大きな声では言わないけど
番外 森田と岡崎8
森田さんの家に行ったあの日以降も、俺は相変わらずの毎日を送っている。
起きてまず携帯をチェックする。森田さんからメールとか来てないか。来てないんだけど。
ベッドでゴロゴロしながら森田さんのことを考えて、しょうがないなって思って支度をして家を出る。
歩きながらまた森田さんのことを考えて、たまに少しだけ仕事のことを考える。
店に着いたら、90%は仕事に追われながら、ふとした瞬間にまた、森田さんのことを思い出す。
それで、深夜仕事が終わって帰るとき、寂しくなって幸二さんに電話する。幸二さんと会うの、寂しくてやめらんなくて、だって、森田さんにはなかなか会えないし。
幸二さんに会って、メシ食って、たまに酒飲んで、ヤって、帰って寝る。
もう朝じゃん、やべー寝なきゃって倒れるようにしてベッドに転がって、そこでまた森田さんが登場する。
今日なにしてた?また、難しいこと考えてた?悩んでた?仕事?休み?本、何読んでる?
俺は今日も、森田さんのこと考えてるよ。ずっとずっと。
そんな、淡々とした普通の日々は、唐突に終わった。
*
仕事の帰りに古本屋に寄って、たまたま好きな作家の本を見つけた。
思ったより長居してしまって、店を出て車まで歩いているところで、携帯が鳴る。
仕事後に連絡をしてくる相手は1人しかいない。
『森田さん。なにしてますかー』
受信メールを表示させると、最後のハテナがプラプラと踊っていた。
『帰るところです。』
返事を返すと、すぐに電話がかかってきた。
『元気?』
「元気です、けど」
『実は今、森田さんの後ろにいるー』
驚いて振り向くと、本当に岡崎がいた。
「森田さん」
俺を呼んだ岡崎の隣には、40代くらいの男がいた。
「お疲れさまです」
とりあえず、俺は岡崎に応える。
「お疲れ。びっくりした、いきなりいるんだもん」
「よく、偶然、会いますね」
「運命の相手だからー?」
岡崎はニヤニヤして、俺は困惑する。
「……岡崎さんは、今日、休み?」
「休み。8連勤だったよーまじ死ぬわ」
「大変でしたね」
話していたら、隣の男が言った。
「正浩、俺にも紹介して」
一瞬、彼が何を言ったのかわからなかった。
それが岡崎の名前で、俺を自分に紹介しろという意味だとわかって岡崎を見ると、岡崎もぽかんとした顔をしていた。
「あー、そーねー……森田さん、これ、幸二さん。で、こっちが森田さん」
「どうも」
「こんばんは。な、正浩、ファミレス入らない?森田さんも。よかったら」
幸二というらしい男は、人好きのする笑顔を浮かべて言った。
岡崎は少し窮屈そうな顔をした。
「俺、邪魔なら、帰りますよ」
その男とは別に話すこともないし、帰りたくなって言うと、岡崎は焦ったように首を横に振った。
「森田さんも来て」
岡崎には恩がある。もう、俺はこの人を無下にできないし、この人が言うのなら、と、少し我慢してみることにした。
男に続いて歩き出した岡崎の背中を見る。友達にしては年が離れているように見える。店の人間だろうか。
窓際のテーブルを選び、男は奥に岡崎を座らせた。俺は2人の向かいに腰を下ろす。
岡崎への男の仕草は全体的になんとなく、甘やかしている女性に接する時のもののように感じられた。
男は、左手の薬指に、指輪をしていた。
「腹減ってます?」
聞かれたけれど、知らない人間への緊張でそれどころではなかったので、ウーロン茶だけ注文する。向かいの2人はコーヒーにしたようだ。
「最近こいつね、森田さんの話しかしないんですよ。職場で知り合った人ですげーいい人で、って」
いたたまれないと思った俺以上に、岡崎はいたたまれなそうな顔をしていた。
「幸二さんうっせ、黙れ」
「別にいいだろ、本当だし」
「うっさいわ、まじ。困るじゃん、そんなこと言われた方は」
岡崎は、俺の気持ちを思ってくれたらしい。チラチラと俺の方を見る。
「大丈夫」
俺が言うと、岡崎は「そう?」と言って笑顔を作った。
男が、その横顔を見ている。
*
幸二さんと軽く飲んで、ホテルに向かおうとしていたら、森田さんに会った。
嬉しくて幸二さんを忘れて森田さんと話をしちゃって、そしたら、幸二さんが森田さんを誘った。ファミレスとか、2人でだって行ったことねえし。なんなの、と思った。
幸二さんは、全然乗り気じゃない森田さんに、雑談みたいな話を振った。そこはさすが社長。如才ないって、こういうののことかな。
俺は特に口を挟むことなく、幸二さんの話を聞いていた。
話が途切れた一瞬、幸二さんが俺を見たのが分かった。
「森田さん。俺はね、これからちょっと仕事が忙しくなるんだ」
幸二さんが言う。
何それ。幸二さんが忙しいのなんかずっとじゃん。
「あんまり正浩の面倒見てやれなくなると思うんだ。だから、正浩のこと、よろしくお願いします」
「は?何それ。そんなこと森田さんに頼むなよ」
少しイラついて言うのに、幸二さんは俺を無視した。森田さんは幸二さんと俺を見比べている。
困ってんじゃん。
「こいつカッコつけだからあんまり人に弱み見せないけど、本当は甘ったれだし寂しがり屋だし、友達は多いけど頼れる人は少ないっていうか、まあ、まだハタチだし。ガキだから」
ねえ、幸二さん、何を言ってんの。
「ちょっと手かかるかもだけど、でも、かわいいやつですから」
唖然として話を聞いていた俺の耳に、森田さんの優しい声が届く。
「いい人なのは、知っています」
森田さんの口からそんな言葉が出てきてほんわりしていたら、幸二さんが隣で立ち上がる。
よかった、と言って森田さんに笑いかけて、な、と言って俺を見下ろした。
「幸二さん?」
幸二さんは俺の頭をポスっと叩いた。
「正浩、元気でやれよ」
そう言ってあまりにも自然な流れで席を離れて行ったから反応が遅れた。
え?
いま俺、幸二さんに捨てられた?
*
男は席を立って店を出て行った。
岡崎は、親に置いていかれた子どものような顔をしていた。
それを見て、なんだか胸が締め付けられるような気がした。
岡崎が、驚いて、理解しようとして、でもどうしようもなく途方に暮れたように見えたからだ。
かわいそうに。
そう思った。
「大丈夫?」
声をかけると、岡崎はその寂しそうな表情を薄笑いで隠してしまった。
「全然平気。なんだろねーあのオッサンは」
そうか。
岡崎のこの顔。
この、ヘラヘラした顔は、知られたくない自分を隠すための分厚いベールだ。
あの男に言われるまで忘れていたけれど、随分しっかりしていて慰められてばかりだけど、この子はまだ、20歳だ。
そう思うと、肩の力が一気に抜けた。
「岡崎さん。ラーメン、食いに、行きませんか」
誘ってみると、岡崎は目をキラキラさせた。そして、んふふ、と笑った。
20歳。同じ頃の自分と比べる。いろんな人生があるんだな、と、なぜだか少し感傷的になった。
「相変わらず空いてんね」
醤油ラーメン2つと餃子を10個頼んでから、岡崎が言った。
テレビでは、今日は野球中継が流れている。
「さっきの人は、友達ですか」
「お父さん」
驚いて何も言えずにいると、岡崎は吹き出した。
「嘘。ごめん。ウケる、幸二さんがオヤジとか。友達友達」
餃子の焼けるいい匂いが漂ってくる。
「年離れてるから、頼ることもまあ、多かったけど」
岡崎はピアスをいじりながら言う。
「俺はわりと、対等なつもりでいたんだけど。さっきの言い方じゃ、俺が、誰かいないと何もできないみたいじゃねー」
岡崎がポツポツと話すのを、俺は黙って聞いていた。
「実際、そうだったのかなー」
どちらかのチームに点が入ったのか、テレビから歓声が漏れてきた。
岡崎のことがまた、わからなくなる。この人は玉ねぎみたいだ。剥いても剥いても、中から違う人格が出てくるよう。
今はあの男が言ったように、ずっと年下の子どものようだ。
「もう会えないとか、そんなわけじゃないんでしょう」
「わかんない」
「だって、仕事が、忙しいだけなら」
「あれは嘘だよ。嘘つきなんだー、あのオッサン」
あはは、と笑う岡崎は、今度は遊び慣れたチャラ男のようだ。いや、実際そうなのだろうか。本当に、よくわからない。
「とりあえず、しばらくは会わないことになるんだろーなー。ふーん。そうかー」
肘をついて、テレビを見ている。俺はその顔を盗み見た。
程なくして出てきたラーメンをすする。
「うまいね、やっぱ」
岡崎がモグモグと口を動かしながら言った。
「うん」
俺も答える。
「はー、やばい。今日のラーメン、ほんっと旨いんだけど」
なぜ?いつもと何が違う?
「森田さんが誘ってくれたんだし」
そう言うと、岡崎は綺麗な顔で笑った。
家まで送る車中、岡崎はずっと黙っていた。俺も何も言わずにいた。
家の前で車を停めると、岡崎は俺の方を見た。近くで目を見られて、俺は思わず逸らしてしまう。
「森田さん」
「はい」
「……俺、森田さんと遊ぶ、次の約束がほしいの」
次の、約束。
「そうしないと、なんか、明日から、仕事をがんばれない気がすんの」
今日の岡崎を思い返してみる。会った時は普通に見えたのに。それから何があった?
あの男の言葉を気にしているのだろうか。しばらくあの男に会えないということを。
仕事をがんばることができないほどのことだっだのか。
きっと寂しくなってしまったのだろう。かわいそうに。
「……俺、明後日、休みなんですけど」
「あさってかー、俺明日から6連勤なんだー」
「明日、岡崎さんの仕事が終わるの、待ってますから」
え、と言って岡崎は首を傾げた。
「車で、迎えに行きますから」
「え、俺を?」
頷くと、岡崎はたれ気味の目をまんまるくした。
「岡崎さんを」
「それでそれで?」
楽しげに笑う顔を見て、俺も少し嬉しくなる。
「深夜ドライブでも、しますか」
一呼吸置いてから、岡崎が抱きついてきた。「するー!」と言いながら。そしてすぐに離れて行く。
「ごめん」
一気にトーンダウンしたことにも反応できず、俺はただ固まっていた。人に触られた。冷や汗が出そうだ。でもまだ岡崎でよかった、大丈夫、岡崎は大丈夫、そう、大丈夫だった。
そうだ。この間は、この人が慰めてくれて、撫でてくれて、それで俺は一歩進むことができたのだから。過去から遠ざかり始めたのだから。この人の前では、俺は話したり笑ったり、少しずつだけれど、できるようになったのだから。
あれ以来、俺はあの夢を見ていない。
ゆっくり手を伸ばして、下を向いてしまった岡崎の頭に手を軽く置く。驚いてこちらを向いた岡崎の体を、同じように軽く抱きしめてみる。ひどく緊張した。
「大丈夫ですよ。岡崎さんは、がんばれますよ」
一体どうやって、人を慰めたらいいのか。
この間の岡崎は、いとも簡単に、それを俺にしてくれたのに。
「またすぐ、会えるように、なりますよ、きっと、あの人に」
いいんだ、もう、幸二さんのことは、と言う岡崎の声は少し掠れていて、そんなに寂しいのならあの男と次の約束をした方がよかったのではと心配になったが、余計なことかもしれないので黙っていた。
車を降りた岡崎は、ぶんぶんと手を振った。
俺の車が角を曲がって見えなくなるまで、手を振り続けていた。
*
幸二さんからはメールが来た。
森田さんとどうしても駄目だった時は連絡しろ、って。
本当はこんなメールもしない方がいいのに、やっぱりお前がかわいいし俺も悪役になりきれなかった、って。
俺は返事を返さなかった。返せなかった。セフレとはいえ付き合いも長いし、これは別れ話みたいなもので、もし冷静でいられなかったら、かっこ悪いから。
寂しいって、泣いてすがったりしたら、どうしようもないから。
俺が森田さんから逃げないように、幸二さんが、逃げ道をぶっちぎってしまった。
その途端あれだ。俺のハグと、森田さんのハグ。
意味がわからない。もう、なんにもわからない。パニックすぎる。
次の約束が、明日の約束で、ドライブで、明日とあさってがすぐ終わって、そしたらまた次の約束がほしくなっちゃうから、そしたら、その次は。
ぐるぐる考える。
森田さんがほしい。あの顔と体が全部ほしい。ハグは大丈夫なの?どこまでなら平気なの?
わかってる、俺のハグと森田さんのは全然意味が違う、だけど、だけど。
「やべーって」
涙は出なかったけど、うううと唸ってベッドでゴロゴロした。
気持ちが昂ぶってじっとしていられない。
幸二さんに会えないの、こんなに寂しく思うなんて思ってなかったけど、そのおかげで森田さんが多分優しさ発動してハグをくれて、ハグを、くれて。
ああ!
「いっぺんにいろいろ起きすぎなんだよバカヤロ」
そんな時にも電話は鳴る。
『お前最近何してんの、死んでんの?』
唐突に暴言を吐く双子の片割れ。
「死んでる」
『あそう。じゃあいいわ』
ブチっと電話が切れる直前、なっつくんが「あ、創樹くん待って」とか言うのが聞こえた。
相変わらずだ。ウケる。
少し落ち着いた。
すぐに知らない番号から電話が来て、それはなっつくんの携帯だった。
『あ、もしもし、なつめです』
「なっつくん元気?」
『元気だよ。正浩くんは?』
「多分元気ー」
『いきなりごめんね。今みんなで飲んでて、最近正浩くんに会ってないねって話しててね。みんなでまた飲みたいね。あ、僕は飲まない方がいいんだけど、ご飯とかね、行きたいね』
なっつくんは顔から仕草から話し方までが優しくて、思わず泣きつきたくなってしまう。
「創樹に、お前は幸せすぎるからコケろって伝えてー」
半笑いで言うと、なっつくんは、正浩くん、本当に遊ぼう、いつでも連絡してね、と言ってくれた。
「なっつくんまじでさー抱いてよ」
半分本気で言う。
『うるせえ殺すぞ』
「あーなんで創樹に代わるの」
『広樹もいるけど代わる?』
『代わるー!』
後ろで叫んだのは広樹の声だ。
「いらねーって伝えて」
『広樹はいらないから帰れだって』
『あぁん!ひどいぃ!あっくんぎゅってしてぇ!』
相変わらずすぎて若干引く。
「お前ら暇なの?」
なんで4人で遊んでんのに、俺に電話してんの。まったく、学生はのんきでいいよな。
『なつめがお前のこと心配してうっせーから』
「なっつくん俺にちょうだい」
『いいけどこいつ変態だからセックス大変だけど』
『創樹くんなんの話なの!』
バカ話をしてたら、落ち着いてきた。
「俺、明日ちょー大事な日だからもう寝る」
『おい、彰人、ちょっと、お前バカじゃねえの』
「創樹聞いてる?寝るから、俺」
『やめてよ!創ちゃんのあほ!』
「おいー俺放置されてんのー、もしもーし」
『正浩くん電話切っちゃうよ、ね、創樹くん、ね』
イケメンのあきくんだけ声が聞こえない。多分巻き込まれてしかめっ面してる。それか、酔って広樹にべたべたしてる。想像がついて楽しい。
「切るからねー」
相手は酔っ払いだ。諦めて電話を切る。
「なんだったんだ」
呟いて笑う。おかげでちゃんと眠れそうだけど。
森田さん。
森田さんが大丈夫だって言ってくれたから、俺は明日からまた、がんばれるよ。幸二さんがいなくたって、がんばってみせるよ。
全部、ひとつも、忘れたくない。森田さんの言葉と、顔。ハグと、声。
次の日、鬼のように急いで仕事を終わらせて外に出たら、少し離れたところに、森田さんの車が停まっていた。
森田さんは、車内灯をつけて雑誌を読んでいた。助手席の窓をコンコンと叩くと、森田さんが顔を上げた。
「おすー」
「お疲れ様です」
助手席に座ってドアを閉めながら、ああ、森田さんだ、と思う。
「何読んでたの?」
聞くと、表紙を見せてくれる。
「森田さん競馬やんの!」
それは競馬雑誌で、意外すぎてびっくりして聞いたら、森田さんは首を横に振った。
「……馬が」
「馬が?好きなの?」
「好きとかでは、ないけど」
「ないけど?」
「…たまたま…」
森田さん、困ってる。かわいい。なんか。
「本屋でたまたま、手にとって、馬は、綺麗でいいなと、思って」
「かわいいな」
もう。口に出ちゃったじゃん。
森田さんは馬のことだと思ったんだろう。特に聞き返すこともなく、雑誌に視線を落とした。
「そうだ!ね、競馬場行かね?」
「……いつ」
「今いま。夜ね、確か、曜日によるんだけど、練習してんだよ。走ってるの見られるかもよ、馬」
昔、誰かと行ったことがあった。高校の頃か?それとも誰か、その辺で知り合ったセフレだったかな。
森田さんは、眼鏡の奥のきれいな目を少しまぶしそうに細めた。
「……岡崎さん、どこか行きたい場所、なかったの?」
「ない。つか行きたい、競馬場」
森田さんと。
森田さんはひとつ頷いて、エンジンをかけた。
「だめかー!」
今日休みかよー!
競馬場は遠目で見ても真っ暗で、明らかに誰もいないもよう。
「せっかく楽しみにしたのにね!」
悔しくて言ったら、はは、と声が聞こえて、森田さんを見たら笑っていた。
森田さんが笑うの、奇跡みたいに見える。
「すげー悔しい」
「また、今度」
「今度、また来る?」
「うん」
なんだ。よかった。
「約束ね」
「じゃあ、それ、次の約束」
「ああ。……うん」
幸二さんのこと、気にしてくれてる。
森田さんは俺と幸二さんのこと、なんだと思っているんだろう。
「もう、必要なかったら、いいんですけど」
あ、森田病。
「ちょうだい。約束」
「……じゃあ、競馬場、次……やってる時に」
「ありがとう。森田さん」
また、明日からがんばれる。
「あ、月が」
「月?」
森田さんが指差したほうを見ると、激しく明るい月が浮かんでいる。
「おーすげー。つか、森田さん、すげー星がきれいだよ」
森田さんは車を停めた。
そのあたりは街灯が少なくて、暗いから星がよく見える。
2人して、前かがみになって、前の窓ガラスから窮屈な姿勢で空を見上げた。
「…本当ですね」
「星座とか、わかる人?」
「少しだけ……あれ、はくちょう座」
「どれ?」
「あの、明るいやつが、こう、並んでる」
森田さんは、指先でガラスをこつこつと指しながら説明してくれる。横顔を盗み見る。清潔なお顔。
「え?ちょっとよくわかんない。どれが?」
わからないふりをして、少し森田さんに寄る。だってもう、2人だし、周り誰もいないし、こないだのハグだって思い出すし。好きだし。どうしても好きだし。
そういえばこの辺、車のなかでヤってるカップルが多くて有名なんだったとか、そんなことも思い出す。
森田さんの身じろぎと、自分の息遣いしか、音がない。その2つが、やけにはっきり聞こえる。
「明るいやつがここに2つ並んでて、こことここと、十字になってて」
森田さんはわかりやすくしようとしてくれて、自分の手のひらに星の位置を指で図形のように描いた。
「わかんない。俺の手に、して」
手を差し出すと、森田さんは一瞬躊躇ってから、そっと、こわごわって感じで、俺の手に触れた。
「ここと…ここと」
森田さんの指が、俺の手のひらをつーっと優しくなぞる。
「ここが、3つで」
やべー。
つん。つん。と、触れる。
「あと、ここと、ここ」
これはもう。ちょっと。やばいから。
「これが、はくちょう座」
「へえ……」
ドキドキした。
体が熱くなって、恥ずかしくて口元を手で覆う。
はくちょう座の形を、一生忘れないと思った。
しばらく静かに星を見て、それから適当に車で走って、途中コンビニに寄ったり、24時間営業の古本屋に寄ったり、それからまたしばらく走ったりして、空が明るくなってきた頃に、俺は自宅に送り届けられた。
「森田さん、すげー楽しかったよ。ありがとうね」
言うと、森田さんは下を向いた。
「ほんとは、少し、誘ったの、後悔しました」
どういう意味?続きを待っていたら、森田さんがまた言う。
「あの男の人と会えなくて、寂しいのかと思って、岡崎さんの、喜ぶことができたら、いいなとか、思ったけど、自分にそれが、できるわけないとか、も、思ったし」
森田さん。
「ちょっと、図々しすぎたか、とか、思って」
森田さん。ああ。この人は。もう。
「あの、男の人、早く会えるように、なればいいですね」
まとめるように言って、森田さんは話を打ち切った。
森田さんは、自分には何もできないと思ってるんだ。それって、俺の気持ちとか、なんにも伝わってないってことだ。好きとかそういうのは置いといて、ただ、森田さんといて楽しいとか、そういう気持ちも全部、森田さんには伝わってないってことだ。
どうして?どうしてわからないの。こんなに、俺は、幸せなのに。
「森田さん。卑屈になるのも大概にしなよ」
だめだな。これは、傷つけるかも。だけど。
「自分の価値を自分で下げすぎるのは、森田さんをいいなと思ってる人に失礼なんだよ。わかる?森田さんを好きな、俺の人格を否定することになるんだよ。わかる?」
森田さんは、ひとつ息を飲んで、一瞬俺を見て、また下を向いた。
「幸二さんに会えなくても、もういい。俺には森田さんがいるし、今日だって、すげー楽しかったし、森田さん、俺、全然楽しそうに見えなかった?だとしたら、ほんと、森田さんって目見えてねーんじゃね」
言い過ぎ。言い過ぎ。俺。黙れ。もう。
森田さんは明らかに、心を閉ざした顔をしている。
あー。ああ。もう。
でも俺の言ったことは間違ってないと思う。今日のは森田さんが悪いでしょ。
でもな。このまま別れたら、また前みたいに嫌な顔されるようになるのかな。それは嫌だ。
ここは俺が大人になるべき?
5こも上の人に対して生意気なことを考えて、森田さんの方に体ごと向き直る。
「森田さん。言い過ぎた。ごめんね」
下を向いた顔を覗き込むと、森田さんは目を泳がせた。
頑固だろうな、森田さんって。そんなとこもかわいい、とかって。
「ねえ、仲直りしていい?」
森田さんは、もごもごと口を動かした。
「いえ…あの……すみません」
「ぜんぜんー。俺が言い過ぎたんだし」
「いや、そんなことは……」
「森田さん。ハグして。こないだみたいに」
手を広げて、半分ふざけたみたいにして森田さんに近づくと、森田さんは予想通りすごくためらってから、きゅっとしてくれた。背中をぽんぽんって2回たたいて、それで、離れて行った。
「ありがとう。ほんとに、楽しかったよ。俺。そこは、信じて」
「……はい」
森田さんはまだまだ自信がなさそうで、でも、最後には少しだけ笑ってくれた。
それだけでも楽しいんだよ。ほんとだよ。
家に入ってしばらくしたら、森田さんがメールをくれた。
『岡崎さんは、アメとムチの使い方が上手くて、もし宗教の教祖をやっていたら、俺はその宗教に嵌ってしまいそうな気がします。』
って書いてあって、よく意味が分からなかったけど、笑った。
よく意味が分からなかったけど、なんか、幸せで、ちょっと泣けた。
-end-
2013.12.23
森田さんの家に行ったあの日以降も、俺は相変わらずの毎日を送っている。
起きてまず携帯をチェックする。森田さんからメールとか来てないか。来てないんだけど。
ベッドでゴロゴロしながら森田さんのことを考えて、しょうがないなって思って支度をして家を出る。
歩きながらまた森田さんのことを考えて、たまに少しだけ仕事のことを考える。
店に着いたら、90%は仕事に追われながら、ふとした瞬間にまた、森田さんのことを思い出す。
それで、深夜仕事が終わって帰るとき、寂しくなって幸二さんに電話する。幸二さんと会うの、寂しくてやめらんなくて、だって、森田さんにはなかなか会えないし。
幸二さんに会って、メシ食って、たまに酒飲んで、ヤって、帰って寝る。
もう朝じゃん、やべー寝なきゃって倒れるようにしてベッドに転がって、そこでまた森田さんが登場する。
今日なにしてた?また、難しいこと考えてた?悩んでた?仕事?休み?本、何読んでる?
俺は今日も、森田さんのこと考えてるよ。ずっとずっと。
そんな、淡々とした普通の日々は、唐突に終わった。
*
仕事の帰りに古本屋に寄って、たまたま好きな作家の本を見つけた。
思ったより長居してしまって、店を出て車まで歩いているところで、携帯が鳴る。
仕事後に連絡をしてくる相手は1人しかいない。
『森田さん。なにしてますかー』
受信メールを表示させると、最後のハテナがプラプラと踊っていた。
『帰るところです。』
返事を返すと、すぐに電話がかかってきた。
『元気?』
「元気です、けど」
『実は今、森田さんの後ろにいるー』
驚いて振り向くと、本当に岡崎がいた。
「森田さん」
俺を呼んだ岡崎の隣には、40代くらいの男がいた。
「お疲れさまです」
とりあえず、俺は岡崎に応える。
「お疲れ。びっくりした、いきなりいるんだもん」
「よく、偶然、会いますね」
「運命の相手だからー?」
岡崎はニヤニヤして、俺は困惑する。
「……岡崎さんは、今日、休み?」
「休み。8連勤だったよーまじ死ぬわ」
「大変でしたね」
話していたら、隣の男が言った。
「正浩、俺にも紹介して」
一瞬、彼が何を言ったのかわからなかった。
それが岡崎の名前で、俺を自分に紹介しろという意味だとわかって岡崎を見ると、岡崎もぽかんとした顔をしていた。
「あー、そーねー……森田さん、これ、幸二さん。で、こっちが森田さん」
「どうも」
「こんばんは。な、正浩、ファミレス入らない?森田さんも。よかったら」
幸二というらしい男は、人好きのする笑顔を浮かべて言った。
岡崎は少し窮屈そうな顔をした。
「俺、邪魔なら、帰りますよ」
その男とは別に話すこともないし、帰りたくなって言うと、岡崎は焦ったように首を横に振った。
「森田さんも来て」
岡崎には恩がある。もう、俺はこの人を無下にできないし、この人が言うのなら、と、少し我慢してみることにした。
男に続いて歩き出した岡崎の背中を見る。友達にしては年が離れているように見える。店の人間だろうか。
窓際のテーブルを選び、男は奥に岡崎を座らせた。俺は2人の向かいに腰を下ろす。
岡崎への男の仕草は全体的になんとなく、甘やかしている女性に接する時のもののように感じられた。
男は、左手の薬指に、指輪をしていた。
「腹減ってます?」
聞かれたけれど、知らない人間への緊張でそれどころではなかったので、ウーロン茶だけ注文する。向かいの2人はコーヒーにしたようだ。
「最近こいつね、森田さんの話しかしないんですよ。職場で知り合った人ですげーいい人で、って」
いたたまれないと思った俺以上に、岡崎はいたたまれなそうな顔をしていた。
「幸二さんうっせ、黙れ」
「別にいいだろ、本当だし」
「うっさいわ、まじ。困るじゃん、そんなこと言われた方は」
岡崎は、俺の気持ちを思ってくれたらしい。チラチラと俺の方を見る。
「大丈夫」
俺が言うと、岡崎は「そう?」と言って笑顔を作った。
男が、その横顔を見ている。
*
幸二さんと軽く飲んで、ホテルに向かおうとしていたら、森田さんに会った。
嬉しくて幸二さんを忘れて森田さんと話をしちゃって、そしたら、幸二さんが森田さんを誘った。ファミレスとか、2人でだって行ったことねえし。なんなの、と思った。
幸二さんは、全然乗り気じゃない森田さんに、雑談みたいな話を振った。そこはさすが社長。如才ないって、こういうののことかな。
俺は特に口を挟むことなく、幸二さんの話を聞いていた。
話が途切れた一瞬、幸二さんが俺を見たのが分かった。
「森田さん。俺はね、これからちょっと仕事が忙しくなるんだ」
幸二さんが言う。
何それ。幸二さんが忙しいのなんかずっとじゃん。
「あんまり正浩の面倒見てやれなくなると思うんだ。だから、正浩のこと、よろしくお願いします」
「は?何それ。そんなこと森田さんに頼むなよ」
少しイラついて言うのに、幸二さんは俺を無視した。森田さんは幸二さんと俺を見比べている。
困ってんじゃん。
「こいつカッコつけだからあんまり人に弱み見せないけど、本当は甘ったれだし寂しがり屋だし、友達は多いけど頼れる人は少ないっていうか、まあ、まだハタチだし。ガキだから」
ねえ、幸二さん、何を言ってんの。
「ちょっと手かかるかもだけど、でも、かわいいやつですから」
唖然として話を聞いていた俺の耳に、森田さんの優しい声が届く。
「いい人なのは、知っています」
森田さんの口からそんな言葉が出てきてほんわりしていたら、幸二さんが隣で立ち上がる。
よかった、と言って森田さんに笑いかけて、な、と言って俺を見下ろした。
「幸二さん?」
幸二さんは俺の頭をポスっと叩いた。
「正浩、元気でやれよ」
そう言ってあまりにも自然な流れで席を離れて行ったから反応が遅れた。
え?
いま俺、幸二さんに捨てられた?
*
男は席を立って店を出て行った。
岡崎は、親に置いていかれた子どものような顔をしていた。
それを見て、なんだか胸が締め付けられるような気がした。
岡崎が、驚いて、理解しようとして、でもどうしようもなく途方に暮れたように見えたからだ。
かわいそうに。
そう思った。
「大丈夫?」
声をかけると、岡崎はその寂しそうな表情を薄笑いで隠してしまった。
「全然平気。なんだろねーあのオッサンは」
そうか。
岡崎のこの顔。
この、ヘラヘラした顔は、知られたくない自分を隠すための分厚いベールだ。
あの男に言われるまで忘れていたけれど、随分しっかりしていて慰められてばかりだけど、この子はまだ、20歳だ。
そう思うと、肩の力が一気に抜けた。
「岡崎さん。ラーメン、食いに、行きませんか」
誘ってみると、岡崎は目をキラキラさせた。そして、んふふ、と笑った。
20歳。同じ頃の自分と比べる。いろんな人生があるんだな、と、なぜだか少し感傷的になった。
「相変わらず空いてんね」
醤油ラーメン2つと餃子を10個頼んでから、岡崎が言った。
テレビでは、今日は野球中継が流れている。
「さっきの人は、友達ですか」
「お父さん」
驚いて何も言えずにいると、岡崎は吹き出した。
「嘘。ごめん。ウケる、幸二さんがオヤジとか。友達友達」
餃子の焼けるいい匂いが漂ってくる。
「年離れてるから、頼ることもまあ、多かったけど」
岡崎はピアスをいじりながら言う。
「俺はわりと、対等なつもりでいたんだけど。さっきの言い方じゃ、俺が、誰かいないと何もできないみたいじゃねー」
岡崎がポツポツと話すのを、俺は黙って聞いていた。
「実際、そうだったのかなー」
どちらかのチームに点が入ったのか、テレビから歓声が漏れてきた。
岡崎のことがまた、わからなくなる。この人は玉ねぎみたいだ。剥いても剥いても、中から違う人格が出てくるよう。
今はあの男が言ったように、ずっと年下の子どものようだ。
「もう会えないとか、そんなわけじゃないんでしょう」
「わかんない」
「だって、仕事が、忙しいだけなら」
「あれは嘘だよ。嘘つきなんだー、あのオッサン」
あはは、と笑う岡崎は、今度は遊び慣れたチャラ男のようだ。いや、実際そうなのだろうか。本当に、よくわからない。
「とりあえず、しばらくは会わないことになるんだろーなー。ふーん。そうかー」
肘をついて、テレビを見ている。俺はその顔を盗み見た。
程なくして出てきたラーメンをすする。
「うまいね、やっぱ」
岡崎がモグモグと口を動かしながら言った。
「うん」
俺も答える。
「はー、やばい。今日のラーメン、ほんっと旨いんだけど」
なぜ?いつもと何が違う?
「森田さんが誘ってくれたんだし」
そう言うと、岡崎は綺麗な顔で笑った。
家まで送る車中、岡崎はずっと黙っていた。俺も何も言わずにいた。
家の前で車を停めると、岡崎は俺の方を見た。近くで目を見られて、俺は思わず逸らしてしまう。
「森田さん」
「はい」
「……俺、森田さんと遊ぶ、次の約束がほしいの」
次の、約束。
「そうしないと、なんか、明日から、仕事をがんばれない気がすんの」
今日の岡崎を思い返してみる。会った時は普通に見えたのに。それから何があった?
あの男の言葉を気にしているのだろうか。しばらくあの男に会えないということを。
仕事をがんばることができないほどのことだっだのか。
きっと寂しくなってしまったのだろう。かわいそうに。
「……俺、明後日、休みなんですけど」
「あさってかー、俺明日から6連勤なんだー」
「明日、岡崎さんの仕事が終わるの、待ってますから」
え、と言って岡崎は首を傾げた。
「車で、迎えに行きますから」
「え、俺を?」
頷くと、岡崎はたれ気味の目をまんまるくした。
「岡崎さんを」
「それでそれで?」
楽しげに笑う顔を見て、俺も少し嬉しくなる。
「深夜ドライブでも、しますか」
一呼吸置いてから、岡崎が抱きついてきた。「するー!」と言いながら。そしてすぐに離れて行く。
「ごめん」
一気にトーンダウンしたことにも反応できず、俺はただ固まっていた。人に触られた。冷や汗が出そうだ。でもまだ岡崎でよかった、大丈夫、岡崎は大丈夫、そう、大丈夫だった。
そうだ。この間は、この人が慰めてくれて、撫でてくれて、それで俺は一歩進むことができたのだから。過去から遠ざかり始めたのだから。この人の前では、俺は話したり笑ったり、少しずつだけれど、できるようになったのだから。
あれ以来、俺はあの夢を見ていない。
ゆっくり手を伸ばして、下を向いてしまった岡崎の頭に手を軽く置く。驚いてこちらを向いた岡崎の体を、同じように軽く抱きしめてみる。ひどく緊張した。
「大丈夫ですよ。岡崎さんは、がんばれますよ」
一体どうやって、人を慰めたらいいのか。
この間の岡崎は、いとも簡単に、それを俺にしてくれたのに。
「またすぐ、会えるように、なりますよ、きっと、あの人に」
いいんだ、もう、幸二さんのことは、と言う岡崎の声は少し掠れていて、そんなに寂しいのならあの男と次の約束をした方がよかったのではと心配になったが、余計なことかもしれないので黙っていた。
車を降りた岡崎は、ぶんぶんと手を振った。
俺の車が角を曲がって見えなくなるまで、手を振り続けていた。
*
幸二さんからはメールが来た。
森田さんとどうしても駄目だった時は連絡しろ、って。
本当はこんなメールもしない方がいいのに、やっぱりお前がかわいいし俺も悪役になりきれなかった、って。
俺は返事を返さなかった。返せなかった。セフレとはいえ付き合いも長いし、これは別れ話みたいなもので、もし冷静でいられなかったら、かっこ悪いから。
寂しいって、泣いてすがったりしたら、どうしようもないから。
俺が森田さんから逃げないように、幸二さんが、逃げ道をぶっちぎってしまった。
その途端あれだ。俺のハグと、森田さんのハグ。
意味がわからない。もう、なんにもわからない。パニックすぎる。
次の約束が、明日の約束で、ドライブで、明日とあさってがすぐ終わって、そしたらまた次の約束がほしくなっちゃうから、そしたら、その次は。
ぐるぐる考える。
森田さんがほしい。あの顔と体が全部ほしい。ハグは大丈夫なの?どこまでなら平気なの?
わかってる、俺のハグと森田さんのは全然意味が違う、だけど、だけど。
「やべーって」
涙は出なかったけど、うううと唸ってベッドでゴロゴロした。
気持ちが昂ぶってじっとしていられない。
幸二さんに会えないの、こんなに寂しく思うなんて思ってなかったけど、そのおかげで森田さんが多分優しさ発動してハグをくれて、ハグを、くれて。
ああ!
「いっぺんにいろいろ起きすぎなんだよバカヤロ」
そんな時にも電話は鳴る。
『お前最近何してんの、死んでんの?』
唐突に暴言を吐く双子の片割れ。
「死んでる」
『あそう。じゃあいいわ』
ブチっと電話が切れる直前、なっつくんが「あ、創樹くん待って」とか言うのが聞こえた。
相変わらずだ。ウケる。
少し落ち着いた。
すぐに知らない番号から電話が来て、それはなっつくんの携帯だった。
『あ、もしもし、なつめです』
「なっつくん元気?」
『元気だよ。正浩くんは?』
「多分元気ー」
『いきなりごめんね。今みんなで飲んでて、最近正浩くんに会ってないねって話しててね。みんなでまた飲みたいね。あ、僕は飲まない方がいいんだけど、ご飯とかね、行きたいね』
なっつくんは顔から仕草から話し方までが優しくて、思わず泣きつきたくなってしまう。
「創樹に、お前は幸せすぎるからコケろって伝えてー」
半笑いで言うと、なっつくんは、正浩くん、本当に遊ぼう、いつでも連絡してね、と言ってくれた。
「なっつくんまじでさー抱いてよ」
半分本気で言う。
『うるせえ殺すぞ』
「あーなんで創樹に代わるの」
『広樹もいるけど代わる?』
『代わるー!』
後ろで叫んだのは広樹の声だ。
「いらねーって伝えて」
『広樹はいらないから帰れだって』
『あぁん!ひどいぃ!あっくんぎゅってしてぇ!』
相変わらずすぎて若干引く。
「お前ら暇なの?」
なんで4人で遊んでんのに、俺に電話してんの。まったく、学生はのんきでいいよな。
『なつめがお前のこと心配してうっせーから』
「なっつくん俺にちょうだい」
『いいけどこいつ変態だからセックス大変だけど』
『創樹くんなんの話なの!』
バカ話をしてたら、落ち着いてきた。
「俺、明日ちょー大事な日だからもう寝る」
『おい、彰人、ちょっと、お前バカじゃねえの』
「創樹聞いてる?寝るから、俺」
『やめてよ!創ちゃんのあほ!』
「おいー俺放置されてんのー、もしもーし」
『正浩くん電話切っちゃうよ、ね、創樹くん、ね』
イケメンのあきくんだけ声が聞こえない。多分巻き込まれてしかめっ面してる。それか、酔って広樹にべたべたしてる。想像がついて楽しい。
「切るからねー」
相手は酔っ払いだ。諦めて電話を切る。
「なんだったんだ」
呟いて笑う。おかげでちゃんと眠れそうだけど。
森田さん。
森田さんが大丈夫だって言ってくれたから、俺は明日からまた、がんばれるよ。幸二さんがいなくたって、がんばってみせるよ。
全部、ひとつも、忘れたくない。森田さんの言葉と、顔。ハグと、声。
次の日、鬼のように急いで仕事を終わらせて外に出たら、少し離れたところに、森田さんの車が停まっていた。
森田さんは、車内灯をつけて雑誌を読んでいた。助手席の窓をコンコンと叩くと、森田さんが顔を上げた。
「おすー」
「お疲れ様です」
助手席に座ってドアを閉めながら、ああ、森田さんだ、と思う。
「何読んでたの?」
聞くと、表紙を見せてくれる。
「森田さん競馬やんの!」
それは競馬雑誌で、意外すぎてびっくりして聞いたら、森田さんは首を横に振った。
「……馬が」
「馬が?好きなの?」
「好きとかでは、ないけど」
「ないけど?」
「…たまたま…」
森田さん、困ってる。かわいい。なんか。
「本屋でたまたま、手にとって、馬は、綺麗でいいなと、思って」
「かわいいな」
もう。口に出ちゃったじゃん。
森田さんは馬のことだと思ったんだろう。特に聞き返すこともなく、雑誌に視線を落とした。
「そうだ!ね、競馬場行かね?」
「……いつ」
「今いま。夜ね、確か、曜日によるんだけど、練習してんだよ。走ってるの見られるかもよ、馬」
昔、誰かと行ったことがあった。高校の頃か?それとも誰か、その辺で知り合ったセフレだったかな。
森田さんは、眼鏡の奥のきれいな目を少しまぶしそうに細めた。
「……岡崎さん、どこか行きたい場所、なかったの?」
「ない。つか行きたい、競馬場」
森田さんと。
森田さんはひとつ頷いて、エンジンをかけた。
「だめかー!」
今日休みかよー!
競馬場は遠目で見ても真っ暗で、明らかに誰もいないもよう。
「せっかく楽しみにしたのにね!」
悔しくて言ったら、はは、と声が聞こえて、森田さんを見たら笑っていた。
森田さんが笑うの、奇跡みたいに見える。
「すげー悔しい」
「また、今度」
「今度、また来る?」
「うん」
なんだ。よかった。
「約束ね」
「じゃあ、それ、次の約束」
「ああ。……うん」
幸二さんのこと、気にしてくれてる。
森田さんは俺と幸二さんのこと、なんだと思っているんだろう。
「もう、必要なかったら、いいんですけど」
あ、森田病。
「ちょうだい。約束」
「……じゃあ、競馬場、次……やってる時に」
「ありがとう。森田さん」
また、明日からがんばれる。
「あ、月が」
「月?」
森田さんが指差したほうを見ると、激しく明るい月が浮かんでいる。
「おーすげー。つか、森田さん、すげー星がきれいだよ」
森田さんは車を停めた。
そのあたりは街灯が少なくて、暗いから星がよく見える。
2人して、前かがみになって、前の窓ガラスから窮屈な姿勢で空を見上げた。
「…本当ですね」
「星座とか、わかる人?」
「少しだけ……あれ、はくちょう座」
「どれ?」
「あの、明るいやつが、こう、並んでる」
森田さんは、指先でガラスをこつこつと指しながら説明してくれる。横顔を盗み見る。清潔なお顔。
「え?ちょっとよくわかんない。どれが?」
わからないふりをして、少し森田さんに寄る。だってもう、2人だし、周り誰もいないし、こないだのハグだって思い出すし。好きだし。どうしても好きだし。
そういえばこの辺、車のなかでヤってるカップルが多くて有名なんだったとか、そんなことも思い出す。
森田さんの身じろぎと、自分の息遣いしか、音がない。その2つが、やけにはっきり聞こえる。
「明るいやつがここに2つ並んでて、こことここと、十字になってて」
森田さんはわかりやすくしようとしてくれて、自分の手のひらに星の位置を指で図形のように描いた。
「わかんない。俺の手に、して」
手を差し出すと、森田さんは一瞬躊躇ってから、そっと、こわごわって感じで、俺の手に触れた。
「ここと…ここと」
森田さんの指が、俺の手のひらをつーっと優しくなぞる。
「ここが、3つで」
やべー。
つん。つん。と、触れる。
「あと、ここと、ここ」
これはもう。ちょっと。やばいから。
「これが、はくちょう座」
「へえ……」
ドキドキした。
体が熱くなって、恥ずかしくて口元を手で覆う。
はくちょう座の形を、一生忘れないと思った。
しばらく静かに星を見て、それから適当に車で走って、途中コンビニに寄ったり、24時間営業の古本屋に寄ったり、それからまたしばらく走ったりして、空が明るくなってきた頃に、俺は自宅に送り届けられた。
「森田さん、すげー楽しかったよ。ありがとうね」
言うと、森田さんは下を向いた。
「ほんとは、少し、誘ったの、後悔しました」
どういう意味?続きを待っていたら、森田さんがまた言う。
「あの男の人と会えなくて、寂しいのかと思って、岡崎さんの、喜ぶことができたら、いいなとか、思ったけど、自分にそれが、できるわけないとか、も、思ったし」
森田さん。
「ちょっと、図々しすぎたか、とか、思って」
森田さん。ああ。この人は。もう。
「あの、男の人、早く会えるように、なればいいですね」
まとめるように言って、森田さんは話を打ち切った。
森田さんは、自分には何もできないと思ってるんだ。それって、俺の気持ちとか、なんにも伝わってないってことだ。好きとかそういうのは置いといて、ただ、森田さんといて楽しいとか、そういう気持ちも全部、森田さんには伝わってないってことだ。
どうして?どうしてわからないの。こんなに、俺は、幸せなのに。
「森田さん。卑屈になるのも大概にしなよ」
だめだな。これは、傷つけるかも。だけど。
「自分の価値を自分で下げすぎるのは、森田さんをいいなと思ってる人に失礼なんだよ。わかる?森田さんを好きな、俺の人格を否定することになるんだよ。わかる?」
森田さんは、ひとつ息を飲んで、一瞬俺を見て、また下を向いた。
「幸二さんに会えなくても、もういい。俺には森田さんがいるし、今日だって、すげー楽しかったし、森田さん、俺、全然楽しそうに見えなかった?だとしたら、ほんと、森田さんって目見えてねーんじゃね」
言い過ぎ。言い過ぎ。俺。黙れ。もう。
森田さんは明らかに、心を閉ざした顔をしている。
あー。ああ。もう。
でも俺の言ったことは間違ってないと思う。今日のは森田さんが悪いでしょ。
でもな。このまま別れたら、また前みたいに嫌な顔されるようになるのかな。それは嫌だ。
ここは俺が大人になるべき?
5こも上の人に対して生意気なことを考えて、森田さんの方に体ごと向き直る。
「森田さん。言い過ぎた。ごめんね」
下を向いた顔を覗き込むと、森田さんは目を泳がせた。
頑固だろうな、森田さんって。そんなとこもかわいい、とかって。
「ねえ、仲直りしていい?」
森田さんは、もごもごと口を動かした。
「いえ…あの……すみません」
「ぜんぜんー。俺が言い過ぎたんだし」
「いや、そんなことは……」
「森田さん。ハグして。こないだみたいに」
手を広げて、半分ふざけたみたいにして森田さんに近づくと、森田さんは予想通りすごくためらってから、きゅっとしてくれた。背中をぽんぽんって2回たたいて、それで、離れて行った。
「ありがとう。ほんとに、楽しかったよ。俺。そこは、信じて」
「……はい」
森田さんはまだまだ自信がなさそうで、でも、最後には少しだけ笑ってくれた。
それだけでも楽しいんだよ。ほんとだよ。
家に入ってしばらくしたら、森田さんがメールをくれた。
『岡崎さんは、アメとムチの使い方が上手くて、もし宗教の教祖をやっていたら、俺はその宗教に嵌ってしまいそうな気がします。』
って書いてあって、よく意味が分からなかったけど、笑った。
よく意味が分からなかったけど、なんか、幸せで、ちょっと泣けた。
-end-
2013.12.23