大きな声では言わないけど
番外 森田と岡崎7
森田さんが、結婚をしていて。
奥さんが、いた。ってこと。
森田さんに触ることのできた女がいた。いたことがある。ってこと。
森田さん。
どんなだった?幸せだった?好きだった?奥さんのこと。
どんな顔をして、奥さんを見てたの。
森田さん。
どうして、俺に、話してくれたの。
きっと森田さんにとって、とても、辛い記憶。
俺は、全神経を集中させて、森田さんの悲しくて寂しい話を聞いていた。
*
あらかた話し終えて、そこで初めて俺は、岡崎が俺の体に触れていることに気付いた。
指輪を嵌めた手が、俺の頭や肩をそっと撫でる。慰めるようにして。
どうして、こんな話を。
岡崎に。
「逃がしてあげなきゃだめだよ、森田さん」
逃がす?
顔を上げて岡崎の顔を見た。膝に置いた俺の手を、岡崎は撫でながら、ゆっくりと言う。
「その時の森田さんと、元の……奥さんのこと。森田さんの中から、逃がしてあげて。許してあげてよ」
逃がす。許す。
あの時の、俺と、彼女を。
「そうしなきゃ、森田さんはずっと、今もずっと、そこから全然動けないままじゃん」
岡崎は俺の腕をさすりながら言う。その話し方は静かで、いつか一緒に図書館で本を選んだ時のことを思い出した。
「もういいんだよ。森田さん。苦しまなくていいよ。反省も後悔もたくさんしたでしょ。もう十分だって」
まだ岡崎をよく知らなかった頃、嫌いだと思っていたその声が、今は少し掠れて優しく響く。
「俺は、悪かったと思って……」
「うん。でもね、その人は今、幸せにしてるかもしれないよ。森田さんも幸せになって、それで、別々だけどお互いに幸せになれてよかったって、そっちの方がその人もうれしいんじゃねーの」
最後に手の甲をぽんぽんと軽くたたいて、岡崎の手が離れていく。
「ほんとに、大事にしてたんだ。その人のこと。ね、森田さん」
そうだ。大事だった。これ以上ないほどに、大事に思っていた。
「でも伝わらないことってあるよね。好きでも、うまくいかないことってあるよね」
岡崎は下を向いた。それから、俺もそういうのあるよ、と言った。
守りたいと思ったのに、全然守ってやれなかった。ずっと隣にいたのに、傷つけて、1人にしてしまった。
でも。
「俺には、自分の何が悪かったのか、今でもまだわからない。何千回も何万回も考えたけど、何をどうしたらよかったのか、わからなくて」
岡崎が差し出した手を、握手をするように思わず握った。しっかりと、男の手だ。
どうして、俺は、岡崎に触ることができる?
「森田さん、それはきっと相性の問題だよ。不可抗力、っていうんだっけ。森田さんもその人も悪くなかったんだよ」
そうだろうか。本当にそうだろうか。
「俺には……そうは、思えない、けど」
「絶対そうだよ。俺は森田さんがどんだけ優しくて繊細な人か、こんな付き合い短いのに知ってんだから。多分森田さんだって同じくらい傷ついたって。違う?辛かったでしょ?誰も近寄るなって警戒してたった1人で歩いてきたんでしょ?それで十分、あいこじゃねーか」
でも、と言いかけて黙ると、岡崎は、うん、と言った。それに勇気づけられて、俺は口を開く。
「また、誰か、傷つけるかもしれないと、思って」
「怖い?」
「……怖い」
「怖いの。森田さん」
「……俺は普通にしてただけなのに、相手が、傷ついたから」
「いろいろ悪い条件が重なっただけだよ。森田さんのせいじゃないよ」
岡崎の声が、どんどん浸み込んでくる気がした。
「森田さんは優しいから。傷つきすぎてカッチコチに固まっちゃって、人の入り込むすきまがなくなっちゃってる。もっと人と話したり、した方がいいって。俺とは話してくれるようになったじゃん。今度俺の友達も交ぜて飯行こ?森田さんを悪く言う奴なんか、俺の友達にはいないし、つか俺が言わせねーし、俺は少なくとも、森田さんに癒されるし、大事な友達、だと、思ってる」
返事はできなかった。代わりに2、3度頷いて顔を上げる。
体から力が抜けていく。
しばらくそのまま綺麗な顔と向き合っていた。
「森田さん、俺の目、見るよーになったね」
岡崎が小さな声で言って、笑った。
本当に。どうしてか。自分でもよくわからない。でも、岡崎は、嫌じゃない。嫌じゃなくなった。
「岡崎さんは……」
「うん?」
「岡崎さんは、人の話を、聞き慣れてる」
「バイトでみんなのガス抜きみたいのやって覚えたんだよね。いちいちめんどくせえって思ってたけど、今日初めて、そういう役回りやっててよかったって思ったよ」
「店長さんは、人を見る目があるんだ。岡崎さんのそういうところ、見抜いて、頼んだんだ」
まっすぐに目を見ると、岡崎は照れたように笑った。そんなことねーと思うけど、と言って笑った。
この話を人にするなんて、万に一つもないと思っていた。
「変な話、聞いてもらって。すみません」
「いいよ。全然」
深呼吸をひとつすると、気分を変えたくなって、今度は岡崎に質問する。
「岡崎さんは、今つきあってる人、いないんですか」
「うん。いない」
「岡崎さんは、きっと女の人に好かれますね」
岡崎は、視線を落としてへらりと笑い、首を傾げた。
「好きな女の人に、そんなふうに、優しくできるなら、振られることなんかないですね」
同じ男として、見上げなければてっぺんが見えないくらいの羨望を感じて言ったのに、岡崎は頬をぷくぷくと変な感じに膨らませた。
改めて思う。そんな顔をしても、岡崎の顔は綺麗だった。
「俺が女だったら、森田さんがいいよ」
岡崎はすっと視線を俺に戻した。少し戸惑うほど真剣な目だった。
何と返事をしていいか考えていたら変な間が空いた。
「森田さんも、人の輪広げたら出会うかもよ。ね。森田さんに、合う、女の、子に」
途切れ途切れになった声。その顔が痛そうに歪んで驚いた。
「岡崎さん」
顔を覗き込むと、岡崎は俺を見ずに、はは、と笑った。
ピアスが揺れている。
岡崎は小さな声で言った。
「心臓が、痛いんだけど」
*
俺は、そばで支える人にはやっぱりなれない。
触りたいし、触ってほしいし、キスがしたいし、愛してほしい。
あのにごりのない目で、俺だけを見てほしい。
好きな人のそばにいたら、俺はそれを諦められない。
今日、そう思った。
気が合う女と出会うかもって言っただけで、苦しくて我慢できなくて、弱音を吐いた。
これから先、森田さんに好きな女ができたとして、その相談になんか絶対に乗れない。
そんな覚悟もないのに、友達になってほしいなんて言ってしまった。
体調が悪いのかと心配してくれる森田さんを振り切って、また来るねと言って家を出た。うまく笑えたかわからない。
歩き出したところで携帯が鳴る。電話をくれたのは。
「もしもーし」
『正浩?お前今何してんの』
「幸二さん、会える?」
ずっと1人で耐えてきた森田さんを想う。
1人で寂しさを埋められない俺は、本当にどうしようもない。
「幸二さん。痛いことしてみて」
上に乗って俺の背中を撫でていた幸二さんの手が止まる。
「お前、痛いのダメじゃん」
「いいからー。してよ」
「泣くなよ?」
「泣かねえし。でもあんまり痛いのは嫌だけど」
なんだそれ、と言って笑う幸二さんの顔がエロい。
「森田さんとなんかあったの」
「うるせー」
「……俺が抱いて大丈夫なのか」
だって、そうじゃなきゃ、誰が俺に触ってくれる?誰が好きだと言ってくれる?
考えると視界が滲みそうだったので、奥歯を噛み締める。
「あら。萎えたの、お前。まだ痛いことしてないぞ」
「あれ。ごめん。失礼」
「かわいいやつだなほんとに」
幸二さんがぎゅうと抱き締めてくれる。
「森田さんは俺に、笑ったり、話したり、してくれるようになったんだよ」
「そう」
「仲良くなってきたんだよ」
「よかったな」
「これ以上望んだら苦しくなるばっかりだって、わかってるのになー」
もっと、もっとって、俺の欲は際限なく増えていくばかりだ。
「もう付き合いきれない。自分に。森田さんを好きになってから、変なことばっかりしてる」
結局どうなりたかったのか、メールに返信をもらって有頂天だったころの自分に聞きたい。
こうなることは想像できたはずだ。
何だったの、あの異様なテンションの高さは。
幸二さんは俺の横に肘をついて横になった。
「でもなあ、森田さんが出てきてからのお前は、なんかいいと思うよ」
「どういう意味?」
「がんばってるし。あつい」
「暑い?」
幸二さんは、こっちのな、と言って俺の手のひらに指で漢字を書いた。
「厚い?」
「そう。厚くなったよ、人間として」
「へー」
「出会ったころはペラッペラだったもんな」
「ひでえ」
森田さんはいい人なんだろうなってお前見てて思うよ、と幸二さんは言った。
いい人。
本当は、そんな言葉じゃ全然足りないような人だ。
森田さんが、結婚していたなんて。嘘みたい。だけど、すごく自然なことだ。元の奥さんは、人を見る目があったんだろう。
あんなに森田さんに愛されて、幸せな人。
それだけでは飽き足らず、あんなに苦しめて。今もあんなにがっつり残って。
羨ましい。
妬ましい。
ヤキモチは不思議だ。別に森田さんは俺のものでもなんでもないのに、どうして独占欲なんか。それでも、もくもくもやもやと、黒い雲のように暗いものが俺の心を支配していく。
もういいじゃん。結婚して森田さんをたくさん独占したんでしょ。もう満足だろ。そろそろ許してやってよ。森田さんから出て行けよ。
あんなに純粋で優しい森田さんを、どんだけ傷つけたんだよ。
何が不満だったんだよ、許さねーからな。
見知らぬその人に畳み掛ける。
森田さんのあの後悔を、世界中で俺だけが癒せるんだったらいいのに。
*
彼女に、俺の何が悪かったのかを聞くことは、一生ないだろう。
1人で背負って死んでいくものだと思っていた過去を、岡崎はもう苦しまなくていいんだと言って、撫でて、さすってくれた。
他人に癒されるとは思っていなかった。
癒されてしまっていいものか、今の俺にはまだ判断がつかない。
でもなぜか、視界がクリアになったような気がした。
人を全力で拒絶していた俺に、どうして岡崎はするりと入ってこられたのだろう。
奇特な人だ。本当に。
心臓が痛いと言った岡崎は、そそくさと帰り支度をして出て行った。
俺のことを、面倒なやつだと思ったかもしれない。
でも岡崎は本当に苦しそうで、倒れてしまいそうに見えた。
体調が悪いのではないし平気、と言っていた。
電話をしようか、と思う。
俺が電話をしたところでなんということもない。
かえって迷惑かもしれない。それでも。
たまに見る夢のことを思い出す。行くなと叫ぶ夢。現実では、叫ぶどころか、小声にもならなかった。
深呼吸をしながら、携帯を手に取った。
*
「嘘だろ」
森田さんから電話だ。携帯を落としそうになりながら通話ボタンを押す。
幸二さんは全てを察して、シャワーを浴びに行った。
「もしもーし!森田さん?」
『……岡崎さん』
「ど、どうしたの」
『……体調、治りましたか』
ああ。こんなことが前にもあった。
あの時は俺が変な時間に電話したせいで森田さんは不機嫌で、それでも律儀に、具合が悪いのかと思ってと言って折り返してくれたんだった。
森田さんは優しい。俺のこんな身勝手な気持ちも知らないで、ただまっすぐに、優しい。
生まれつき優しいだけ。
それだけだ。
「治った。今治った」
『今?……ずっと、痛かった?』
「……痛かった」
そう。今また痛くなってきたよ。
森田さんの声。電話で聞くと、直接聞くよりもっと落ち着いて聞こえる。きっと電話が好きではないからだ。
それなのに、電話をくれたりして。まったく。まったくもう。いい加減にしてよね。ほんと、痛い。
『……もう、家?』
「いや、まだ、外、かな、これは」
少し動揺する。
森田さんは、そうですか、と言った。
俺が今男と寝ようとしてたとこだって知ったら、森田さんは何て言うかな。びっくりして電話切っちゃうかもしれない。でも大丈夫、森田さんのせいで勃たなくてできなかったから。って、言ってやりたい。
そんな俺のぐちゃぐちゃを知らずに、森田さんは静かに言う。
『今日、変な話をしたから…疲れさせたのかも……すみません。俺、あんまり……話をし慣れてなくて……でも、話せてよかったって思って……岡崎さんに聞いてもらって、よかったです………ありがとう』
耳から、じんわりと温められているような気持ち。
森田さん、俺に敬語を使わなくなってきた。混じった感じがくすぐったくて、ドキドキする。
「いいよ。俺でいいなら、毎日でも聞くよ」
毎日毎日。それで森田さんの隣にいられるなら。
ああ。なんだこの、俺じゃないみたいな気持ち悪い生き物は。
こんな健気な俺なんか知らねーよ。今すぐに舌打ちがしたい。
『今度、お詫びに』
「いいって、おわびとか。森田さん律儀だねー。友達なんだから当たり前」
友達、なんだから。
『じゃあ……お詫びじゃなくて……』
「ん」
『また……メシ、行きましょう』
「ほんと?絶対ねー」
『……本も、貸さないと、だし』
「うん……うん、そうしよ。また遊ぼうね」
ありがとうと言い合って、電話を切ろうとした。
『岡崎さん』
「はいよ」
『仕事……無理、しないで、あんまり……体調とか、気を付けて』
うん、という返事が掠れた。優しい。優しい優しい。
優しいついでに、俺と付き合って。
だめかな、やっぱり。男じゃね。
俺、なんで男に生まれたんだろう。別に今まで不自由だと思ったことはなかった。でも、俺の好きな人に好かれるには、俺が男じゃダメじゃねーか。
なにこれ。笑える。
こんなに好きなのに、ってのは全然武器にならねーな。だったらこんなに深い想いなんか、知らない方がよかったよ。
少し前から比べたら今なんか夢みたいなのにと思ったら、なんだかすごく空しくなった。
それがホテルの部屋だから、もっともっと空しくなった。
俺は何をしているんだ。
俺は、何をしているんだろう。
風呂から戻った幸二さんに謝ってから、俺はホテルを出た。
星が出ていた。
森田さん。
もう寝た?
その夜、夢を見た。
森田さんと2人で、虹を見る夢だ。
俺も森田さんもなぜか部屋着みたいなスウェットで外にいて、街中なのに他に誰もいなくて、ビルの屋上に公園があって。
その高いところにある不思議な公園から、遠くの空いっぱいにかかる、大きな大きな虹を見る夢だった。
森田さんも俺も、全然しゃべらなかった。ただ、すぐそばに森田さんがいて、虹がきれいだと、そういう気持ちがつながっている気がして、死ぬほど幸せな夢だった。
-end-
2013.12.10
森田さんが、結婚をしていて。
奥さんが、いた。ってこと。
森田さんに触ることのできた女がいた。いたことがある。ってこと。
森田さん。
どんなだった?幸せだった?好きだった?奥さんのこと。
どんな顔をして、奥さんを見てたの。
森田さん。
どうして、俺に、話してくれたの。
きっと森田さんにとって、とても、辛い記憶。
俺は、全神経を集中させて、森田さんの悲しくて寂しい話を聞いていた。
*
あらかた話し終えて、そこで初めて俺は、岡崎が俺の体に触れていることに気付いた。
指輪を嵌めた手が、俺の頭や肩をそっと撫でる。慰めるようにして。
どうして、こんな話を。
岡崎に。
「逃がしてあげなきゃだめだよ、森田さん」
逃がす?
顔を上げて岡崎の顔を見た。膝に置いた俺の手を、岡崎は撫でながら、ゆっくりと言う。
「その時の森田さんと、元の……奥さんのこと。森田さんの中から、逃がしてあげて。許してあげてよ」
逃がす。許す。
あの時の、俺と、彼女を。
「そうしなきゃ、森田さんはずっと、今もずっと、そこから全然動けないままじゃん」
岡崎は俺の腕をさすりながら言う。その話し方は静かで、いつか一緒に図書館で本を選んだ時のことを思い出した。
「もういいんだよ。森田さん。苦しまなくていいよ。反省も後悔もたくさんしたでしょ。もう十分だって」
まだ岡崎をよく知らなかった頃、嫌いだと思っていたその声が、今は少し掠れて優しく響く。
「俺は、悪かったと思って……」
「うん。でもね、その人は今、幸せにしてるかもしれないよ。森田さんも幸せになって、それで、別々だけどお互いに幸せになれてよかったって、そっちの方がその人もうれしいんじゃねーの」
最後に手の甲をぽんぽんと軽くたたいて、岡崎の手が離れていく。
「ほんとに、大事にしてたんだ。その人のこと。ね、森田さん」
そうだ。大事だった。これ以上ないほどに、大事に思っていた。
「でも伝わらないことってあるよね。好きでも、うまくいかないことってあるよね」
岡崎は下を向いた。それから、俺もそういうのあるよ、と言った。
守りたいと思ったのに、全然守ってやれなかった。ずっと隣にいたのに、傷つけて、1人にしてしまった。
でも。
「俺には、自分の何が悪かったのか、今でもまだわからない。何千回も何万回も考えたけど、何をどうしたらよかったのか、わからなくて」
岡崎が差し出した手を、握手をするように思わず握った。しっかりと、男の手だ。
どうして、俺は、岡崎に触ることができる?
「森田さん、それはきっと相性の問題だよ。不可抗力、っていうんだっけ。森田さんもその人も悪くなかったんだよ」
そうだろうか。本当にそうだろうか。
「俺には……そうは、思えない、けど」
「絶対そうだよ。俺は森田さんがどんだけ優しくて繊細な人か、こんな付き合い短いのに知ってんだから。多分森田さんだって同じくらい傷ついたって。違う?辛かったでしょ?誰も近寄るなって警戒してたった1人で歩いてきたんでしょ?それで十分、あいこじゃねーか」
でも、と言いかけて黙ると、岡崎は、うん、と言った。それに勇気づけられて、俺は口を開く。
「また、誰か、傷つけるかもしれないと、思って」
「怖い?」
「……怖い」
「怖いの。森田さん」
「……俺は普通にしてただけなのに、相手が、傷ついたから」
「いろいろ悪い条件が重なっただけだよ。森田さんのせいじゃないよ」
岡崎の声が、どんどん浸み込んでくる気がした。
「森田さんは優しいから。傷つきすぎてカッチコチに固まっちゃって、人の入り込むすきまがなくなっちゃってる。もっと人と話したり、した方がいいって。俺とは話してくれるようになったじゃん。今度俺の友達も交ぜて飯行こ?森田さんを悪く言う奴なんか、俺の友達にはいないし、つか俺が言わせねーし、俺は少なくとも、森田さんに癒されるし、大事な友達、だと、思ってる」
返事はできなかった。代わりに2、3度頷いて顔を上げる。
体から力が抜けていく。
しばらくそのまま綺麗な顔と向き合っていた。
「森田さん、俺の目、見るよーになったね」
岡崎が小さな声で言って、笑った。
本当に。どうしてか。自分でもよくわからない。でも、岡崎は、嫌じゃない。嫌じゃなくなった。
「岡崎さんは……」
「うん?」
「岡崎さんは、人の話を、聞き慣れてる」
「バイトでみんなのガス抜きみたいのやって覚えたんだよね。いちいちめんどくせえって思ってたけど、今日初めて、そういう役回りやっててよかったって思ったよ」
「店長さんは、人を見る目があるんだ。岡崎さんのそういうところ、見抜いて、頼んだんだ」
まっすぐに目を見ると、岡崎は照れたように笑った。そんなことねーと思うけど、と言って笑った。
この話を人にするなんて、万に一つもないと思っていた。
「変な話、聞いてもらって。すみません」
「いいよ。全然」
深呼吸をひとつすると、気分を変えたくなって、今度は岡崎に質問する。
「岡崎さんは、今つきあってる人、いないんですか」
「うん。いない」
「岡崎さんは、きっと女の人に好かれますね」
岡崎は、視線を落としてへらりと笑い、首を傾げた。
「好きな女の人に、そんなふうに、優しくできるなら、振られることなんかないですね」
同じ男として、見上げなければてっぺんが見えないくらいの羨望を感じて言ったのに、岡崎は頬をぷくぷくと変な感じに膨らませた。
改めて思う。そんな顔をしても、岡崎の顔は綺麗だった。
「俺が女だったら、森田さんがいいよ」
岡崎はすっと視線を俺に戻した。少し戸惑うほど真剣な目だった。
何と返事をしていいか考えていたら変な間が空いた。
「森田さんも、人の輪広げたら出会うかもよ。ね。森田さんに、合う、女の、子に」
途切れ途切れになった声。その顔が痛そうに歪んで驚いた。
「岡崎さん」
顔を覗き込むと、岡崎は俺を見ずに、はは、と笑った。
ピアスが揺れている。
岡崎は小さな声で言った。
「心臓が、痛いんだけど」
*
俺は、そばで支える人にはやっぱりなれない。
触りたいし、触ってほしいし、キスがしたいし、愛してほしい。
あのにごりのない目で、俺だけを見てほしい。
好きな人のそばにいたら、俺はそれを諦められない。
今日、そう思った。
気が合う女と出会うかもって言っただけで、苦しくて我慢できなくて、弱音を吐いた。
これから先、森田さんに好きな女ができたとして、その相談になんか絶対に乗れない。
そんな覚悟もないのに、友達になってほしいなんて言ってしまった。
体調が悪いのかと心配してくれる森田さんを振り切って、また来るねと言って家を出た。うまく笑えたかわからない。
歩き出したところで携帯が鳴る。電話をくれたのは。
「もしもーし」
『正浩?お前今何してんの』
「幸二さん、会える?」
ずっと1人で耐えてきた森田さんを想う。
1人で寂しさを埋められない俺は、本当にどうしようもない。
「幸二さん。痛いことしてみて」
上に乗って俺の背中を撫でていた幸二さんの手が止まる。
「お前、痛いのダメじゃん」
「いいからー。してよ」
「泣くなよ?」
「泣かねえし。でもあんまり痛いのは嫌だけど」
なんだそれ、と言って笑う幸二さんの顔がエロい。
「森田さんとなんかあったの」
「うるせー」
「……俺が抱いて大丈夫なのか」
だって、そうじゃなきゃ、誰が俺に触ってくれる?誰が好きだと言ってくれる?
考えると視界が滲みそうだったので、奥歯を噛み締める。
「あら。萎えたの、お前。まだ痛いことしてないぞ」
「あれ。ごめん。失礼」
「かわいいやつだなほんとに」
幸二さんがぎゅうと抱き締めてくれる。
「森田さんは俺に、笑ったり、話したり、してくれるようになったんだよ」
「そう」
「仲良くなってきたんだよ」
「よかったな」
「これ以上望んだら苦しくなるばっかりだって、わかってるのになー」
もっと、もっとって、俺の欲は際限なく増えていくばかりだ。
「もう付き合いきれない。自分に。森田さんを好きになってから、変なことばっかりしてる」
結局どうなりたかったのか、メールに返信をもらって有頂天だったころの自分に聞きたい。
こうなることは想像できたはずだ。
何だったの、あの異様なテンションの高さは。
幸二さんは俺の横に肘をついて横になった。
「でもなあ、森田さんが出てきてからのお前は、なんかいいと思うよ」
「どういう意味?」
「がんばってるし。あつい」
「暑い?」
幸二さんは、こっちのな、と言って俺の手のひらに指で漢字を書いた。
「厚い?」
「そう。厚くなったよ、人間として」
「へー」
「出会ったころはペラッペラだったもんな」
「ひでえ」
森田さんはいい人なんだろうなってお前見てて思うよ、と幸二さんは言った。
いい人。
本当は、そんな言葉じゃ全然足りないような人だ。
森田さんが、結婚していたなんて。嘘みたい。だけど、すごく自然なことだ。元の奥さんは、人を見る目があったんだろう。
あんなに森田さんに愛されて、幸せな人。
それだけでは飽き足らず、あんなに苦しめて。今もあんなにがっつり残って。
羨ましい。
妬ましい。
ヤキモチは不思議だ。別に森田さんは俺のものでもなんでもないのに、どうして独占欲なんか。それでも、もくもくもやもやと、黒い雲のように暗いものが俺の心を支配していく。
もういいじゃん。結婚して森田さんをたくさん独占したんでしょ。もう満足だろ。そろそろ許してやってよ。森田さんから出て行けよ。
あんなに純粋で優しい森田さんを、どんだけ傷つけたんだよ。
何が不満だったんだよ、許さねーからな。
見知らぬその人に畳み掛ける。
森田さんのあの後悔を、世界中で俺だけが癒せるんだったらいいのに。
*
彼女に、俺の何が悪かったのかを聞くことは、一生ないだろう。
1人で背負って死んでいくものだと思っていた過去を、岡崎はもう苦しまなくていいんだと言って、撫でて、さすってくれた。
他人に癒されるとは思っていなかった。
癒されてしまっていいものか、今の俺にはまだ判断がつかない。
でもなぜか、視界がクリアになったような気がした。
人を全力で拒絶していた俺に、どうして岡崎はするりと入ってこられたのだろう。
奇特な人だ。本当に。
心臓が痛いと言った岡崎は、そそくさと帰り支度をして出て行った。
俺のことを、面倒なやつだと思ったかもしれない。
でも岡崎は本当に苦しそうで、倒れてしまいそうに見えた。
体調が悪いのではないし平気、と言っていた。
電話をしようか、と思う。
俺が電話をしたところでなんということもない。
かえって迷惑かもしれない。それでも。
たまに見る夢のことを思い出す。行くなと叫ぶ夢。現実では、叫ぶどころか、小声にもならなかった。
深呼吸をしながら、携帯を手に取った。
*
「嘘だろ」
森田さんから電話だ。携帯を落としそうになりながら通話ボタンを押す。
幸二さんは全てを察して、シャワーを浴びに行った。
「もしもーし!森田さん?」
『……岡崎さん』
「ど、どうしたの」
『……体調、治りましたか』
ああ。こんなことが前にもあった。
あの時は俺が変な時間に電話したせいで森田さんは不機嫌で、それでも律儀に、具合が悪いのかと思ってと言って折り返してくれたんだった。
森田さんは優しい。俺のこんな身勝手な気持ちも知らないで、ただまっすぐに、優しい。
生まれつき優しいだけ。
それだけだ。
「治った。今治った」
『今?……ずっと、痛かった?』
「……痛かった」
そう。今また痛くなってきたよ。
森田さんの声。電話で聞くと、直接聞くよりもっと落ち着いて聞こえる。きっと電話が好きではないからだ。
それなのに、電話をくれたりして。まったく。まったくもう。いい加減にしてよね。ほんと、痛い。
『……もう、家?』
「いや、まだ、外、かな、これは」
少し動揺する。
森田さんは、そうですか、と言った。
俺が今男と寝ようとしてたとこだって知ったら、森田さんは何て言うかな。びっくりして電話切っちゃうかもしれない。でも大丈夫、森田さんのせいで勃たなくてできなかったから。って、言ってやりたい。
そんな俺のぐちゃぐちゃを知らずに、森田さんは静かに言う。
『今日、変な話をしたから…疲れさせたのかも……すみません。俺、あんまり……話をし慣れてなくて……でも、話せてよかったって思って……岡崎さんに聞いてもらって、よかったです………ありがとう』
耳から、じんわりと温められているような気持ち。
森田さん、俺に敬語を使わなくなってきた。混じった感じがくすぐったくて、ドキドキする。
「いいよ。俺でいいなら、毎日でも聞くよ」
毎日毎日。それで森田さんの隣にいられるなら。
ああ。なんだこの、俺じゃないみたいな気持ち悪い生き物は。
こんな健気な俺なんか知らねーよ。今すぐに舌打ちがしたい。
『今度、お詫びに』
「いいって、おわびとか。森田さん律儀だねー。友達なんだから当たり前」
友達、なんだから。
『じゃあ……お詫びじゃなくて……』
「ん」
『また……メシ、行きましょう』
「ほんと?絶対ねー」
『……本も、貸さないと、だし』
「うん……うん、そうしよ。また遊ぼうね」
ありがとうと言い合って、電話を切ろうとした。
『岡崎さん』
「はいよ」
『仕事……無理、しないで、あんまり……体調とか、気を付けて』
うん、という返事が掠れた。優しい。優しい優しい。
優しいついでに、俺と付き合って。
だめかな、やっぱり。男じゃね。
俺、なんで男に生まれたんだろう。別に今まで不自由だと思ったことはなかった。でも、俺の好きな人に好かれるには、俺が男じゃダメじゃねーか。
なにこれ。笑える。
こんなに好きなのに、ってのは全然武器にならねーな。だったらこんなに深い想いなんか、知らない方がよかったよ。
少し前から比べたら今なんか夢みたいなのにと思ったら、なんだかすごく空しくなった。
それがホテルの部屋だから、もっともっと空しくなった。
俺は何をしているんだ。
俺は、何をしているんだろう。
風呂から戻った幸二さんに謝ってから、俺はホテルを出た。
星が出ていた。
森田さん。
もう寝た?
その夜、夢を見た。
森田さんと2人で、虹を見る夢だ。
俺も森田さんもなぜか部屋着みたいなスウェットで外にいて、街中なのに他に誰もいなくて、ビルの屋上に公園があって。
その高いところにある不思議な公園から、遠くの空いっぱいにかかる、大きな大きな虹を見る夢だった。
森田さんも俺も、全然しゃべらなかった。ただ、すぐそばに森田さんがいて、虹がきれいだと、そういう気持ちがつながっている気がして、死ぬほど幸せな夢だった。
-end-
2013.12.10