大きな声では言わないけど

番外 森田と岡崎4



仕事が終わり、家に着いて仕事着の白いシャツを脱ぐ。冷蔵庫から取り出した2リットルのペットボトルに口をつけて、ミネラルウォーターを飲んだところで携帯が鳴る。

『だざいおさむ?だっけ?俺いま読んでんだけど!』

岡崎からのメールに、俺は一瞬目を見開いた。

岡崎と太宰。岡崎と太宰。岡崎と太宰。

何度考えても二つの単語は水と油のように混ざり合わない気がした。

考える前に手が動いて、返信メールを作る。

『なぜ。』

15秒ほどで返事が来た。

『森田さんが読んでたから』

文末に、キラキラした星のような絵文字がついていた。

へえ、と思っただけでそれ以上返事をせずに携帯をテーブルに置く。

俺が読んでいたから?それが太宰治を読む理由になるのだろうか。自分はそんなにおもしろそうに本を読んでいただろうか。
考えながら、意識は夕飯を買いに行くことの方へ流れて行く。今日はアパートの向かいの弁当屋のヒレカツ弁当にすることに決める。

するとまた携帯が鳴った。

『おすすめとかない?今読んでるやつ、むずかしくてよくわかんね。人間失格。森田さんすごいね!頭いんだね!』

きっと岡崎の考え方や価値観に、太宰が合っていないのだ。
少し考えてから、返事をする。

『本は好みがあるので、合ったものを読んだ方がいいです。』

岡崎だったら今流行っている作家の方が読みやすいのでは、と、わかりやすく明るい話を書く何人かの人気作家を思い浮かべた。

『俺に合うのって何かな。』

浮かんだ作家を3、4人羅列して返信する。

『図書館にある?』

『借りられていなければ。』

『今度、森田さんが図書館行くとき、ついてったらやだ?』

ふんっと鼻から息が出た。
正直、面倒だ。
それでもなぜか、本のことで頼られることに嫌な気はしなかった。

『次、いつ休みですか。』

『明日!』

絵文字がゴテゴテしている。
俺は仕事だ。

『明日は仕事なので。俺は明後日休みですが、岡崎さんは仕事の日の午前中は寝ていますか。』

岡崎はメールをどうやって打っているのだろう。返信が早すぎる。

『寝てない!起きてる!つか起きる!あさってね!ありがとうほんとありがとう!仕事戻る!優しいね!』

まただ。岡崎がまた俺のことを優しいと言った。
どこが。
と思うと同時に、少しくすぐったいような気持ちがした。

俺はもう一度鼻からため息を吐き、財布と鍵を掴んで弁当を買いに出た。






 *






「平井、お前さすがだね、さすが大型新人。テーブルセッティングが最高だね。ふんふん」
「岡崎さん怖えんだけど」

アガりきった気分のまま褒めたことなんかない平井に声をかけたら、隣にいた西尾が怯えた。平井は口を開けて黙っている。アホ面。

森田さん、少し歩み寄ってくれたっぽい。
がんばって本読んでみた甲斐ありすぎでしょー。

太宰治は、ちょっと目を通してみただけで吐き気がした。暗くて暗くて暗くて暗くて……。
大丈夫かよ太宰治。友達に相談とかした方がいいよ?

で、何か俺でも読めそうな本教えてくれたりしないかなってメールしてみたら、いつもよりずっと会話が続いた。
なにこれやべえ。
しかも、図書館に行く約束、森田さんから俺に都合を聞いてくれたりして。

森田さんがどうして太宰治を読んでいたのかわかんないけど、きっと、優しいからだ。

「問題はこっからだな」

どやったら、俺にオチる?

とか考えてる時点で調子乗りすぎだけど。
わかってるけど。






 *






図書館の前に、岡崎は本当にいた。
眠そうな顔でベンチに座り、スポーツドリンクを飲んでいる。たまに髪やピアスを弄るのが、近づくにつれ見えた。

本当に、いた。
仕事の日の午前中にわざわざ。

「あ、おはよ、森田さん」
「……本当に来たんですね」
「え?つかそれこっちのセリフだしねー。本物の森田さんが来た」

岡崎はゆるく微笑んでいる。店で見るより少し顔色が良さそうだ。
何にせよ、自分には縁のない顔立ち、縁のない人種だと再確認する。

「……中で待ってた方が……暑くなかったのでは」

言うと岡崎は一瞬遅れて満面の笑みを浮かべた。

「俺はここで、森田さんと待ち合わせをしてみたかった」

変だ。やはり岡崎は変わっている。
よくわからないので図書館の自動ドアへ向かう。岡崎もついてきた。



心地よい温度に設定された館内を歩く。

メールで教えた作家の棚をざっと見渡し、一冊を手に取って岡崎に差し出す。

「これは割りと。読みやすいかと」
「へえ。……うわ、字ちっちゃ」
「普通ですけど」
「あそっかそっか、これは大人用だもんねー」

それを聞いて思い出した。以前岡崎が読んでいたのは児童書だった。
犬の。

「犬が好きですか」
「犬?好きだよ」

じゃあ、と思って児童書コーナーに向かおうとすると、岡崎が俺の手に触れた。

「違うの。俺、今日は、森田さんが好きだっていう本を借りに来たんだよ」

俺が好きかどうかが、なぜ岡崎に関係あるのだろう。
考えていると、触れられた指先をきゅっと握られ、俺は咄嗟にそれを振り払った。

最早それは防衛本能で、他人に触られることに俺は不安を覚えるからだ。

岡崎はふっと笑って、ごめん、もうしないから、と言った。

書棚に向き直り、考える。とにかく俺が好きな作家ならいいのだろうか。岡崎の意図が掴めないので、その意味を考えるのはやめた。

そこであることを閃き、岡崎の方を見ると、彼は俯いてピアスを弄っていた。

「……やめますか?」
「あ、え?何を?」
「……本」
「やめないよ、借りたい」
「じゃあ、こっち」

俺は児童書コーナーに向かい、低い書棚を丹念に探す。

「森田さんも子どもの本、読んだりするの?」

岡崎が囁くような音量で言った。図書館で静かに話すという気の遣い方に、少し意外な一面を見た気がした。

首を横に振りながら、発見した目当ての本を岡崎に見せる。

「俺はこの作家が好きで。ミステリですけど」
「ミステリって?」
「推理小説。殺人が起こって犯人を探す、みたいな」
「ああ!わかるよ、おもしろそう」
「普段は大人向けの推理小説を書いてる人だけど、これは子どものために書かれたやつで」
「あ、字がでかい」
「振り仮名も振ってあるし」

岡崎は、あー、と言いながらペラペラとページをめくり、俺を見て、ありがとうと言った。

「人間失格は」

その綺麗な顔の輝かしさに耐えられないような気がして、気がついたら言葉が出ていた。

「ん?」
「人間失格は、小さい文字じゃなかったの?」
「ああ。うん。あれは、解説がついてて」

要は、そっちも子ども向けに編集されたものだったのだ。

「これが読めたら、森田さんが読んでるやつも読めるかな」

そう言って照れたように笑う岡崎に、どうしてそこにこだわるのかとは聞けなかった。
どうせ会話はまた不成立だと思ったからだ。

でも、わりと。
わりと今日は、普通に話ができている。

というより、俺の心がいつもより岡崎の方を向いていると言った方がいいのかもしれなかった。メールも店での会話も、俺が理解しようとしないだけで、もしかしたら岡崎は理解不能な変人ということもないのかもしれない。
交流したくない人種ではあるが。

「森田さん、あのね、一回外に出る気とかないよね」
「……外?」
「お礼。お礼がしたい。わざわざこれ、探してくれた」
「いや。別にそんなのは」
「コーヒー飲む?」

俺は首を横に振る。

「お茶系?」

また首を振る。

「普段何飲むの」
「水」
「ああ。水。水」

岡崎は噛み締めるように言い、また綺麗に笑う。

「あの、もう俺、行きます。お疲れ様です」

奥の閲覧室に向かおうと岡崎に背中を向けた。これ以上一緒にいたら情が移りそうだと思った。犬みたいに。

「ありがとう」

後ろから聞こえた抑え目の声に俺は軽く頷き返した。






 *






「あ、どうも。こんにちは」
「どーもー」

初めて会うその人は、年上だと思うけど童顔の、ぼんやりした感じの人だった。

今日は幸二さんには会いたくなかった。

昼間、森田さんに会えた。話して、触れた。
振り払われた。
でも優しかった。
お礼は断られた。
何度か目を見てくれた。
俺と普通に話してくれた。
敬語だった。でもたまにタメ口になった。
森田さんに、何の味も付けられていないまっさらな水はぴったりだと思った。
すぐさよならされた。
でも。でも。

いろんな感情が渦巻きすぎて、誰かに会いたいような誰にも会いたくないような気持ちが強く強くした。
結果、仕事終わりの深夜でも会えそうなお仲間を探してしまった。

「タチっぽい顔だね」

相手の話し方はぎこちない。緊張してるみたいだ。

「あー……言われる」
「でもすっごく、……かわいいね」
「どーも」

俺、かわいいってキャラではないと思うんだけど。タレ目だから?
ネコっぽい顔のその人は薄く笑って言う。

「どうしたい?」
「ホテル直行したい」
「あ、うん」
「痛いのなしで。ローションとゴムは持ってるよ」
「うん」

少し動揺したみたいにキョロキョロして、それから控え目に、人がいない所では手を繋いでもいいかって律儀に聞いてきた。

恋人ごっこみたいに、手を繋いで路地裏を歩く。その人は幸せそうな顔をしていた。

途中、男女カップルとすれ違った時、慌てて手を放そうとしたので強く握り返して阻止した。

うまくいかないもの。
思い通りにいかないこと。



ホテルに着いてすぐシャワーを浴びて、今度は相手がシャワーを浴びる。
テレビをつけると男女もののAVが流れ始めて、俺はそれをぼんやりと見つめる。

簡単だ。
抱いたり抱かれたりは本当に簡単で、携帯があれば数時間後には誰かと繋がれる。
金のために抱いたり抱かれたりするんだって、こんなに簡単だ。

なのにどうして、好きな人には少し触れることだって叶わないんだろう。








その人のセックスはやっぱりぎこちなくて、こういう風に知らない人を抱くのは初めてなのかと思って聞いたら、違った。

「何回かあるよ、でもどうしても慣れない。あなたは?」
「もう数えらんないくらいあるよ」

答えると、若いのに、と呟かれて笑った。

「大して変わんなくない?」
「何?」
「年」

ベッドに伏せたまま言うと、今度はその人が笑った。

「俺、30だよ」
「え゛」

思わず起き上がって全裸で正座した。
隣に寝そべっていたその人も上半身を起こして肘を後ろについた。

「ねえ」

そう言われれば落ち着いて見えてくるその顔に聞く。

「好きな人がいるの?その人と手を繋いで歩きたい?」

その人は幸せそうに笑った。

「あなたも、好きな人がいるんだね」

言われて危なく涙が出そうになった。
最近の俺は前みたいに頭空っぽにして軽く笑うことができてない。人に合わせて適当にするの、一番の得意技だったのに。

「どんな人?」

幸二さんにも同じように聞かれたことがあった。

「俺の好きな人はね」

森田さんは。

「女にすら興味なさそうで、俺を嫌ってるっぽくて、でもすごく真っ直ぐで真面目で優しい人だよ」
「そう。素敵な人だね」

今日知り合ったばかりの人にこんなことを話して、それで森田さんを素敵だと言ってもらって、俺は思わずありがとうと言ってしまった。

「人を好きだってこんなに思ったことないんだよね」
「うん」
「その人のことになると、自分が自分じゃないみたいに、フツーにできなくなる」
「うん。わかるよ」

ただ聞いてもらっているだけで、改めて自分の想いの深さを知る。

その人はまた体をベッドに横たえた。

「俺の好きな人には奥さんも子どももいる。女好きで、ゲイを軽蔑してる人」
「……それキツくね」
「たまにね。でも本当に好き」

この人は毎日をどんな気持ちで生きてるんだろう。

「手を繋げなくてもいいんだ。友人として何か、役に立てればそれでいい。俺は、キスできる人より、支えてあげられる人でいたい」

もし森田さんが女と付き合っていたとして、俺はこんなに晴れやかな顔で同じことを言えるかな。この人みたいに胸を張って生きていられるのかな。

「30の人の言葉、重いねー」
「そうだよ、重いよ」

顔を見合わせて笑った。

今日この人と話せてよかったと思った。



別れ際、その人は、もし気が向いたらまた会って、と俺に言った。俺はうんうんと軽く頷く。

もうこの人に会わなくて済むならいい。この人も俺に会わなくて済むようになればいいのに。
俺もこの人も、本当に会いたい人は別にいる。











「正浩。正直に言っていい?」
「どうぞ」
「キモいよぅ!正浩がキモいよぅ!」
「……ひどくね」
「キモい」
「創樹まで!」
「どうしたの正浩!キャラをどこに落としたの!」

あまりにも森田さんへの気持ちが大きくなって、店長の退院後の体調もあんまりよくなくて、友達の双子、広樹と創樹にぶわーっと森田さんの話をしたら、すごい引かれた。

「それだけ真剣だってことだよね」
「ああ優しい、やっぱり優しい、なっつくん抱いて」

信じられない。なんでこんないい人が創樹の彼氏なんだ。

広樹と創樹の彼氏のあきくんとなっつくんは、俺の話をちゃんと聞いてくれた。

「まずはお前をもっと知ってもらったら」
「あきくんも優しい」
「あっくんは俺以外に興味ないからねっ」

広樹も大概キモい。嫉妬が過ぎる。

「どうしたらちゃんと向き合ってもらえるのかな」

呟いた言葉に、あきくんが応えてくれる。

「図書館の話からして、ゆっくりでも近づいてはいるんじゃねえの」
「そうかな」
「で、お前ももっとその人のことを知る必要があるんじゃね」
「うん。そうだねー。うん」

気持ちが整理されてきた。

いきなり男に手を握られれば驚くし振り払って当然だ。
何気にショックでオチたけど、あれはもう忘れよ。うん。

飲み物は水が好きだから。
今度店に来たとき、キンキンに冷やした水のペットボトルを渡そう。この間のお礼、って。

少しずつ、少しずつだ。
焦ったらダメなんだ。

そんなのやったことねーし。難しいな。






 *






店に行くと、岡崎はめずらしくさっさと伝票にサインをし、ちょっと待ってね森田さん、と言って奥に下がった。

なんだかわからないが早く行きたいと思っていたら、岡崎が足早に戻ってくる。
手にはビニール袋。

「森田さん、これ、こないだの本のお礼」

岡崎は綺麗に笑いながら俺の方へビニール袋を差し出す。
思わず一歩後ずさる。

「いや、そんなんいいんで」
「お願い、もらって。大したもんじゃないから」

恐る恐る受け取った袋を覗くと、水のペットボトルが2本とガムとミントタブレットが入っていた。
目を合わせないようにして、どうも、と呟く。

「あとあの本、おもしろいよ。半分くらい読んだ」
「……よかった、ですね」
「うん。早く森田さんが読んだやつも読みたいな。きっとおもしろいね」
「貸しますか」

勝手に口から出た言葉に、自分でも驚く。
岡崎も口を半開きにして固まっている。

こんな自分はきっと気持ちが悪い。

「あ、いや、なんでもないんで、」
「貸して!」

岡崎の勢いに圧されて今度は俺が黙る。

「あー…俺キモいね、ごめんね森田さん。図書館で借りるわ」

言葉の真意が掴めずぼうっと岡崎の顔を見ていると、岡崎は落ち着かなそうな素振りで目を逸らした。

「ほんと、ありがとうね」

岡崎はそう言って黙った。
いつもみたいにわざとらしく笑うかと思ったのに、岡崎は少し表情を和らげただけだった。

奇妙な沈黙が流れる。いつもならさっさと店を出るのに、今日は不思議と、あまり嫌な気持ちがしなかった。

素直な気持ちを口に出してみようと思ったのは、岡崎がいつも俺にそうするからかもしれない。

「わざわざ、ありがとう、ございます」
「えっ何が?」

ひどく驚いた顔の岡崎を見て、おかしくて少し笑ってしまった。

「これ。水。いつも飲んでるやつだから」
「そうなんだ、よかった。よかったよ」

なぜか自分のことのようにうれしそうな岡崎に居心地が悪くなり、急ぎ足で店を出る。

なんだかおかしい。
岡崎も、俺も。

近づかないと決めたはずなのに。何度も自分に裏切られては眉をひそめるこの流れは一体何だ。

独り生きてきた狭くて安心な世界に岡崎が乗り込んでくる気がして怖くなった。

また、傷つくはずだ。
俺には人と生きる能力が欠けているんだから。

その思いとは裏腹に、手にしたビニール袋がいつまでもほんわりとあたたかい。

もう乱されたくないのに。






 *






「あー広樹?」
『正浩?なぁに?』
「あきくんいる?」
『……いますけど?』
「換わって」
『どういったご用件でしょうか』

途端に不機嫌になった広樹の声に、気持ちが少し落ち着いてくる。

「まあ、広樹でもいっか」
『はぁ?なによぅその言い方は』
「森田さんがさ、笑ったよ」
『笑った?』
「うん。俺に。初めて」
『赤ちゃんじゃないんだからさーそりゃ笑うでしょうよー』
「だって笑ったんだよ!ニコッと!やべえ!死ねるわ!」
『あっくんの笑顔の方が死ねるし!』

広樹の言葉なんか聞こえない。
俺は今、舞い上がっているから。

「あきくんに、俺がんばるって伝えて。じゃね」

電話を切って、ベッドに転がる。
転がって転がってジタバタして「おー!」と叫ぶ。

こんなに気持ちが上下すること、俺には一生ないと思ってたのに。それはもう性格で、冷静に適当に一歩引いて生きていくんだと思ってたのに。

森田さんはどんどん俺を引き寄せる。自分は離れていくくせに。

「勝手な人。でも好き」

呟いたら、この間会った30歳のあの人を思い出した。






 *






仕事帰り、スーパーで惣菜を買って駐車場に出ると、岡崎がいた。

岡崎は友人らしきグループでぞろぞろと歩いて来て俺を見つけ、森田さん、と言って一瞬固まった。

すると周りにいた友人たちの顔色がサッと変わり、皆が岡崎を見た。

なんなんだと思っていると、あの人、あの人が森田さん、と囁く岡崎の声が聞こえた。

岡崎を見る俺の視線の温度が下がるのが、自分でもよくわかった。

友人に俺のことを話してた?
どんなふうに?
店に来る業者でつまんない男がいて、そいつをからかうのが楽しい、とか。
ダサいから今度会わせる、とか。

お前はあとで言うんだろう。
ほらな、言った通り、つまんなくてイケてねえだろ。

「森田さん帰るの?」

笑い混じりに言う岡崎から目を逸らし、形だけ一礼して足早にその場を離れる。

森田さん、という岡崎の声が追ってきたが無視をした。

すぐに携帯を取り出してメールを打つ。

『もう俺に関わらないでください。
メールも本当に迷惑です。
さようなら。』

送信してから、岡崎の番号を着信拒否に設定し、アドレス帳から岡崎のメモリを消去して、少し溜飲を下げる。

男子校生が2人、何がおかしいのか笑い合いながら通りすぎていった。

人に関わってよかったと思った試しがない。
いつもろくなことにならない。
そうだ。そうだった。どうして忘れていたんだろう。
そんなに大事なことを。






 *






「ちょっと。行ってくる」

言うなり俺は走り出していた。

「正浩!」
「がんばって!」
「キモいぞ!」

広樹たちの声を背中に受けながら、俺は森田さんが乗り込んだ車の方へ一直線に向かう。
急ぎ足から、駆け足へ。

なんだよあのメールは。なんであんなこと言われなきゃなんないの。
俺はただうれしかっただけだ。
不意に好きな人に会えてうれしかっただけだって。
こないだ笑ったじゃん。
近づけたんじゃねーのかよ。
好きな水のメーカーだって好きな作家だって最近知れたんだから。
森田さんが自分から教えてくれたんじゃねーか。
これからもっと知れるって、期待させといてなに、まじで。

いつの間にか全力疾走の俺は怒りや悲しみをすっとばしてなぜか爽快感。

森田さんの車が動き出す。その後ろに追いついてガラスを叩いた。
驚いて車を止めた森田さんが俺を見て冷たい顔をしたけど構わず助手席のドアを開ける。
外に立ったまま、中を覗き込んで言う。

「友達に、なってくれるって、言ったじゃん」

呼吸がまだ荒い。
森田さんは何も言わない。

「迷惑ならなんで、連絡先とか教えんの。図書館だって付き合ってくれたじゃん。本も貸してくれるって」

言ったじゃねーか。
何が悪かったの。
俺、なんかした?

「俺がなんなの」

森田さんが呟いて、俺は「え?なに?」と聞き返した。

「岡崎さん、俺じゃなくても、友達たくさんいるじゃないですか。俺に構って何か楽しいですか」

なんて言えばいいの。
友達はいるけど好きな人なんて森田さん以外にいねえって言っちゃっていいの。
ダメに決まってる。

「友達が、」

なんて言えばこの場がまるく納まるんだ。

「何人いようが俺の勝手じゃね」

どう言ったら、森田さんがさよならを撤回してくれんだよ。

「さっきのあいつら友達だけど、森田さんも友達として、欲しいって、変じゃないじゃん別に」

そうだよ変じゃないよね大丈夫だよね?

「友達は何人までとか、決まってないし。おやつは300円まで、じゃあるまいし」

恋人は異性って、それは世の中的に決まってるらしいけど。
クソみたいな常識。
誰だよ決めたやつ死ねよ。

「森田さんは友達いらないのかよ」

勢いで言ってしまったけど、なんかツンデレ発言ぽくてキモかったか、と思ってたら、森田さんは深いため息をついた。

「俺はいらない。友達は」
「嘘だ」
「は?」

睨まれて黙る。

「いらないし。必要ともされないし」

森田さんは無表情で目をそらした。
はい?ちょっとこの人俺の話聞いてた?

「必要だっつってんでしょ、俺は森田さんが必要だって。聞いてた?ねえちょっと車降りてよ」
「……いいです」
「俺がよくねえよ」
「喧嘩は嫌なので」
「待て待て!誰が殴るって言ったの、友達に紹介するから降りてって」
「は?ちょっと意味がわからない」
「森田さん」
「勘弁して下さい。俺がいたって得なことないから。タイプも違いすぎるでしょ」

うおおまじか、なんかすげー腹立ってきた。
この人、思考回路が心配すぎる。

「何なのそれ。前から損とか得とか。そんな気持ちで人のこと好きにならねえし」

あ、えっと、好きっていうのは。

「人間としてさ、一緒にいたいって、この人魅力的な人だなって、そんなの同性だってあるし」

俺は同性にしか思わないけど。

「タイプなんか、違う方が楽しいじゃん。凛として頼れそうで優しいとか、俺にはない感じだからすげえって思うし」

くそ。なんかひとつでも伝わんねえのかよ。
森田さんはなんでそんなに自分に否定的なんだ。どうしてそんなに人を遠ざけようとすんの。

「あと仕事の仕方が、なんつーの、なんかいいなって、尊敬?できるみたいな、そう思ったんだって、俺は森田さんのこと。そういうの、別に普通でしょ」

まだわからんみたいな顔をしている森田さんに、俺は勢いで言ってしまう。

「それとも何。友達とかより、恋愛感情で俺が森田さんのこと好き好き愛してる付き合ってキスしてセックスしてって言ったら一緒にいてくれんの?」

ほら、一緒にいるって言ってみろよ、言えるもんなら。
そしたら森田さんはピシッと表情を凍らせて、ほのかに顔を赤くした。
え?森田さんってもしかして童貞?何その反応は!
まじやめて!どうしよう!俺まで照れるだろ!

「……あのう、正浩くん。あと、森田さん?こんにちは、初めまして」

いつの間にか俺のすぐ後ろまで来ていた救いの神は、固まっていた俺たちに優しい笑みを浮かべて手を差しのべた。

創樹の彼氏。なっつくん。

「せっかくなので、みんなでマックでも行きませんか?」

これ、この癒しオーラ全開の笑顔。これがこの人の武器。

俺にはいつもムスッとしてる森田さんは、申し訳なさそうに少し笑って首を振った。

「人見知りなので、今日は遠慮します」

なっつくんは、ああ、そうですか、じゃあまた今度、と言って引き下がった。

すると森田さんは、深呼吸をして俺をチラ見した。

「岡崎さん。さっきのメール」

ぼそぼそと言う。
え。なになに。どうした。

「俺……すみません」
「あ、いえいえ」
「俺、すぐマイナスの方に考えるんで。何でも。……だけど、」

森田さんは運転席でなんだかモジモジしている。
少し、かわいい。

「あなたが悪い人じゃないっていうのは、よくわかった。あ、ありがとう」

自分の体がふわっと浮いたような気がした。

「お詫びに本、今度貸しますから」







森田さんはそれからすぐに帰って行った。
森田さんの車をなっつくんと2人で見送り、無言のまま顔を見合わせる。

「正浩くん。これは、なんかすごく、ステキな日じゃない?」

そう言われて俺はなっつくんの首に抱きついた。何かに縋っていないと震えそうだった。
幸せで。
なっつくんは抱き返して背中をぽんぽんしてくれた。

「よかったね。よかった。近づけたじゃない」

なっつくんの声を聞いて、また泣きそうになった。

「……ありがと」

やっと言ったら、なっつくんがよしよしと言って背中を撫でてくれて、もう堪えきれないと思った時。
げしっと衝撃があって、目を開けたらなっつくんが後ろから創樹に蹴りを入れられていた。

「暑苦しいんだよ変態ども」






 *






眠れない。
真っ暗にした部屋の中、布団の上で何度も寝返りをうつ。

目を開けて、岡崎の言葉を思い出す。

あの人はなぜ、俺をフォローするようなことばかり言うのだろう。
なんの取り柄もない俺を。
付き合いも深くない、ただの配送業者の俺を。

わからない。
それは前と変わらない。

ただ、仕事だけは真面目にと思ってやってきた。それを知っていてくれる人がいた。
週に1、2回、10分程度会うだけなのに。

人と関係するといろんな意味で摩擦されていろんな気持ちが生まれる。いろんなことが起きる。
そういうことを、俺は忘れかけていた。
忘れようとしていた。

年上の俺のいじけたような卑屈な言葉も、なぜだか必死になって否定して打ち消して、その上で俺と友達になりたいと言っていた。
尊敬とか、すげえとか、優しいとか、そんな言葉を向けられて困惑して、この人はどうしてこんなに懐がでかいんだと思った。

もしかしたら本当に、あの人は俺と友達になれる人なのかもしれない。

まだ半信半疑の気持ちを抱えたまま、そんな奇特な人のアドレスを俺は消去してしまったと、少し落ち込んだ。

人に肯定されることに安心を覚えるのはとても久しぶりだった。

結婚するまでの、あの僅かな期間。
何度かそんな、ほのあたたかい気持ちを抱いていた記憶が甦り、俺はやはり眠れない夜を過ごすことになった。








-end-
2013.7.8
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