大きな声では言わないけど

番外 森田と岡崎6



せっかく休みをもらえるから、どうせならと思って3連休を取った。2年働いて初めて。連休とか。

とりあえずシフトで休める日が確定したその日の夜、森田さんにメールをした。

『森田さん、15日休みだよね?俺も休み取れた!公園行かねー!』

15分待ったけど返事はない。明日も仕事だから先に風呂に入ることにする。
シャワーを浴びている間、携帯が気になって急いで出てしまった。
手だけ拭いて携帯を見るけど、返事はまだだった。

もう寝たかな。寝てるよな。普通の人は。森田さんは明日、仕事かな。
こんなことを考えるのだって、もう、幸せなような。切ないような。
気持ち悪。なにこれまじで。
きもい。
きもいー。自分。

髪を乾かしていたら、ぴろ、と携帯が鳴ったような気がしてすぐ見たけど、勘違いだった。

「おい。キモいって俺」

またドライヤーを手に取った時、今度は本当に携帯が鳴った。

『どこの公園に行きますか。』

はあ。森田さん。森田さんからメール。

「やべー森田さんだ森田さんだ」

ドライヤーを放棄して携帯片手にベッドに寝転がる。6回読み返して、返信画面を開いた。

『まじで!いいの!公園のあてはなかったけど、森田さんどっか知ってる?つか起きてたんだ。遅くにごめんね。』

俺、普段公園なんか行かねえしな。そう思いながら、森田さんから来たメールをまた読み返す。

どこの公園に行きますか。
待って待って。森田さんの声で再生しよう。
どこの公園に行きますか。
ぐは。
どこのー、公園にー、行きますか。
やべえ。にやける。

何度も読み返していたら、返事が来た。

『車で、未来の森公園まで行きますか。
まだ、本を読んでいました。』

「おお。それドライブデートっていうんじゃね」

嬉しくって眠気もすっ飛ぶ。
森田さんは本当に、読書が好きだな。

『いいのー!ありがとー!そうするそうする!読みたい本、持ってくることね。』

『この間送ったところまで迎えに行きますね。』

『うん!待ってるー』

思わずハートの絵文字を入れてしまった。いいか。いいよね。
眠れるかな。今日。

髪がまだ乾いていないことなんかどうでもよくなって、俺はひたすらメールを読み返して無駄に寝不足になった。



未来の森公園とやらは、大自然の森の中にあって、湿地っていうのの上に遊歩道っていう木の道が組んであって、それを歩いてまわって花とか木とかを見るっていう、そういう、俺の未知の世界な感じの公園だった。





 *





「森田さん。あそこ、あのベンチのとこまで行こ?」

岡崎は、遊歩道をずっと行った奥に見える東屋を指差した。

「はい」

俺は答える。今日の岡崎は、少し顔色がよく見えた。

「すげーな、何もないね」
「あの花、なんだろう」
「あれ?あの綿みたいなやつ?あれ花なの?」
「……多分」
「へー。すげー」

話しながら遊歩道を進む。あまり人が来ないのか、遊歩道の板と板の隙間から雑草が顔を出している。

空は晴れているが風が強かった。先を行く岡崎の髪もなびく。岡崎がそれを気にして頭に手をやる。人差し指に、銀色の指輪が嵌っていた。

10分程で東屋に着く。

「おー。いいね。じゃ、ここで読書大会」

岡崎はベンチに座り、持っていたバッグから本を取り出した。

「それ」
「まだ全部読めてなかったの。あ、借りっぱじゃないよ、何回か借り直しに行ったんだよ」

俺が勧めた、子ども用の推理小説だ。
ベンチはコの字になっていて、真ん中に木のテーブルが据えられている。
岡崎の斜め横に腰を下ろす。

「もう、犯人が誰かわかったけど」

岡崎は綺麗な顔で得意げに笑う。

「飲みます?」

持ってきたペットボトルを渡す。

「あ、これ好き」

岡崎は嬉しそうにした。以前、図書館の前で俺を待っていた岡崎が飲んでいた清涼飲料を買った。

「森田さんは水?」
「はい」
「ウォーターって発音しても、外国人に通じないってマジかなー」
「……さあ」
「じゃあウォーターって何だ?誰が何のためにその発音にしたんだ?謎」

岡崎はペットボトルに口をつけ、一気に半分ほどを空けた。

「トイレ、近くにないから、気をつけて」
「あ!まじだ、やべえ、危ね。その辺でしたら怒られるか」
「……ペットボトルに、還元するか、ですね」

岡崎は俺を見て笑う。真っ直ぐな視線。この人は、こんなふうに無邪気に笑うことがあるのかと意外に思う。

「500で足りるかわかんねー。森田さんのも貸して」
「俺のは俺が、使うかもだし」

答えると、岡崎は弾けるように笑った。
岡崎の喉仏は、くっきりとしている。

「森田さんうけるんだけど。最低、そんな読書大会。もっと真面目なアレだから、これは」

そう言うとわざとらしく真剣な顔をして、岡崎は本に目を落とした。

俺も自分の本を取り出す。
どこか遠くで小鳥がしきりに鳴いていた。

「森田さんは何読むの?」

表紙を見せる。

「あ、同じ」
「ですね」
「それは、大人用」
「そう」

岡崎が読んでいる本の作家の、別の推理小説だ。

「それ、図書館の?」
「いえ。買ったやつ」
「ふうん」
「それ、読み終わったら、これ、貸しますね」
「……うん」

岡崎はなぜか顔を赤くした。俺は慌てる。

「読むのが遅いとか、思ってるわけじゃない、です、から」
「あ、大丈夫大丈夫、森田さんが心配するようなこと、俺一切思ってないし、気にしないから。つか待って、俺今、反応変だった?ごめん」

ただ、嬉しかっただけ、と言って、岡崎は下を向いた。

静かに時が流れていく。外で本を読むのは、気持ちが良かった。



「雨」

岡崎の声に顔を上げると、空が見事に暗くなっていて、雨音がしていた。

「……気づかなかった」
「森田さん、すごい集中してたもん。1分くらい見てても全然気づかないから笑った」

気まずい。

「すぐ止むかなぁ」

雨足はどんどん強くなっているようだ。

「あと、超事件なんだけど」
「……事件?」
「犯人、全然別の人だった」

本を指差して言う。

「それは。楽しめて、よかった、のでは」

推理小説はそういうものだ。裏切られれば裏切られるほど、楽しめる。

「悔しいけどね、ちょっと」
「作者から見れば、きっと、いい読者ですね」
「なんで?」
「引っかかって欲しいところに、引っかかってくれて」
「ふうん……」
「落とし穴掘ったら、綺麗に落ちてもらった方が、嬉しくない?」

岡崎は俺を見たまま5秒ほど固まり、俺が不安になったころにやっと、ぱあっと笑顔になった。
本当に、俺と違って、華やかな顔立ちだ。俺と違って、感情が大きく出る顔だ。

「森田さん」
「はい?」
「ああ、今日最高だなぁ」

土砂降りの中、岡崎は言う。相変わらず会話が噛み合わない。

「すごい雨ですね」
「どうする?」

雨が勢い良く、東屋の屋根を叩いている。
午後5時。ぼちぼち引き上げたいところだ。

「小降りになったら、走りますか」
「うん。森田さん、それ、かぶれば行けない?」

岡崎は俺のパーカーのフードに目をやった。岡崎はシャツを羽織っている。

しばらく2人で雨の音を聞いていた。

「仕事、きついんですか」

俺が聞くと、岡崎は、いやぁ?と言って下を向いて笑った。

「大したことない」

でもこの間、本を読む時間がないと言っていた。

「最近、病気してた店長が復帰して、休めるようになったし、時給上げるって話ももらったし」
「へえ。それは……すごいですね」
「しかも今日とか、有給だしね」
「有給?」
「そーそー。一生もらうことないと思ってた。今回だけだと思うけどね」
「偉いですね。がんばってて」
「えー。俺なんか全然だけど。えーっ全然だし」

岡崎は落ち着かない様子でピアスをいじった。

「仕事を、認めてもらえるのは、嬉しいですよね」
「うん」

岡崎は靴の踵で地面を掘っている。少しずつ削れる、湿った土。

俺も、嬉しかった。岡崎が、俺の仕事を見ていてくれたことが。
そんなことを思い出した。

「そろそろ、走りますか」

雨は大分優しい降り方になっていて、辺りは薄暗くなりつつある。

「あー、早えわ、時間が」

名残惜しそうに立ち上がる岡崎。
この人は、こんなに温かみのある人だったのか。最初の頃の自分は何を見ていたのだろう。

「また、今度、続きをやれば」

岡崎が振り返って俺を見る。その瞳に、俺はすぐ怯んだ。

「いや、機会があれば、ですけど」

もういらないと思われたかもしれないから。
でも岡崎はこくりと頷いた。

「絶対、また来よう。ね、森田さん」



車まで走った。雨は優しいながらもしっとりと俺たちを濡らした。かぶるものがない岡崎が気の毒だったので、俺もフードはかぶらなかった。

急いで乗り込むと、助手席で岡崎は髪の毛を気にしていた。

「うおー、乱れてっし」

全く問題ないように見えるが、俺が言っても仕方が無いと思って言わずにいた。

「運転、任せきりで平気?代わる?」
「いや、大丈夫」
「森田さん、ラーメン食って帰んない?」

岡崎が言うので、前に行った店に寄った。
醤油ラーメンと餃子を頼んで、岡崎は、今日は休みだったから腹がきっつい、と言ってライスを諦めた。

食べ終わって店を出た。駐車場まで並んで歩く。
平らかな気持ち。というのは、こういうことを言うのか、と思った。

何気無く見た路地の向こうから母親と子どもが歩いて来る。
母親が、母親が、あれは、

「森田さん?」

俺は知らぬ間に岡崎に腕を掴まれていた。そうして支えられて立ち止まって、親子を凝視していた。一歩も動けずに。

近づいてくる親子。
いや、あれは、違う。似ているだけだ。近づくにつれ、見間違いだと確信していく。
それでも、動悸は治まらない。

「森田さん、大丈夫?」

岡崎に支えられたまま、親子が通り過ぎるのを見ていた。

車に戻ってからも動揺は収まらず、運転を代わると言って聞かない岡崎に押し切られて助手席に座る。

俺はまだ、こんなところにいるのか。
似た人を見かけただけで、こんなに動揺するようなところで立ち止まっているのか。

また。まただ。
また俺はこうして、自分に失望させられる。





 *





森田さんがおかしくなって、とりあえず森田家までの道順を聞き出して車を走らせる。
助手席の森田さんは、一回り小さくなってしまったみたいだ。眼鏡を外して膝に置いて、顔を手で隠してしまった。

3階建てのアパートは、繁華街が近くてあまり治安のよくない地域にあった。森田さんは静かな場所が好きなのに、どうしてこんな場所に住んでいるんだろうと不思議だった。
アパートの脇に3台分の駐車場があって、ここにと言われて車を停めた。何も言わない森田さんが心配でついて行くと、森田さんは2階の一室のドアを開け、その玄関で靴を脱ぎ、そこで初めて俺に、上がりますか、と聞いた。

森田さんの家に、こんな形で来ることになるとは思ってなかった。

8畳くらいの広さの部屋には、驚くほど物がなかった。小さなキッチンには食器すらない。パッと見て目に入る家具は、小さな冷蔵庫と洋服のタンス。それから、一番大きいのは本棚で、それでも俺の背丈ほどもない。

部屋に入って、森田さんは部屋の真ん中に胡坐をかいて座った。その後ろに、畳まれた布団が置いてある。
俺は森田さんの斜め向かいに、とりあえず膝をつく。

どうしたの、と聞いた声がすごく小さくなった。聞くのが少し、怖かったから。
そしたら森田さんは、はっきりと俺に言った。

元の奥さんに、似てる人を見た、って。
それだけです、と言って、俺を見上げた。

森田さんの目は、そんな時でもやっぱり、綺麗に澄んで見えた。
それに見惚れて、後のことはなにも考えず、思わず手を伸ばした。森田さんの頭を、そっと撫でた。森田さんは、予想に反して、それを振り払わなかった。
そうして俺はそのまま、森田さんの話を聞いた。











あなたの隣は静かでいいと、そう言われたのがきっかけだった。

大人しい。陰気。暗い。
クラスメイトや教師や兄弟や、親にすらそう言われて育った俺は、同じ面を違う角度から見た彼女を、不思議な人だと思った。

欲しくてたまらないと乞われれば、19で社会人になったばかりの俺には拒む理由もなく。
今にして思えば、若かったと思う。甘かったと思う。
それでも彼女は、家族ですら遠いと思っていた俺にとって、初めて出会った味方だったのだ。

双方の両親の猛反対から逃げるように彼女の手を取り、小さなアパートに引っ越して籍を入れた。
それ以来、実家とは連絡を取っていない。

バイトで夜遅くなる彼女のために、夕飯作りは仕事から帰った俺がした。
休みの日もなるべく自分が家事をこなすようにして、あとは2人並んで本を読んだ。

それでも楽しかった。幸せだと思っていた。
俺は。

彼女はだんだん、他の人間と同じことを言うようになった。

笑わない。いつだって楽しそうに見えない。何を考えているのかわからない。どうして何も話してくれないの、と。
そう言われて俺はますます口をきけなくなった。

考えていることなんて何もない。不満なんて1つもないからだ。あなたがいてくれたらそれ以上望むことなどない。俺は今のままが一番幸せだ。

その想いが、唯一わかってくれると信じた人にも伝わっていなかったと知って愕然とした。

伝える努力はしたいと思った。でもどうすればそれが伝わるか全くわからず、自分にはその能力が生まれつき欠けていたと思えるほど空回りした。

やがて俺はわかってもらおうと無理をするのをやめた。

耳を閉ざし、彼女の感情の波が静まるのを待つ。それでも無駄な時は本に頼った。静かに、静かに、本を読んだ。その態度が彼女を更に苛立たせることはわかっていた。でも他にどうしたらいいか、もう思い付くことは全てやり尽くして、すでにわからなくなっていた。

ある日、仕事から帰ると男がいた。
バイト中であるはずの彼女は、男に手伝われて荷物をまとめている最中だった。

俺の目の前で、彼女は男に連れられて出て行った。

そんな時ですら、俺の口からは言葉が出て来なかった。
俺は心から自分に失望した。

後から郵送で離婚届が届いた。
見慣れた彼女の文字を見て、何か、夢から覚めたような気がした。

こんな人間が、人と生きようとしたこと自体が間違いだった。端からそんな才能はなかったんだ。俺は何も守れない。何も。
あんなに、この人だけはと願ったのに。

だったらもう、1人でいい。誰のことも知りたくない。
この先、俺は、誰とも生きない。



俺は間もなく彼女と暮らしたアパートを出た。結婚から1年経った頃だった。

家は、頻繁に小さな諍いや事件の起こる、繁華街の近くに決めた。
週末ごとに、深夜人の言い争う声が聞こえるような場所。
狭くても汚くても、例え自分に危険が及ぶような家でも、彼女と偶然会うことだけはないような場所。

人から遠ざかることを決めた心は低いところでしんと動かず、それを上から包み守るようにして読書量が増えた。
そして俺は料理をするのをやめた。
人に近づくのをやめた。
触れられることに嫌悪すら抱くほどに。

全部を無かったことにした。
うまくできなかったことも、否定されたことも、それより前に、肯定してもらったことでさえも。

今から5年前、20歳の頃の話だ。
たった5年。なのに、霞がかかったようにぼんやりとした記憶。



それでも時折、夢を見る。

彼女を連れて行くなと、叫ぶ夢を。






-end-
2013.12.1
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