱き返して、そのまましばらくじっとしていた。

深夜にかけていたアラームを止めて寝ていたらしい。
岡崎が帰って来たことにも、背中にくっついて寝られたことにも気づかず、畳の上で熟睡していた。あまり眠りが深くない自分にしてみれば珍しい事だった。

このまま時間が止まってしまえばいいのに。

そう思いながら、仕事へ行くために支度を開始する。

岡崎はまだ寝ていていい時間だ。なのにいつも、俺が起きることで目を覚ましてしまう。
申し訳なく思いながらそろそろと着替えを済ませ、タオルケットにくるまってゴロゴロしている岡崎のために布団を敷いてやり、岡崎の肩にそっと触れる。

「岡崎さん、布団で、寝たら」
「んー……」
「疲れ、取れないから…」

すると岡崎は、すらりとした腕をこちらに伸ばした。

「抱っこして」

寝起きの、とろりとした目で見つめられ、そんなことを言われて、何秒間か固まる。

んふ、と笑って腕を下ろし、自分で起き上がろうとした岡崎の肩と膝の下に腕を入れる。
タオルケットごと持ち上げて膝立ちになると、岡崎がうわっと声をあげ、俺の首にしがみついた。

バランスを崩しそうになりながら、できる限りそっと、岡崎を布団に降ろす。

「はい…したよ、抱っこ…」

急に恥ずかしくなって話し方が変になってしまい、急いで離れようとする。しかし、首に巻きつけた腕を離してくれない。

「…森田さんまじで…不意打ち得意すぎでしょ…意味わかんね…なんで、俺の体持ち上がんの、そこそこ重いだろ…ほんとかっこいい…もうやだ…」

ぶつぶつ呟きながら脚をバタつかせ、体重をかけてくる。眼鏡がずれた。

「岡崎、さん、ちょっと、」
「仕事行かないで。寂しい……ねえ、俺さ、森田さんといるとなんか弱くてキモいんだけど」

キモい?

少し考えても全く意味がわからなかったので、しがみつかれたままの格好でそっと髪に触れる。

「気持ち悪くなんか、全然…岡崎さんは、綺麗」
「その、綺麗って何?いつも言うけど」

くぐもった声はまだ小さい。
他に言うことが見つからないので、俺はただ、髪を撫でていた。

しばらくすると、ゆっくり腕がほどけていった。

「ありがと…」

照れくさそうに言って、岡崎は布団にもぐってしまった。眼鏡の位置を直して、その温かいかたまりを見下ろす。

食パンを水で胃に流し込み、出かける直前になっても、岡崎は布団に頭までもぐったままだ。

「大丈夫?…具合、悪い?」
「…大丈夫。眠いだけ」

先程の、仕事行かないで、という言葉が引っかかる。

「……仕事、休めるけど」
「え?」
「俺、仕事、休む?」
「なんで?」

岡崎は目から上だけをタオルケットから出した。

「さっき、仕事行くなって、言ったから」

言うと、岡崎は目を丸くした。
大きな瞳だ。見惚れるほどに。

「休めないじゃん。森田さん仕事休めないでしょ」
「…休める」

首までタオルケットから出てきた。

「うそー。森田さん今日配送行くとこ困るじゃん」
「誰か、代わりが、います」

そうでなければ、体調不良で休むことすらできない。

「だから、岡崎さんが、何か…必要なら、俺は、休みますけど」

岡崎が一瞬泣きそうな顔をしたように見えて、焦る。すると岡崎はすぐに普通の顔に戻り、ばさりと音をたてて布団から起き上がった。

「うそうそ。言ってみたかっただけ。困らせてみたかっただけだよ。わかってるの、森田さんも俺も仕事しなきゃ。ただね、そんなふうに言ってくれると思わなかったー!」

がばりと抱きついて、それからすぐに離れ、行ってらっしゃい、と言って笑う。

ああ。この顔が、俺は、好きだ。
良かった。
出がけに見られて、良かった。

少しだけ後ろ髪を引かれながら、俺は玄関の扉を開ける。
今日も暑くなりそうだった。











森田さんて本当に読めない人だ。
ボケボケしてるとすぐに不意打ちをくらう。

「何考えてんの…ほんと、何考えてんの!」

すっかり目が覚めてしまい、タオルケットを思い切り蹴っ飛ばして大の字になる。

少しだけ寂しくて言った一言だって、森田さんはそのまま受け止めてしまう。仕事行かないで、の一言で、休むと言い出す。

森田さんてもしかして、本当に俺だけのものになっちゃうんじゃないかと思った。
それで、少し怖くなった。

何が一番怖いって、俺がどんどん欲張りでわがままになって子どもみたいに森田さんをぶんぶん振り回すことだ。

「抱っこってなに…まじキモくね!あーやだー!あー!」

思い出す。抱っこしてくれた時の森田さんの体の感触とか、息遣いとか。

ひとしきりあーあー言ってから、まだ早いけど、シャワーを浴びたり着替えたりするために家に帰ることにする。

視界に入る、俺の写真。

俺も森田さんの写真、ほしいな。

「森田さんはそのままでいてね」

支度をして、誰もいない部屋に話しかけてから、森田さんの部屋を出た。

すげー嫌だけど、今日も仕事がんばる。
終わったらここに来られるから、俺はがんばる。







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2014.8.19
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