大きな声では言わないけど

番外 森田と岡崎10



『本、読み始めたよ!字いっぱい!ちょっとずつだけど。おもしろいー!』

『よかったですね。』

『森田さん24日の休みなんか予定あり?俺も休みなんだけど、夜、競馬場行かね?練習やってるか調べた!』

『ありがとうございます。
行きたいです。』

『楽しみにしてるね!』






シフト表をもらうなんて、付き合ってるみたいだな。と思いながら、また表を眺める。
今日は森田さん、おやすみだった。俺は5連勤の3日目が終わったとこ。
会えなくても、あの日、一緒に寝たことを思い出して、それからシフト表を見て、本を少しずつ読んで。そうやっていると、森田さんがすぐそばにいてくれるような気がして、すごく幸せ。

「とかー!きんもー!なに俺!なに!頭を冷やせよ頭を!森田さん!大好き!」

最近、隣の部屋の住人がたまに壁叩いてくんだけど。1人でうるせーから?

はあ。幸せ。抱きしめるクッションでも買うか。

「きもー!俺きもー!」

楽しい夜だ。









「馬ってすげーな」

思わず呟いた。

俺たちは観客席の最前列の柵に掴まって、土の敷かれた中を見ている。馬場、っていうんだと森田さんが教えてくれた。他にもパラパラと、カップルや家族連れがいた。

ナイター設備があって、煌々と明かりがついている。

隣の森田さんを盗み見ると、遠くで走る馬たちをじっと見ていた。
俺はもっと森田さんを見ていたい。

「遠くても、走る音が聞こえるね」
「よく、あんな、細い脚で」
「ねー」

ほとんどが茶色い馬だ。一頭だけ、白髪みたいな馬がいた。

「あいつはおじいちゃんかなぁ」

指差した俺の視線を追った森田さんは、口元を手で隠してふふと笑った。

「違うの?」
「あれは、芦毛っていう、そういう色の、馬です」
「えー……」
「有名な馬で、いたの、知らないですか、オグリキャップとか」
「ふーん……」

聞いたことはあるけど、その馬の外見を知らなくて、ピンと来なかった。
森田さんは、その馬を見つめたまま、優しい顔をした。
俺はまたそれを盗み見ている。

「生まれた時は、茶色だったりすることも、あるらしくて。後でわかったりも、するみたいだけど」
「うわー俺みんなとちげーし、仲間外れじゃん、って大きくなって気づくのかなぁ」

俺もそうだった、小学生の頃から、いいなって思うのは男友達だった、とか思い出して言うと、森田さんはちらっと俺を見た。

「他の個体と、自分を、比べるのは、人間だけなんじゃないですか」
「そっかー、鏡も見ないだろうしね」

あんなに早く走れたら気持ちいいだろうな。

「岡崎さん、コンプレックスとか、あるんですか」

森田さんは、馬を見ながら聞く。

「あるよ」
「…へえ……」
「あるよー、ほんとだよ」
「すみません」
「ないように見える?」

森田さんはまた俺をちらっと見た。

「他の人が、羨むものを、岡崎さんは、たくさん持って生まれている、と、思います」
「例えば?」
「……いや……」
「ねえ、例えばー?怒らないから教えてよ」

好奇心が勝って顔をのぞき込むと、森田さんは馬を見たまま言った。

「……明るさ、とか」
「明るさ?」
「あと、綺麗な顔だと、思います」
「えー?俺?」

普通に照れる。綺麗?うれしー。どうしよ。ポーカーフェイスを保つために口をとがらす。

「幸二さんにはよく垂れ目をからかわれたけど」

色気があるとも言ってもらった。セックスの時、見ろって言われたりもした。
なんか、遠い過去な感じがする。

「あの人は、まだ、忙しいんですか」
「うん。でももうほんとにいいの。森田さんいるし。寂しくない。ありがとね」

森田さんは何も言わなかった。

馬が走っている。明るい照明の下で、茶色のに混ざって、おじいちゃんに見える馬も、全速力で駆けていく。

あの子が持って生まれたのは脚の速さと珍しい毛色。他とは違うと、わかっているのかな。

俺が持って生まれたもの。

体がもっとがっちりしてたらとか、細々したコンプレックスはいくつかある。
それから、森田さんが知らない、同性愛のこと。もし知ったら、どう思うだろうなと思った。
それはコンプレックスでしょうねって真面目な顔で言うかな。

好きって言ったら、なんて言うかな。
困った顔するかな。

しばらくの間、森田さんは馬を。
俺は、森田さんを、見ていた。





夜メシを食べようってことになって、いつもラーメンだから飲みに行かね?って誘ったら、森田さんはすごく迷った。
お酒飲まないのは知ってる。でも、酔った森田さんをどうしても見てみたくなって。

そしたら。

「岡崎さん、寿司、好きですか」
「好き!一生寿司でもいいくらい」

森田さんか寿司かっていうくらい。

「得意先で、わりとうちの近くに、寿司屋があるんですけど」
「行きたい。回らない方だよね?」

頷く森田さん。

「酒も、置いてるんで……あ、でも、行きたいところありましたか」

森田さんは少し焦ったみたいに言う。

「森田さんの行きたいとこに行きたい」
「……岡崎さん、それ、多いですね」

普段は言わないよ、こんなかわいらしいことは。

森田さんちに車を停めてから2人で少し歩いた。今日はだいぶ暑い。もうすぐ夏だ。
店は小さなビルの地下にあって、他に客はいない。さすが森田さん。混まない店を知ってる。でも綺麗で上品で、俺は少し緊張する。

「カウンターに座るの?えー怖え」

思わず言うと、森田さんも寿司屋の大将もくすくす笑ってすげー恥ずかしかった。

「予算に応じて握ることもできますよ」

大将がにこやかに言う。寿司屋の大将とかって、もっとむすっとしてると思ってた。

「今日は、奢るので、大丈夫」

森田さんがカウンターに座りながら言う。

「えー悪いよそんなの、つか森田さんよく来んの?」
「全然。でも、ほんとたまに、食べたい時に」
「でも誰かとっていうのは無いよね」

大将が気さくに森田さんに言って、森田さんは、そうですね、と答えた。
なに。嬉しすぎてにやけるんだけど。「岡崎さんだけですよ、連れて来たのは」って言われるのを想像して勝手に照れる。

「ちゃんと、自分の分は払うよ」

森田さんは首を横に振る。

「今日、馬、調べてもらって、見られて、楽しかったので」

森田さんは俺に飲み物を聞いて、ビールとレモンハイを注文した。
そうだ、森田さんは前もカシオレを飲んでた。

寿司だけだと思ってたら、酢の物とか刺身とか唐揚げも少しずつ出てきて、普通に居酒屋みたいに飲めた。飲みほはないけど。そしてすげーうまい。

「大将!すげーうまいっす!」

感激して言うと、ありがとうございます、と言われたので、居酒屋で働いてることとかを軽く話す。
森田さんは黙って聞いている。
大将は俺の話ににこやかに相槌を打ってから、奥に引っ込んだ。冷蔵庫を開け閉めする音が聞こえる。

「森田さんは甘い酒しか飲まないの?」
「酒の味が、得意じゃないから。甘いのだと、飲みやすい」
「なんかかわいいね」

森田さんは、困惑顔だ。

「かわいい……わけない…じゃないですか…」

この人頭がどうかしてるのかしらって思われたっぽくて、ちょっとおかしかった。
本気でそう思ってるんだろう。でも俺も本気。

「俺、男友達でもかわいいとか思っちゃうんだよね。つかむしろ男の方がかわいく見える」
「へえ……」
「森田さんはそういうの、ない?」

俺も酔ってるのか。こんなこと聞いても答えが望み通りのはずはないのに。

森田さんは「んん」と言って考えたまま、答えを保留にした。

でも、そうだな。
俺はきっと、酒の勢いでこういう事が聞きたくて、森田さんを飲みに誘ったんだ。

「俺ね、男とキスしたこともあるよ」

氷山の一角をカミングアウト。

森田さんは一瞬止まって、それからゆっくり、まぐろの刺身を箸で取って、わさび醤油に少しつけて、それを口に運んだ。
その光景がすごくエロく見えて、大変だった。
やべー。まじで酔ってるかも。

「キモいと思った?」

聞いた自分の声は落ち着いている。

「…それは、どうして、また」

キモいかキモくないかも、森田さんは保留にする。それよりシチュを聞いてくる。

「かわいいと思ったら、男でもいいなって思ったの。それだけだよ」

森田さんはレモンハイをくぴっと飲んだ。

「……飲み会で、とかですか」
「飲まなくても」
「何回か、あるんですね」

鋭いな。

「そういえば、岡崎さんは、男にも、もてそうです」

森田さんは刺身のツマをつまんで食べた。

「男にも?」

俺は森田さんの顔を覗き込む。詳しくどうぞ。

「わからないけど……岡崎さんは、珍しい猫みたい」

なんて?

「珍しい?ネコ?」

タチネコのネコじゃねーよな、と考える。そんなわけない。

「わあ、って言って、人が寄ってきて、みんなにかわいい仕草を見せて、みんな喜んで。でも誰も、その猫の名前とか性別とか、飼われてるのか野良なのか、知らない」

想像する。街角にいる猫。人の中心にいて、でもふっといなくなる。いつの間にか現れる。見たこともない種類の猫。

「森田さんも撫でに来る?」

森田さんは少し考えて言う。

「俺は、誰もいない時に、マタタビをあげるタイプ」

下さい。今すぐ下さい。

「人がいるとくれないの?」
「自分だけが、独占できる時間が、ほしくならないですか……野良猫とかって」
「独占欲強いの?」
「嫉妬もするし」
「意外」
「…最近、気づきました」

森田さんはまた、ツマを食べた。

最近、嫉妬をするようなことがあったってこと?それって女?

どす黒い感情が湧きそうになる。
ほら。友達ってこういう時、なになに、好きな子でもできたの?って聞けるやつのこと言うんだろ。
ムリな気しかしない。

森田さんは、俺が何も言わないのを別の意味にとったのか、自嘲気味に笑った。

「俺なんかが、独占していいわけが、ないですけど」

まーた。森田病。

「森田さん、その考え方やめなよ。だって俺はね、今ね、森田さんに独占されて、楽しくて仕方ないよ」

どさくさにまぎれて、森田さんの肩に頭を乗せる。森田さんの体がひくりと緊張するのがわかったけど、酒のせいでそんなこともどうでも良くなっている。
森田さんは今日、たるたるっとしたTシャツを着ていて、鎖骨がきれいに出ている。

「俺だったら嬉しいけどなー」

少しすると森田さんも慣れたみたいで、そのまま肩を貸してくれた。
優しいな。あったかい。うれしい。好き。鎖骨舐めたい。

森田さん、誰に嫉妬したの。誰を、自分のものにしたいって思った?知りたいけど全然知りたくない。

森田さんだけのものになれたら、どれだけ幸せなんだろう。
この静かな人の、臆病な顔のその奥の、熱くてグロい感情を引き出せたら。

元妻の話を思い出す。その人にはきっと、嫉妬もしたんだろう。独占したかっただろう。だからあんなに、森田さんの中に、残って。
ひでえ女。ほんっと、俺にとっては敵でしかない。なのに、森田さんにとってはたくさん愛した人だ。

もんもんとしてたら、締めの寿司が出てきた。

「森田さん、食べさせてあげるー」

箸で寿司をつまんで森田さんの口元に持っていく。

「岡崎さん……酔ってる?」
「酔ってるー?」
「いや、あの…、岡崎さん」
「酔ってるー」

そんなこといいから早く、口を、開けて。
あー。困った顔。そそる。まじで。

「岡崎さん……」
「あーん」

森田さんはちらちらと俺を見ながら、やんわりと俺の手を遠ざけた。

「あ、意地悪」
「……意地悪……」
「意地悪でしょー森田さんたら」

ほんと。酔ってるかも。軽く森田さんを睨むと、森田さんは寿司を放した俺の手から箸を取り上げた。

「お酒、弱い…?」

森田さんはボソッと言って、少し目を泳がせながら俺を見る。そうして、箸でさっきの寿司を取り、俺の口に持って来る。

「……はい」

あれ。逆に?食べさせてくれる系?
やだ。森田さんのえっち。
よくわからんことを考えながら、森田さんの目を見たまま口を開ける。森田さんは俺の口を見ている。

開けた口に、森田さんが寿司をゆっくり突っ込む。森田さんの口も少し開く。視線が一瞬交わって、森田さんの目はまた、口の方へ戻った。
かわいい。かわいい。なに、この人。怖い。
噛みしめて食べた。

「おいしーよ」

じゃあ次俺ね、と言って箸を持とうとしたら、また森田さんが止める。そして、また、寿司を食わされた。

「俺ばっか食ってんだけど」

本当は死ぬほど嬉しくて幸せなのに、ちょっと不満げな顔をしてみる。森田さんは俺から目を逸らして首をかしげて、聞こえない、みたいな顔をした。
そんな顔、初めて見たよ。心が近づいた気がしてすごくうれしい。
森田さん、もしかして、酔ったらボディータッチへの恐れが薄まる?緊張がとけるのかな。

「ねーねー森田さん」

ゆっさゆっさと肩を揺さぶってみたら、森田さんがちょっとふざけて横目で睨むみたいに俺を見た。ああ。えっろい。かわいい。ぎゅってされたい。して。してよ。酔った勢いでいいから。俺、超がんばってえっちなことするから。

「ねー」
「はい、はい」
「つぎ、イクラをください」
「……はい」
「手で」
「手?」
「箸じゃなくてー手でー」

そして、指を、舐めさせろ。

「手は……」
「森田さんの、指で」
「……岡崎さん、それは、だめ、汚い」

うー、と抗議のうめき声をあげたら、森田さんは焦ったように付け足す。

「あ、俺の手が、汚いって意味ですけど」

きれいだよ、森田さんのは何もかもがきれい。清潔。清純。
でもとりあえず、そろそろ黙ることにする。
そしたら森田さんはちゃんと、箸でイクラの寿司を食わせてくれた。
酔ってると思ってるだろう。仕方ないやつだなって思ってるだろう。なんでもいいよ、どんな形でもいいから、森田さんの中にたくさん残りたい。
ずっとこうして寿司を食わされてたい。森田さんと寿司のコンボとかもう死ねる。

「ありがと、森田さん」

幸せな時間をくれてありがとう。
誰よりも、ずっと隣にいたい。どうしてそれを、言っちゃダメな世の中なんだろう。何も悪いこと、してないのにな。
森田さんを好きになってから、壊れやすいものをいつも、強く抱きしめたくて仕方がない。
一緒に時間を重ねて重ねて、それで、女のことなんかもう見えなくなるくらいに、森田さんの日々が俺でいっぱいになればいい。



大将にごちそうさまを言って、お会計は本当に森田さんがしてくれた。
幸せで幸せで少しだけ不幸な気持ちをまとって外に出ると、しとっと暑い空気が森田さんと俺を包んだ。
まだ、帰りたくない。

「帰りますか?」

森田さんが言う。いやだ。森田さんちに一緒に帰りたい。
でも何も言わないでいた。さすがに今日はもう、森田さんだって疲れたかな。わがままな自己中と思われたくない。

「それか、遅くなるけど…酔いがさめたら、車で送りますけど」
「そんな手が!」

森田さんは意味がわからないって顔をした。よく見ると、森田さんも酔ってる。顔が赤い。

「ありがとう」

俺が言うと、森田さんはこくりとうなずいて歩き出す。俺もその横に並ぶ。アスファルトの上で影がくっついた。

家に着くと、森田さんは電気をつける前に部屋の窓を開けた。まだクーラーをつけるほどではなくて、ふわっと涼しくなる。心地がいい。

「酔ったね」
「うん」

森田さんが返事をしながら壁のスイッチに手を伸ばしたので、そのままでと頼んだ。暗い部屋の中に、すぐそばの繁華街の喧騒と少しの明かりが入り込んでくる。

森田さんが俺にうんって。どんどん取れろ、敬語。

森田さんが床に座ったから俺も横に座る。2人して窓の方を向いて、そのまま外の音を聞いた。

しばらくすると、森田さんがああとかううとか言いながら転がったから、俺もそのまま倒れてみる。
畳が気持ちいい。

「…結構酔ったかも……大丈夫ですか、時間」

まだ送れないって意味か。問題ありません。

「全然平気。つか、何時間かたたないと飲酒運転になっちゃうし」

答えると、森田さんは仰向けに体を開いた。俺は横向きで、森田さんの方を見ている。

触りたい。
触りたいって気持ちだけでどうにかなってしまいそう。
すぐそばにあるその体に手を伸ばそうか、迷う。手くらいだったら、つないでくれるんじゃないだろうかと思うけど、それは勘違いかな。

いつの間にか近くなっていたけど、森田さんに触って、振り払われた日が確かにあったんだ。
森田さん。俺は今、森田さんからどのくらいの距離にいる?

もっと、森田さんのことを知りたい。酔ってる今なら。

「じゃあこれから質問タイムね」
「質問タイム?」
「森田さん、兄弟いる?」
「…兄と、弟が、いました」
「聞いちゃいけなかった系?」
「あ、いや……今は、付き合いがないので……岡崎さんは?」
「俺も、ねーちゃんと弟がいる」
「へえ…」
「3人だね、一緒だ。真ん中同士だ」
「ですね」

一緒だ。

「はい、次。森田さんの番。俺に聞きたいこと、なんか聞いて」

森田さんはしばらく考えた。寝たのかと思った頃、名前を呼ばれた。

「岡崎さん」
「なあに」
「…岡崎さんは、どうして、俺と……仲良くしてくれるんですか」

薄暗くてよく見えないけれど、森田さんは目を閉じているみたいだ。

「森田さんといて楽しいからだよ」

好きだからだよ。

「安心できる、なんか。年上だからかな」

森田さんは眼鏡を外して俺と逆の方に置いた。
裸眼森田さん、見たい。暗くて見えないよ。

「俺は、あまり、思っても……言葉にできないことが、多いから」

森田さんは仰向けのまま言う。

「岡崎さんが、俺に、ありがとうって言う度に……自分の価値が、少しある気がして、ちょっと嬉しくなるから……伝えるのって、大事だと思いました」

森田さんの価値。俺が一番わかってるから。だから、いくらでも証明してあげられる。

「そしたら俺、これからもたくさん森田さんにありがとうって言うね」
「お礼を言われるようなこと、できるのか、疑問ですけど」

そんなの、森田さんがいてくれるだけで言ってしまう。でもそっか、森田さんは、自分を必要って言う人を必要としてるのかな。

答えづらい質問もしてみよう。

「森田さん、元奥さんが初カノ?」
「…あ、…はい」
「初えっちも?」

答えがない。

「こーたーえーてー」

森田さんは身じろぎした。

「……はい」
「初えっちの感想は?」
「……特に…」
「ダメ。なんか思い出して」

わざと。傷をえぐるかもしれないことを聞く。だって、早くそいつのこと忘れてほしいから。ショック療法。

「本当に…何も……」
「思い出すことと話すことに慣れて、笑えることあったら俺も一緒に笑うし、そしたら、思い出してもなんともなくなる」

森田さんは小さな声で、なるほど、と言った。

「気持ちよかった?」
「…よく、覚えてない」
「向こうも初めてだった?」
「確か」
「向こうの反応は?」

言ってて段々腹が立ってきた。くそ。元妻め。
そしたら森田さんが衝撃的な告白をし出した。

「……痛がって、た、ような」
「あー…処女だし?」
「というか……なんか……俺、ちょっと、あれが……」

森田さんがそこで言葉を切るから、よからぬ想像が膨らむ。

「あれが?あれって?あれ?」
「……少し、あの……まあ、……大きさが……」
「でかいの!」

見てえ!

「すみません」

森田さんがなぜか謝る。笑ってしまった。

「いいなー!」
「いや…そこまでではないんで、はい、終わり」

恥ずかしがってる。かわいいもう。

「見せてみ」
「は?」
「うそ、冗談」

森田さんもちょっと笑ってる。

「そっかーでかいのも大変だね、ヤりづらいね」
「……最初が、いつも、大変だった」

くそー。元妻、腹壊せ。

「岡崎さんは?」
「なに?サイズ?中の中だけど見る?」
「ではなくて」

なんだ違うのか。

「初めて、は、いくつの時ですか」
「初えっち?」

沈黙で肯定する森田さん。ずるい。その単語を森田さんの口から聞きたい。

「初カノ?それとも初キス?」

さあ、言え。

「じゃあ、それ、全部」

あー、ずるいずるい。
それに、言わなくていいことをいっこ言っちゃった。

「初キスも初えっちも高1だねー。同じ人だった」

もう名前も顔も忘れたけど。
とにかく、男だったことだけは間違いない。

「岡崎さんは、もてたでしょう」
「ぼちぼち」
「……今、本当に、彼女、いないんですか」
「あ、ダメ、次の質問俺の番だし」

自分は立て続けに質問したくせに、森田さんをシャットアウト。
際どい。初カノもなにも、俺は女と付き合ったことなんかない。男とだって、セフレ以外でちゃんと付き合った人なんかいない。
いないんだよ、森田さん。
そんなことを思ってたら瞬時には何も思い浮かばなくて、少し間が開いた。

外で誰かが、バカ笑いをしている。

「誰に、何の時に嫉妬したの?」

聞きたくないはずだったのに、やっぱり聞いてしまった。

「それは……」
「ノーコメントとか無しだからね」
「いや、気持ち悪いので、言わないです」
「なにが」
「……質問変えて」
「嫌だよ、答えて」
「…いや…ちょっと……また今度」
「えー」

俺には話せないっていうのかよ、とちょっと絡みかけて、めんどくさくなってやめた。
聞いたところで得はないって思うようにして、寝転がったまま足を組み替えたりしてストレッチをする。

「じゃあ、好きな体位」
「たいい?」

森田さんの頭の中には、多分漢字が浮かんでない。
つか。

「森田さんって、AV見たりすんの?」
「……いや、あまり」
「オナニーする?」

答えがない。

「ねー森田さん」

じりっと近づくと、森田さんがこっちをチラ見した。

「ほとんどしないです」

森田さんの早口とか、レア。

「しないんだ、そうだよね、なんかそんな気がしてた」

好きになった頃からそんな感じがしてた。

「好きな体位は?」

そこでやっと、体位の意味がわかったらしく、森田さんは眼鏡をかける。なぜ。どうした。

「体位とは…」
「セックスのだよ」
「はあ……」
「待って、当てる」

森田さんがいや、いやいや、とか言ってるのをほっといて考える。

「バックではなさそう」
「……そうですか」
「相手の顔とかじっくり見たいタイプっぽい」
「……へえ」
「騎乗で下からガンガンもなさそう」
「…はあ……」
「体おっきいから駅弁もできそうだけどやらなそう」

あれ、難しい。

「正常位かな……」

俺が呟くと、森田さんは、ちょっと名前はわかんないですね、と言う。

「そんなマニアックなわけ!」
「というか、詳しくないので」
「いや、今あげたのか大体メジャーなとこじゃね」

おい、血圧上がるんですけど。

「どんなの?ねー、俺にしてみて」

さあ早く。

寝たまま森田さんに向かって両手を広げたら、森田さんは完全に俺に背を向けた。

「ちょっとー無視やめなさいよ」
「おやすみ」
「寝ねーよ」
「寝ますよ」

不意に幸福感に満たされる。こんなやりとり、幸せすぎて。俺ら、付き合えるんじゃね。

「岡崎さん」

森田さんがあっちを向いたまま俺を呼ぶ。

「はいよ」
「あの、幸二と、いう人と、も、……キス、しましたか」

なんで。

「なんで?」

森田さんは答えない。

「ねえ、なんで?」

声が掠れた。どうして。
テンションが落ちる。うんって言ったら引かれるんだろうか。それどころかいろんな体位でヤったって言ったら?

嫌いになる?気持ち悪いって思う?もう、俺に触られたくなくなる?
怖くて動けなくなった。

すると森田さんが、体をこっちに向けた。畳に横たわったまま、向かい合う俺たち。

「なんでもないので、忘れて下さい」

森田さんの顔はよく見えない。

さっきまであんなに幸せだったのが嘘のよう。
もしかしたら、話したら、俺がゲイだって話したら、森田さんが、俺を。

「森田さん、俺ね、」
「あの人のことが、好き、なんですか」

森田さんの声には、責めるような色がまざったような気がした。
そう。やっぱ、そうだよね。
引いたんでしょ、男かよって。
あーあ。真剣になんかなって、ダセえよ、俺。

思わず笑ったら、森田さんがなんと、俺の顔をじっと見た。
暗いから緊張しないのか、それとも、自分と価値観が真逆の人間を観察しようとしてるのか。
とか、俺、性格悪い。

「…岡崎さん、そういうふうに、諦めたみたいな、どうでもいい、みたいな、ふうに、笑うのは、やめた方がいいですよ」

森田さんはそう言って、困ったような顔でにこりと笑った。薄暗くてもわかる、唇の形。
笑った、森田さんが。
でも、俺の中の熱は急激に冷めていく。

俺は立ち上がって部屋の電気をつけた。森田さんがそれを見て立ち上がり、窓を閉めた。それから俺のそばまで来る。心配そうな顔をして、ちらちらと俺の目を見ている。
そんな顔して、ほんとは引いたくせに。

ひどい人。もう俺を捕まえて絡めとるのはやめて。苦しみたくないよ。

「だってそしたら、森田さんがなんとかしてくれる?俺は男しか好きになれない。男にしか欲情しない。そんで、好きな人が森田さんだって言ったらなんとかしてくれんの?」

森田さんは一瞬遅れて険しい目をした。

「そういう冗談は」
「冗談じゃない。ほんとにそうなんだって」

虚しくなる。冗談だと思われる。こんな真剣な気持ちを。

「好き。森田さんのことが好きだよ」

森田さんは明らかに動揺した。思いもしなかったことを打ち明けられて、受け入れられないんだ。
かわいそうにね。
押し寄せる、無力感、諦め。
一歩引いた自分がペラペラと話し始める。

「世の中どうにもならないことだらけだよ。俺が何をどうがんばったって俺は一生1人なんだ。がんばったって、俺は自分の好きになる人を代えられないし、好きな人に好きだって言ってもらえもしない。それを俺はずっと前から知ってた。だから俺、こういうふうに笑うようになったんじゃね。知らないけど」

話しながら、心底どうでもよくなってくる。

だからやめればよかったんだ。
自分を嘲笑う自分がいる。

部屋が静まり返った。感情がどんどん冷めていく。
素直になんかなるからだ。都合のいいことと悪いことの区別がつかなくなってた。どうして、受け入れてもらえるかもしれないなんて、バカなことを考えた?

俺はマイノリティだ。それなのに調子に乗って。

真剣に、好きになんか、なるからだ。

「間違えた。俺ほんと、森田さんと普通に、友達として出会えばよかったよ。どうして、好きになんかなったんだ。初めて真剣に好きになったのが、どうして、」

顔を上げたら、森田さんが俺を見ていた。
森田さんの目はどうしてこんなに綺麗なんだろう。今そこに浮かんでいるのは、困惑と、優しさと、何か、強い気持ち。戸惑い?嫌悪?ショック?

終わる。
森田さんの理解者に、俺もなれないで終わる。
森田さんが、また、1人になってしまう。

「なんで、俺、なんか」

森田さんは絞り出すように言った。

「岡崎さんなら、もっと他に……他にも、ふさわしい人が」
「それ以上言わないでよ。それ、最低の断り方だよ、森田さん」

森田さんがやめろと言った、どうでもいいようなヘラヘラした笑顔をわざと作った。森田さんは、目を伏せてしまう。
森田さんが、また、1人で傷ついてしまう。
俺は大丈夫だろう。また、誰かをひっかければいい。幸二さんのとこに戻ればいい。

「森田さんって、すげー、かっこいいよ。すげー生き方。自信持ちなよ。俺、本当に、好きだ、った」

無理矢理過去形にする。

森田さんが俺に、少しだけ心を開いてくれていたのを知っている。だけど、俺と同じにはなってくれない。

森田さんは、俺みたいなやつとまた出会えばいい。そいつと友達になればいい。

ぼんやりそんなことを考えて、森田さんを見た。
森田さんは、また俺を見ていた。目が合っても逸らさずに、澄んだその目で汚い俺を見ていた。

体が勝手に動く。だめだと思う暇もなく。
森田さんを壁におしつけて、驚いたその顔を見ないように目を閉じてキスをした。唇が触れて、そのまま少し強く押し付けるようにしたのに、森田さんは動かなかった。振り払ったり避けたり押し返したり殴ったり、してくれればいいのに。男にキスされて怖い?ごめんね。ごめんね森田さん。
好きになんかなって、ごめんね。
もう俺は、あなたのそばにいてあげられない。


ゆっくり離れて、それから、足がガクガクして立っていられなくて、俺はそのままへたり込んでしまった。森田さんも、壁に背中をつけたまま、ズルズルと座った。

放心状態でそのまま。森田さんの息遣いだけを聞いて、顔はあげられないまま。

やっちゃった。
もう、きらわれた、絶対。

「……ごめん、なさい」

俺が言おうとした言葉を、森田さんが言う。何がと聞こうとして、俺は悟る。

俺の気持ちに対する言葉だ。告ったことに、ごめんって言われたんだ。

「うん……わかった」

なんだか体がふわふわする。自分が立ち上がって森田さんの足を見下ろしているのに、そんな感覚が全然ない。

俺の気持ちは届かない。わかってた。最初から。わかってたじゃん。

森田さんの顔を見られないまま、でも、森田さんをひとり残したまま立ち去ることもできなくて、ただ、俺は突っ立っていた。

森田さんの部屋には音がない。だから小さな冷蔵庫が、低いモーター音を精一杯鳴らしているのだってわかってしまう。
沈黙を埋めてくれてるの。健気な子。

謝られた。
思ってたより、キツい。













唇が。触れてしまった。
キスを、してしまった。
岡崎と、キスを。

パニックの中で咄嗟に謝ると、岡崎はわかったと言って立ち上がり、そのまま下を向いていた。

好きだと言われた。
人に、好きだと。
岡崎が、俺を。
まさかと思ったのが申し訳なくなるくらい、真剣な気持ちが伝わってきて、俺はただただ戸惑った。
岡崎みたいに、きらきらとした人生を歩める人が、俺にだけそんな気持ちを持つなんて、なにが、どうして。
何かの間違いか、岡崎の勘違いではないのか。
俺が。こんな俺が。

俺を、岡崎はもう見ない。
何か言わなければ。言わなければ、伝わらない。でも、何を。

必死に考えていたら、岡崎がふと笑った。座ったまま見上げると、あの、薄笑いを浮かべている。

駄目だ。そっちに行っては駄目だ。

こっちへ。こっちにおいで。

「岡崎さん。どうしたら、ちゃんと笑ってくれますか」

いつも、岡崎の素直な笑顔は綺麗だと思っていた。あの顔を。どうすれば。













俺はまた笑ってしまう。ちゃんと、笑う?そんなの、フラれたばっかでできるやついねーよ。森田さんのあほ。

「無理じゃね。あとは、俺は、帰るだけだし」

家まで、なんとかたどり着かなきゃ。

「変なことして、ごめんね、森田さん」

ここを去る決心をする。この、愛しい人の元を。

「……ちょっと、待ってもらえないですか」

森田さんが言った。

「少し、話を、ゆっくり、できないですか。時間を下さい、俺に」

森田さんは、手を変な風に動かしている。がんばって言葉を探しているのが手に取るようにわかる。ああ。本当にかわいい人だ。不器用で、嘘のつけない、まっすぐな。

「俺はもう、こういう形で、人を、失いたくないんですけど」

森田さんは手を動かすのをやめて、今度は首をコキコキ鳴らした。音が鳴らなくなるまでやった。
挙動不審。

「悪いんだけど、森田さんが俺を友達と思う限り、もう一緒にいられない」
「勝手に、俺の気持ちを、決めないで下さい」

何を言う。

「森田さん。期待させるようなこと言わないでね。頼むから」

森田さんはなおも続ける。

「俺は、岡崎さんに出会って、優しくしてもらって、すごく…よかった。話を聞いてもらって、楽にできるように、なりました。1人が一番だと、思ってたのに、岡崎さんの隣の方が、安心できると思った。それに、岡崎さんのことが、いつも気になるように…なってしまって、疲れていないかとか…がんばりすぎてないかとか、ちゃんと笑ってほしいとか……だから、なるべくなら、関係を、切りたくないです」

森田さんがこんなに長く話すのを、初めて聞いた。
そんなふうに思ってくれるの?嬉しい。びっくりするくらい。
でも、森田さんは何もわかっていないんだ。
揺れる。グラグラ揺れる、俺の気持ち。

「岡崎さんが本当に、その、俺を、必要としてくれるなら、俺も岡崎さんのこと、同じ意味で、思えるようになれば、いいってこと」

何を言ってるの。意味、わかって言ってる?腹が立った。

「簡単に言うなよ」
「……難しいですか」
「知らないよ、俺は生まれつきこっちだから、ノンケの気持ちなんか」
「じゃあ、そうできるように、がんばります」
「は?もういいよ、めんどくせ。がんばってできることじゃねーだろ。女と結婚してたような人が何言って」

俺の言葉を遮るように、座ったまま森田さんは俺の手を握った。

「前の俺は、これだってむずかしかった。膝枕なんか、できるわけもなかった。今も、他の人ならこれができないです」

いつも言葉を区切るようにしてゆっくり話す森田さんがちょっと早口だ。怒ってるんだろうか。身勝手なことを言い出した俺を。

「だから、今はちょっと驚いたのでわからないけど、岡崎さんに関して、俺は、性別とかそういうの、わからなくなる時があって、混乱するけど……ただ、俺にはあなたが、もう、必要、というか、必要な人が、岡崎さんしかいない、というか、」
「必要?俺が?」

言うと、森田さんは動揺したのか、キョロキョロと目を動かした。
それって、期待してもいいってこと?
ウソだ。絶対。できるわけないよ。

「じゃあしてみてよ。キス」

喧嘩を買うような気持ちで言った。躊躇するはずだと思っていた森田さんは、すっと立ち上がった。目がまっすぐ俺を見ていて、思わぬ展開にこっちがたじろぐ。
できるわけない。できるわけが。

「キス、を、その、し、したら、岡崎さんは、ちゃんと、笑いますか」

目の前の森田さんの顔が見る見る赤くなっていく。

「わ?笑う?笑うって?キスで?森田さんが、俺に、キス……」

あれ、あれ、森田さんの動揺がうつって、なんか、すげー恥ずかしいからやめて!

「したら、いいですか」

森田さんは真っ赤な顔をして間を詰めて来た。俺は怖くなって一歩下がる。

「なに言ってんの、無理だよ、森田さん」
「無理では、ないです」
「無理!俺が無理!」

思わず言うと、森田さんは体の力を抜いた。

「……ですよね…すみません」

あ、違う、そういう意味じゃなくて、どうしよう、なんて言えば、っつーか森田さん、どういうつもりなの。わけわかんねーよ。
さっきのごめんなさいは何だったの。何がごめんだったの。
気づいたら俺は自分の髪をくしゃくしゃにしていた。

森田さんは眼鏡をはずして、片手で自分の顔をごしごしとこすった。そうして顔を半分くらい隠しながら、ぼそぼそと言った。

「あなたの、その、気持ちのことを、俺は、真剣に、考えますから。ちょっと、少し時間が…まだ、俺なんかという気持ちが、消えなくて……いい言葉も、全然、みつからない……でも、あなたにそう、言ってもらって、俺は、すごく、」
「森田さん」

かわいくて、愛しくて、もう、聞いていられない。もう待てない。

「やっぱ、して。キスして」

遮って一歩近づいた。顔を覆っていた片手をそっとつかんでよけたら、眼鏡ごしじゃない瞳が揺れた。
ごくり、と息を飲む音がはっきり聞こえる。一瞬俺の目を見て、細められた目。視線がまた、下へおりて。俺の口のあたりで止まる。
ドキドキして、今まではキスごとき、と思っていたあの行為とは全然違うことを、これからしてもらうみたいな、気が、森田さんに、ああ、どうしよう。
さっき自分からしたことはすっぽり忘れて待つ。
少し近づいてきた森田さんが、至近距離で止まる。

「どうしたの」

囁き声で聞くと、俺の肩のあたりを見ながら森田さんは言う。

「いや、あの……」
「ん?」

ぼそぼそとやりとりをする。

「ちゃんと、言ってない、俺は……」
「ん?」
「す、っ、あの、す、好きだとか、言ってないのに、き、キスを」

マジメな森田さんらしい戸惑いを、俺はぶったぎってあげる。
ゆっくり間を詰めて、もう一度俺からキスをした。ふっくら、と感じられるように優しく触れて、離す。唇が触れそうな距離でまた、誘うようにして、催促をする。

「キスして。森田さん」

森田さんは諦めたのか、目を閉じて、ゆっくり。
俺に、キスをしてくれた。

自分からするのとは全然違う。
森田さんに、キスをしてもらった。
森田さんに。
森田さんに。

「好きなの。森田さんのことが」

するりと、言葉が出た。
ずっとずっと、言いたかったことを、今俺は、我慢しないで、いっぱい言っていいんだ。

「すっごいすっごい、好きだよ」

森田さんは、黙って聞いてくれる。

「言える日が来ると、思わなかったから」

緊張がとけて、力が抜けて、うっかりすると泣きそうになる。
だって別に、俺も好きだぜって言われたわけでもないのに。
落ち着こうとして深呼吸してたら、森田さんの声が降ってくる。

「あなたは、いろいろ、自分に我慢をさせて、生きてるから」

見ると、森田さんはすぐに目を逸らしてしまった。でも目が合ったその瞬間、俺を見る森田さんの表情が優しかったから。

「1人で、がんばろうと、しすぎないでと、言いたかった」

優しくて。

「あなたの周りには、ひとが、せっかくたくさん、いるんだから」

嫌だ。泣きたくない、恥ずかしい。

「そう思うなら、森田さんが俺の隣にいてよ。そんで、がんばりすぎるなって言って。お疲れさまって、がんばったなって、よしよしって撫でてよ、この間みたいに」

泣きたくないばかりに、畳み掛けるように言った。甘えたことを。混乱しているであろう森田さんをもっと混乱させるみたいに。

そしたら森田さんは、その場に座って、俺の手を引いて座らせて、そうやって向かい合わせになって。

「岡崎さんは、まだ、ハタチなのに、いろいろ、がんばって。偉い。尊敬します」

そう言って、俺の頭をそっと撫でた。
顔が熱い。うれしい、うれしいよ。もっともっと、して。

「でも、俺は、あなたの、楽しそうな笑顔が、好きで……もっと、俺は、あなたに、ちゃんと笑ってほしい」

笑顔が、好きで。俺の、笑顔が、好きで。
その言葉がこだまする。
森田さん。本当?

「俺を森田さんのものにしてくれるなら、俺はちゃんといっぱい笑える」

正座した脚を少し森田さんの方へ寄せる。

「俺の、ものに……」
「そう。森田さんのものに、なりたいの」

混乱に乗じて、森田さんが思わずOKをくれたらいいと思って、じりじりと近づく。

「俺は、むしろ、俺が、岡崎さんのものになるっていう方が、しっくりきます、けど」
「森田さんを、俺のものにしていいの?」
「前も言ったけど……俺を、岡崎さんの好きに、使えばいい。それで、笑ってくれるなら、俺は」

森田さんは目を伏せたまま、唇を舐めた。

「俺の、存在価値を、岡崎さんが、下さい」

返事ができなかった。ただ、撫でてくれた森田さんの手を、握った。
森田さんの手は、俺のより厚くて大きい。俺のより少しだけ冷たい。かっこいい手。

そうだ。森田さんは、自分の存在価値なんかないと思って生きてきたんだった。人を遠ざけて、人の邪魔をしないように、傷つけたりしないように、そうやって生きてきたんだった。

「森田さん。俺のそばにいて。それで、できた時はほめて。ダメな時は叱って。なぐさめて」

俺を、いつも見てて。

「それ、森田さんにしかできないこと。世界中で、森田さんにしかしてほしくないことなんだ」

そう言ったら、森田さんが困ったように笑ってくれた。なんで俺、と言いながら。
そういうところがたまんない。それを伝えるのはまた今度にして、俺はただずっと、向き合って森田さんの手を握っていた。






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2014.1.26
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