姫は王子のもの。

「なぁ中川、3組に転校生来たって聞いた?」

朝、教室に入ると、阿部が飛んできた。俺より少し小柄な坊主頭が目の前で落ち着きなく動く。

「おはよ、聞いてないけど。何、どんなやつなの?」
「よく知らないけど、なんかすげぇ頭いいとこ行ってたっぽい。でさぁ」

最後だけなぜか小声になったので、俺も自然と耳を寄せた。

「すっげぇかわいいらしいよ」

かわいい?
聞き返そうとしたところで、阿部より更に小柄な姫が教室に入って来たのが見えた。
眠そうな姫に声をかける。

「姫、おはよ」
「はよ」
「なあなあ姫!聞いた?」

俺の斜め前の席にカバンを置いた姫の肩に、阿部が飛び付く。本当、子猿みたいなやつ。

「……重い」
「3組に転校生だってさ!」
「ふぅん」
「後で見に行こうぜ!すげぇかわいいんだって!姫とどっちがかわいいかなー、はは」

うるさそうに聞いていた姫の顔が、かわいい、というところで僅かに曇るのを、俺は見た。
あ。3組って。

「3組って王子のクラスじゃん!やべぇぞ、そいつに王子取られたりしてー」
「阿部!バカお前」

天真爛漫で裏表がない分、たまに限りない無神経を発揮する阿部の言葉は、遮りきれずに姫の耳に入ってしまった。
姫は何事もなかったかのように紺色のショート丈のコートを脱ぎ、席についた。
姫が、少なからず動揺している。
他の話題だったなら。こんな阿部には冷静に、それはそれは冷静に、「バカじゃないの」とか「俺が負けると思う?」とか言うはずなのだ。そういう行動パターンをよめる程度には俺は姫と仲がいいと思っている。

「どんなやつかなー、いいやつかなー」
「どっちでもいいからもう席戻れ」

姫の周りの空気が若干尖り出したのを感じながら、俺は尚も言い募る阿部を黙らせた。
姫と本城がどんな付き合いをしてるのか、どんな経緯で付き合い出してお互いどう思っているのか、俺はほとんど知らない。だけど多分姫は強がりで、本城のことになるときっと弱い。しばらく気をつけて見ててあげないと。
長男のお節介焼きを発揮しながら、俺は姫の後頭部をちらりと見遣った。

そいつの姿を確かめる機会は思っていたより早くやってきた。

教室はこれ以上ないほどざわついていて、クラスメイトたちの会話が断片的に聞こえてくる。

「今日部活でさ」
「俺の辞書は?」
「うわ自主練じゃん」
「先輩が」
「なぁ辞書は?」
「売った」
「俺早弁しよう」
「まだ9時だぞお前」

1時間目の古典が自習になったのだ。自習という名のカオスだ。

「おい窓開けんなよ」
「ばかじゃねぇの」
「暑くね?」
「さみーから!」
「うわ、この寒い中体育とか」
「あ、体育やってんの3組だ!」
「まじか!」
「転校生は?」
「どれどれどれどれ」

クラスの殆どが窓側に集まる。
廊下側の席から転がるように駆け寄って来た阿部につられて俺も立ち上がり、窓際の席の姫も少し首を動かして外を見た。

「あれ、あのちっさいの」
「は?どれ?」
「ばか、見えねぇのかよあの紺のジャージだよ」
「全員紺だろ!」
「あれだって。今本城の隣にいるやつ」
「うわまじちっせ」
「本城でかいからじゃね」
「いやでもちっせぇわ」
「かわいい」
「本当にチンコついてんの?」
「お前触って確かめて来いって」

悪ノリする皆の中で、姫だけが静かに外を見ていた。

「でもやっぱ1番かわいいのは姫野だな」
「それは不動」
「俺も彼氏ほしい」
「お前女いんだろ死ねよ」

クラスのやつはみんな、姫の良さを知ってる。外見だけじゃなく。
だからなんとなく、いつも姫に振り回されながらも極上に優しい本城を、みんな応援してしまうんだろう。
姫、いいよな。本城お前見る目あるわ。って。難しいやつだけど大事にしてやってね。って。
頼むからみんなの姫を傷つけんなよ。
まぁ、本城なら大丈夫だと思うけど。



 *



転校生の席は、本城の隣だった。
ただでさえ目立つ、時期外れの転校生。小柄な彼は、少し足を引きずっていた。

「野島です。よろしく」

少しはにかんだ笑顔が、本城を真っ直ぐに見つめる。

「よろしくね。俺は本城。なんか困ったら言って」
「本城くん。ありがとう」

転入して最初の授業が体育とはまた運が悪い。

「教室で着替えて、今日は外だよ」
「そっか。寒そうだね」
「ジャージある?」
「うん。なんとか間に合った」

着替えてからダラダラと外に出る。
天気だけはよくて、乾いた冷たい空気の中で準備体操が始まった。

「体育、大丈夫?…足」
「ああ、うん、短距離走とか激しいのだけ見学すれば平気なんだ」
「そっか。前行ってた学校、どんなとこだったの」
「普通の。共学だったし」
「うちよりランクよかったって聞いたよ」
「そうでもない、普通だったよ」

ぽつりぽつりと話しながら、ランニングのスタート位置に移動する。

「この歳で転校って、ちょっと大変だったね」
「いろいろ不安だったけど、よかった、本城くんみたいな人がいてくれて」

照れたように見上げて笑った顔を見て、本城は直感的に思う。
彼にあまり近付きすぎてはいけない。頼られすぎてはいけない。いい距離を保っていれば、誰も傷つかないだろう。
多分彼は、俺たちと、同じだ。
ふと見上げた校舎の窓越しに、姫野のさらさらした黒髪を見たような気がして、本城は少し目を細めた。



 *



本城が来ない。いつもならSHRが終わったらすぐ姫を迎えに来るのに。
なんで俺がやきもきしなきゃならないんだ。
姫の様子を窺いながらダラダラと掃除当番をこなす。
姫はいつも通り無表情で、前の席に座った同じクラスの土屋の話を聞いていた。

「だからさぁ、大事な試合なわけよ、応援に来い」
「めんどくさい」

姫の少し厚めの上唇はぷくっと上を向いていて、横から見ると色白の頬が膨れっ面をしているようにも見える。

「なんでー?どうせ休みだろ?絶対みんなモチベーション上がるんだって」
「勝つの?」
「それはわかんねぇよ」
「じゃあやだ」
「なんだそれ。つれねぇなぁ本当にお前は」

土屋は茶色の髪をかきあげて、耳のピアスを弄りながら足をぷらぷらさせた。
どうやらバスケ部の試合の応援に誘われているらしい。
姫にはよく、この手の声がかかる。姫はそれを98%くらいの確率で断る。だから、残り2%の中に食い込めた時の場の盛り上がり方がとんでもない。
俺も自分のライブには毎回声をかける。
姫には、来てほしい、自分の活躍を見ていてほしい、と思わせる何かがあって、いわばアイドルみたいなもので、みんなの中で姫の位置づけは「ほんの少しだけ友達以上」なのではないかと俺は思っている。
別に応援してくれなくても、褒めてくれなくてもいい。いてくれるだけでいいのだ。
そんなとりとめのないことを考えていると、本城がやっと現れた。

「姫野、一緒に帰れる?」
「本城、お前も説得しろよ、バスケの試合来てくれる気配もねぇんだよ」
「土屋も出るの?」
「出る」

諦めきれないでいる土屋の声を聞きながらふと教室の外に目をやると、見慣れない顔がゴミ箱を片手に所在無げに佇んでいた。

「もう帰る」
「おい、試合は」
「今度ね」
「嘘つけ!姫のあほ!」
「姫野、ちょっと下まで転校生の子を案内したいんだけど、一緒にいい?」
「……いいけど」

上を向いた唇が更に尖った気がした。
おいおい大丈夫かよ。
教室に居合わせた全員がハラハラしながら2人を見送る。

「なあなあ、転校生ほんとにかわいい顔なのな!本城挟まれてたけど大丈夫かなー、修羅場じゃねぇの、こっそり見に行く?」

入れ違いに教室に入ってきた阿部が生き生きとしている。

「やめろって。……でも気になるな」

たしなめるはずの俺の語尾にも迷いが出てしまった。

「ゴミ箱持ってたろ?裏のゴミ捨て場まで3人で行くんじゃね?」
「てことはぁ」
「窓から見える!」

校舎裏のゴミ捨て場までの道は、俺たちの教室の真下だ。
窓から下を見下ろした土屋と阿部の間から、俺もそっと顔を出した。

「来た」

姫と転校生に挟まれた本城の顔は僅かに転校生の方を向いていて、行く方向を指して何か説明しているようだ。
姫が半歩ほど遅れてそれに従っている。俯きがちなその表情はここからは見えなかった。
3人とも、こちらに気づく様子はない。

「あぁあ、姫、怒るんじゃねえの」
「つかよくここまで一緒に来たよな」

小声で話す俺たちの真下に差し掛かった時、転校生が2、3歩先を行き、姫と本城に手を振った。彼はそのままゴミ捨て場の方へ消え、手を振り返した本城と姫はその場に立ち止まった。

「ここで姫ぶちギレる」
「意外とあっさり帰ったりして」

2人は向かい合って二言三言会話をしたようだった。
次の瞬間。

「わー…」
「うっ…やべぇ」
「はは…ちょっと…反則だろ…」

姫が本城に手を伸ばし、制服の背中をぎゅっと掴んで抱き付いたところを、俺たちは見てしまった。
そのあと、本城が愛しげに姫の頭を撫でるところも。
俺たちは見た光景に照れて顔を引っ込めた。

「姫かわいすぎねぇ?!何話してこの流れかすげぇ気になる!」
「あー本当やばい、勃つかと思った」

ちなみに、そう言う土屋も、阿部も俺も恋愛対象は女のひとだ。
なんだ、ヤキモチからのイチャイチャかよ。修羅場の心配して損した。
2人の関係が自分の想像よりも密で対等で、俺は安心半分、やっかみ半分の複雑な気持ちを持て余すことになった。
俺たちが知らない姫の顔を、きっと本城はたくさん見てきたんだろう。
きっといちいちかわいいんだろうな。
さっきのは、俺でも少しキュンとしてしまった。

「あーあ、バカバカしい、帰ろうぜ」
「ちょっと待って!」

一気に醒めた俺と土屋に、阿部の穢れない目が眩しい。

「転校生すげぇいい動きしたと思わねぇ?多分さぁ、気遣って『ここまででいいよ、ありがとう、邪魔してごめんね?』的なこと言ったよな!」
「いや知らねぇけど」

勝手なイメージによる声真似がなよなよしていて気持ち悪いことこの上ない。

「絶対言ったって!あー、めっちゃいいやつ。仲良くなりたい」
「なれば」
「お前のポジティブな思い込みは世界を救うな」
「明日3組行こうぜ!」
「俺はいいわ」
「俺も」
「なんでー!」

まぁ、人との垣根を次々突き崩す阿部はすごいと思うけど。
3人で教室を出ると、ゴミ箱を持った転校生が戻ってくるところに出くわしてしまった。
ああ。

「あ!おい!転校生!」

躊躇なく声を上げる阿部。まあそうなるよな。

「は、い…」

そして君の反応もこれ以上ないほど正しいよ。
急に知らないやつに声をかけられて驚いた顔でこちらを見る転校生。
確かに。近くで見ると本当にかわいい顔だ。まんまるの目に小ぶりの鼻と口がついていて、姫より少し優しげな、ふんわりした感じ。

「俺1組の阿部!お前は?」
「野島です」
「お前らも名乗れよ」
「…土屋」
「俺は中川。本城、いいやつだから頼ったらいいよ」

野島は丸い目をさらに一瞬見開いた。

「ありがとう。でも姫野くんになんかちょっと、迷惑かけちゃったかも」

野島はなんとも言えない、情けないような申し訳ないような恥ずかしいような、複雑な顔をした。
転校できっと自分が1番不安なはずなのに。お前がそんな顔で笑うことないのに。

「あぁ、あいつら付き合ってんだ。でも全っ然大丈夫、イチャイチャイチャイチャしてっから。気にすんなよ」

阿部がまた余計なことを言ったと思ったけど、野島は今度は満面の笑みを見せた。

「そっか、心配することなかったね」
「つか、転校してきて早々気遣いすぎだろ」

見た目が俺以上にチャラい土屋が無愛想に言ったけど、気持ちは伝わったみたいで、野島はうん、とまた笑った。

「なんか悩みあったら1組に来いよ、な?」

阿部が歩き出しながら声をかけたので、俺は阿部に見えないように野島に目配せをした。

「うるさいやついるけど」
「誰?」

自分のこととは考えもしないのか、阿部がキョロキョロして、野島はクスクスと笑った。

「あ、あとさ、お前足悪いの?」

俺と土屋は青ざめた。

「そういうこと聞くなよ、野島ごめん、こいつ悪気はないんだけど」
「阿部は本当に阿部だな」

一方の野島は気にした様子もない。

「いいんだ。生まれつき少し股関節が悪いだけで、全然気にしてないから。自分が足引きずること、普段は忘れてるんだよ」

野島の笑顔に少しほっとして、彼とはそこで別れた。
階段の踊り場の窓から、平和に晴れた午後の空が覗いている。

「やっぱいいやつだった」
「とりあえずかわいかった」
「土屋、もうお前男いけんじゃねぇの」

当面は問題が起きなそうでよかった。あとは野島が早く学校に慣れればいい。友達も、その気があるなら彼氏も、すぐできそうだ。案外、土屋が本気になっちゃったりして。
野島の背負っているものなんか何も知らずに、俺は悠長にそんなことを考えていた。



 *



本城は、姫野のクラスメイトたちが教室の窓からこちらを覗いていることに気付いていた。
野島にゴミ捨て場の位置と仕様を説明しながら、斜め後ろを歩く姫野にも気を配る。
ただ、案じていたほど事態は悪くならなかった。

姫野を迎えに行き、彼の教室を出た時のこと。
姫野を連れて廊下に出ると、待っていた野島が姫野に視線を向けて笑顔になった。

「初めまして、野島です」
「……どうも」

本城は姫野と野島に挟まれる形で歩き出した。
野島と目を合わせようとしない姫野を見て、本城は野島に言う。

「こっちは姫野。俺の彼女」

すると姫野は珍しく狼狽し、非難するような目を本城に向けた。

「か、彼女って、誰が!バカじゃないの!」
「じゃあ彼氏?」
「知らない!どっちでもない!」

ますます赤くなる姫野と本城のやり取りを野島は笑いながら見ていた。それから姫野に向かって言った。

「すごくお似合いのカップルだね。なんかいいな」

姫野はそこで初めて野島の顔をちらっと見たようだった。

「……困ったら本城を使えば」
「そんな、俺を物みたいに」
「そんな時くらいしか利用価値ないでしょ」

本城は、姫野の言葉に野島への優しさを感じとり、少し意外な気がした。野島も姫野によい印象を持ったらしく、ニコニコしている。

「姫野くん、よろしくね。あとね、僕は男の子好きにならないから。邪魔はしないから」

その宣言があまりに唐突で力強くて、本城と姫野は一瞬押し黙った。それを感じた野島が慌てる。

「いや、なんか僕、そういう誤解されること多くて……そんなつもりないのに友達無くしたり、するから……」

本城は、自分も第一印象でそう感じたことを思い出した。結果的には、あの勘は外れていたわけだ。

「そんな心配しなくていい。本城と仲良くすればいい」

姫野がきっぱりと言って、本城はまた少し驚いた。なんだかいつもより男前。また新しい一面を見た気がして嬉しくなる。

「姫野くんとも仲良くなりたいな」
「俺のこと何も知らないのによくそんなこと言えるね」
「えー、少しわかったよ。姫野くんはすごく優しいね」
「は?意味わかんない」

ゴミ捨て場へは一度外へ出る必要がある。
校舎を右手に迂回しながら曲がると、あとは一本道だ。
上からこちらを窺っている者たちの期待に反してなぜか心を通わせつつある2人の会話に、本城は疎外感を感じ始めて苦笑した。

「あそこの小屋みたいなとこがゴミ捨て場だよ」
「じゃあここまでで大丈夫。ありがとう」
「また明日」
「姫野くんも、ありがとう」
「ん」

野島は軽く手を振ってから、歩いて行った。
本城は姫野に向き直って見下ろす。

「付き合ってくれてありがとう。帰ろっか」
「うちに来て」
「ん?うん。嬉しい。誘ってくれるの」

姫野が急にぎゅっと抱きついて来て、本城は反射的に抱き締めた。
どうしたんだろう。今日は珍しいことばっかりだ。
野島の存在が影響していることは自明で、でも野島への当たりが優しかっただけに、姫野の心の動きがわからなくてぞくぞくした。
心を許していない相手に愛想良く振る舞うようなことを、姫野は絶対にしないからだ。仲の良い連中にも滅多に笑顔を見せないのだから。
抱きついた姫野を見て、窓から覗いてるやつらはきっと驚いただろう。構わない。多少見せつけてやれ。
姫野は俺の前ではこんなにかわいいんだ、って。
まぁ、俺もびっくりしてるんだけど。
こんなに好きで、一緒にいて、こんなに姫野のこと見てるのに、知らない顔やわからないことがふらっと出てくる。
つやつやの黒髪を撫でながら、自分の欲求がまた暴走しそうな気がして、姫野を抱く腕に力を込めた。



部屋に入るなり姫野が首に腕を回してキスをしてきた。
いつもより積極的で強引で、深く深くなっていくそれに、本城は敢えてされるままになった。
姫野の背中に腕を回して、頭の後ろを支え、キスに応えて舌を絡める。
身長差があるので、姫野は少し背伸びをして一生懸命首を伸ばしてくる。
それがかわいくて無理矢理押し倒してしまいそうになるのを抑えて、姫野の動き一つ一つを大事に受ける。
姫野の柔らかい唇が、角度を変えて何度も本城の唇を包んで舐める。その間に割り込んで舌先で上顎に触れると、姫野から吐息が漏れた。

「…ん……ぅん……」
「…姫野」

普段より少し高めの姫野の声を間近で聞けば、いつも理性が剥がれ落ちて行く。キスだけでは物足りなくなって姫野を呼ぶと、その肩がぴくりと動いた。
姫野は唇を離して本城の手首を掴み、ベッドの方へ歩く。本城は後に続きながらその後頭部に目をやった。
さらさらの髪から覗く耳の形がきれい。背中が少し、緊張してるみたいだ。
姫野は本城をベッドに座らせて見下ろし、本城はその目を真っ直ぐに見返した。姫野の頬が赤い。
本城は姫野の腰を抱き寄せて自分の膝に向かい合わせに座らせた。

「姫野、何考えてる?」
「…別に」

本城はキスされながらそのまま押し倒された。すぐに柔らかな舌が入ってきて、ゆっくり本城の咥内をなぞった。
姫野の手が遠慮がちに首を撫で、下へ下りていく。
指先が服の上から脇腹を辿って腰骨に触れる。制服のシャツの裾から入ってきたそれが冷たくて、本城の体は反射的に強ばった。
肌の感触を確かめるように撫でる手のひらがさらさらしていて気持ちいい。親指がそっと臍の縁をなぞっていく。胸の方に上がりかけた手が、迷うようにまた下りた。
姫野の、ゆっくりと丁寧な動作一つひとつが、本城は愛しくてたまらなかった。どんな順序でどんな風に彼が自分に触っていくか全部感じたくて、ずっと目を閉じて全神経を姫野の手に集中していた。
その間も、舌と舌の絡まる音が微かに聞こえている。

「雪哉」

一瞬、姫野が唇を離して本城を呼んだ。心細そうなその声に、本城は姫野をぎゅっと抱く。

「いるよ、ここにいる」
「雪哉」
「うん」

姫野は本城を呼び、抱きしめられながらもまさぐる手は止めず、片手でベルトを外してファスナーを下げた。

「腰上げて」
「うん」

体をずらして本城のズボンを下げると、姫野は下着の上からキスを落とした。
緩く勃ちかけていたそこがぴくりと反応する。本城は浅く息を吐いた。
姫野がそのまま下着越しに舌を這わせたのを見て、本城は必死で理性を繋ぎ止めた。
こんなのされたら。もう。
薄いグレーのボクサーパンツは、自身から溢れた先走りと姫野の唾液で色を濃くしている。

「雪哉」
「ん…」
「…雪哉」

姫野は何度も本城を呼んだ。そうして呼ばれてキスをされる度、本城は自分の中にどんどん熱が溜まっていくような気がした。
姫野は本城の下着を下ろし、本城のものに今度は直接キスをする。

「…っ……」

本城は堪らず声を漏らした。あり得ない。こんな積極的な姫野なんて。すっごくいい。
自分のものに舌を這わせたり先端を吸い上げたりしている愛しい人を見ながら、息が苦しくなった。

「ねぇ姫野、…大好き」

思わず口にする。姫野は目も上げず無言だったけれど、耳まで真っ赤になった。
姫野は咥内に本城を受け入れながら、もぞもぞと自分のズボンと下着を脱いで、戸惑いがちに後ろに手を回した。

「自分で解すの?」

姫野は目を伏せたまま、僅かに眉を潜ませて息をつめた。

「ねぇ、俺がしたい」

姫野は答えない。

「姫野?」

本城が心配になって姫野の髪を指ですきながら言うと、姫野は一旦本城から口を離した。

「いい、今日は」
「なんで」
「いいから。…きもちい?」
「うん。すごく感じる。おかしくなっちゃいそう」

頬を撫でながら言うと、姫野が一瞬安心したような顔をして、本城は驚いた。
やっぱり今日の姫野はおかしい。気持ちが外に出過ぎだ。

「んっ…ぁ……ふ、う…」

クチュクチュという音に混じって、再び本城のものを含んだ姫野の口から喘ぎ声が零れる。
それが直接優しい刺激になって本城に伝わり、本城はもどかしさに身じろぎをした。
姫野は口をいっぱいに開けて本城を喉の奥まで導き、舌を使ってグプグプと音を立てた。頭を上下に動かして擦り、上顎で先端を撫でる。口の端から唾液が垂れて、本城の下腹部が濡れていく。
だめだ。もう狂いそう。
自分でも何だかわからない激しい衝動に駆られて上半身を起き上がらせようとした本城の上に、姫野が跨がってそれを止めた。姫野はそのまま上に着ていた服をすべて脱いでいく。白い滑らかな肌が露になる。

「雪哉」

姫野は、肘を後ろについて少し体を起こした本城の胸に軽く手を置いて、また本城を呼んだ。
姫野が酷く綺麗で、本城はすぐには返事ができなかった。ただ、姫野がゆっくりと腰を落とすのを見ていた。

「っ、あん…!」
「あぁ…」

姫野は完全に本城を受け入れて、すぐには動かずに本城にすがるようにぴったりと抱きついた。本城も大事に抱き返した。
それだけで互いの気持ちがわかる気がした。
好きだ。
好きだよ。
姫野が腰を動かし始める。自分で解すのに慣れていないためか、姫野の中はいつもより狭く、本城は姫野の体を傷つけないか心配になった。

「急に動いたら…痛くない?」
「いたく、ない」

姫野の表情から苦痛は感じられない。目が伏せられていて、まつげがくっきりと見えた。

「あっ、あんっあ、ぅああ!あ」
「っは」
「あ゛あっ、ゆ、ゆき、んんっ」
「すごい…擦れて…気持ちいい」
「んぅっ、俺も、あ、ああ!」

結合部分からクチクチと音がして煽られる。
本城はそれ以上に、滑らかな裸体を揺らして腰を振る姫野の姿に、射精を抑えるのに必死だった。

「ああ…たまんない…ひめの」
「きもち、いい?」
「うん…もう、っやばい」
「んっ、おれも…あ、ぁん、いぁぁ、」
「…いきそう」
「あ、いって、俺の中、に、出して、っ出して、」
「みこと、っ」
「あ、ああんっ!」

本城は熱いものを姫野の奥に吐き出した。姫野が出したものが本城の腹を濡らした。
姫野は顔を紅潮させて息を弾ませながら、本城の手を握った。その手を握り返す。
2人とも、その手を見ていた。

「はは、すっごい早かった」
「気持ちよかった?」
「よかったよ、姫野がエロくて」

姫野が本城の手を握り直す。あ、恋人繋ぎ。

「雪哉、俺のこと、好き?」
「好きだよ」
「どのくらい?」
「姫野の声も動作も表情も何もかも、全部俺だけのものにしたいと思うくらい」
「俺だけで、いいの?」
「俺は姫野しかいらない」
「……うん」
「姫野は?姫野は俺のこと好き?」
「うん」
「どのくらい?」
「……死にたいくらい」
「死なないでよ」
「殺してよ」
「嫌だよ。殺さない。その代わり、死ぬほど気持ちよくしてあげる」

本城は、抜かないまま姫野を抱いて体勢を入れ換えた。



「あー、あーっ、ああ、いやぁっ」
「ほら、もっと出して」
「だめ、もう出ない、出ないからぁ、やぁぁ!」
「嘘ばっかり。まだ出るって」
「あうう!っあ、ああ!ん゛ああ!」

何度目の射精か、互いにもうわからない。
本城はもうずっと姫野に挿入したまま、胸の先端を舐め、ドロドロのものを手で扱き、唇や首筋や鎖骨に深く口づけながら腰を打ち付けていた。

「ほら。出るじゃん」
「う…や、やぁ、もうやめ…」
「なんで?殺してほしいんでしょ」
「やだ、もう…死んじゃう…」
「死んじゃえ。俺に挿れられたまま死んじゃいなよ」
「や!やだ!もうやぁぁぁ!!」

精液と汗と、もうなんだかわからない液体まみれの姫野を、本城はまた責め始める。腰を回しながら姫野のものを握ってクチュクチュと揉んだ。

「あっ、ああっ!ゆ、き、もうっやめて、」
「気持ちいいくせに」
「んん、もうくるし、や、やぁ、」

潤んだ姫野の瞳が哀願するように揺れて、本城は薄く笑った。

「じゃあほら最後」
「あ゛、ぁ、」
「やめてあげるから、お願いやめて、って言って」
「きゃん!」

先端を強く擦ると、姫野が高い声で鳴いた。

「っはは、かわい、子犬みたい」
「ばか、あぁ、あ」
「ねぇ、言ってよ、ちゃんとお願いしないとやめないよ」
「やぁ……も、おねがい、あぅ、やめてぇっ!」
「どうしようかな」

姫野の目が見開かれる。

「じゃあ最後に、出して」
「う゛あ、もう出な、」
「出してってばほら」
「ぅぐっ、ああん!あーっ!!」

もうほとんど透明の液体が、僅かにこぼれ出た。
それを見た本城が、自分の快楽のためだけに遠慮なく腰をぶつけ始めた。

「だめ!もう、こわれる!」
「んっ、もう少し…」
「こわれ、あ゛、ん、あ゛ぅ」
「っ…はぁ…あぁ…」

ぐったりと姫野の上に覆い被さると、焦点の定まらない瞳を半分閉じて肩で息をする、かわいい恋人を間近に見た。
本当に俺は君が好きで好きでどうしようもない。他のことなんてどうなっても全然構わない。ただ、君のことばかり。君がそばにいてくれるだけで俺はこんなに満たされる。でも、すぐ足りなくなってしまう。こんなにひどく犯して貪ってもまだ全然足りないよ。
ねぇ姫野。
姫野は?

「姫野が体ごと全部、俺の一部になっちゃえばいいのにな」

呟いた言葉は、意識が薄れた姫野の耳に届いただろうか。
仰向けのまま目を閉じている姫野の唇にキスをして、本城はその横に寄り添った。
抱き枕に抱きつくような格好で姫野の体をすっぽりと包む。耳と頬に何度かキスをすると、姫野が目を開けた。

「おはよう」

反応は期待していなかったし、酷く抱いたから文句を言われて2、3発殴られるかもしれないと思っていたのに、姫野が予想に反して本城の顔を見たので、本城は少し顔を離して微笑んだ。
すると姫野はガバッと音がするほど思い切り背を向け、そこからおずおずと仰向けに戻った。
本城はそれを見て吹き出してしまった。

「どうしたの、今日ほんとに変だ」
「うるさいから」
「ねぇ姫野、」

さっきから聞きたかったことを聞くことにする。

「なんで野島に優しくしたの?」

姫野は天井に顔を向けたまま息を吸い込んだ。薄い胸がすうっと膨らむ。

「……俺だったら、転校なんか嫌だと思ったから」
「そっか、優しいね」

姫野は心底不本意だと言いたそうな顔をした。
本城は、くっきりと浮き出た姫野の鎖骨に、そっと触れた。

「…あと」
「あと?」
「…うれしかった。から」
「何が?」

姫野の声はどんどんぶっきらぼうになっていく。姫野が顔を背けてしまうのを追いかけて、本城は体を起こした。

「…雪哉が言ったの」
「何を?」
「…俺が…彼女、って。野島に」

そんなことで。そんなことで喜んで。
本城は腕を回してぎゅうぎゅうと姫野を強く抱きしめた。耳元で更に聞く。

「今日変だったのも、野島のこと考えてたから?」
「…素直に、」
「え?」

姫野の声はぶっきらぼうになり過ぎてもうよく聞き取れない。

「素直になんないと、…本城が、野島に……野島の方行くかもって、思って…」
「ヤキモチ妬いてくれたの?」
「悪い?もうほっといて!」

無理がたたって遂に爆発した姫野を、本城は上から押さえつけてまさぐった。

「は?!もう無理!」
「姫野がかわいすぎるから悪い」
「明日学校行けない!」

本城はこれ以上ないくらいに優しく笑って見せた。

「明日は一緒にサボろ、ね?」

返事を待たずに唇を塞ぐ。
どうしてそんなにどんどん俺のツボをついてくるんだ。大好きだよ姫野。胸がきゅうってなる。だから、ヤキモチ妬く必要なんか、全然ないんだ。

「俺は」

キスの合間に言葉を挟む。

「いつもの姫野が」

だんだんと姫野の抵抗も弱まっていく。

「好きだから」

胸の先端を指先で撫でると、姫野が微かに息を荒げる。

「無理することなんか」

親指と人差し指で摘まんで軽く引っ張る。

「全然ない」

姫野が腰を浮かした隙に、後孔の縁に指を這わす。

「けど」

本城が出した体液でまだ濡れているそこが、ヒクリと反応した。

「今日の姫野も」

少しずつ、指を奥へ進める。

「かわいくて」

姫野の口から、ああ、とため息が漏れて、本城は唇を塞ぎ直してそれを飲み込んだ。

「好きすぎて、苦しい」

姫野が少しでも、自分の一部になるように。







「なぁ中川、3組行こうって」
「うっるせーなぁ1人で行けよ」
「みんなで行こうよ、みんなで野島と仲良くなろう」
「迷惑だっつの」
「土屋も!ほらー」

阿部が野島野島とうるさくて、俺は思わず姫に目をやる。
昨日は休みだったけど、今日は普通に朝から来ている。
本城も昨日は休みだったと聞いて、俺の中では、姫のヤキモチからのヤりすぎによる体調不良に本城が付き合う、というシナリオが勝手にできあがっていた。まぁ、ないか。
でも本城は姫に対しては意外とドSだったりして。だってあの姫があんなにかわいいんだからな。本城の制服を握った姫の手を思い出す。
教室のドアから遠慮がちにこちらを覗いている野島に気づいて手を振ると、阿部が大声で野島を呼んだ。
野島は恥ずかしそうに教室に入って俺たちに近づく。

「あの、姫野くん」
「何」

俺も阿部も土屋もその他大勢も、野島が訪ねてきたのが姫だったのが心底意外だった。
来てしまったのか。修羅場が。
教室中が静まる。野島はその空気に竦み上がったようだったが、姫がそれに構わず問い詰める。

「何なの」
「あ、あの、こ、古語辞典、とか、持ってたら、貸してほしくて……」

顔を赤くした野島を無視して姫はロッカーへ立ち、辞典を取って戻ってきた。

「はい」
「あ、ありがとう……次の休み時間に返すね」

下を向いて踵を返した野島を、姫が追いかけて丁度ドアのところで捕まえた。
俺たちのところまでは話の内容は届かず、話し終わった野島の顔がぱぁっと明るくなったのだけが見えた。

「なんだろう」
「なんだろうな」

席に戻ってきた姫に阿部が抱きついた。

「姫、野島と何話してたの?」
「うっさい」
「ねえねえなになに」

姫は阿部を引き剥がすとめんどくさそうに口を開いた。

「帰りに本城となんか食べてくから、野島も来ればって言っただけ」

一瞬の沈黙のあと、阿部が叫んだ。

「俺も行きたい!」
「お前は本当に阿部だな」
「歪みねぇな」
「行こうよ行こう、みんなでさー!」
「……俺も行こっかな」
「土屋、お前」

一体何がどう作用したのかわからないけど、やっぱり心配することなんかなかったんだな。みんなちゃんと、大事な人を大事にして。
あーあ、いいなぁ。俺も彼女ほしい。

「姫と野島が2人でいるのって、ちょっと微笑ましかった」
「うん。わかる」
「なんか、よかった」
「癒された」
「変な気持ちになりそうだった」
「なにそれ」
「なんかでも、わかる。言葉にならない気持ち」

クラスメイトたちがふざけている。そうやってネタにされて、やっぱり姫はみんなに愛されてると、俺は思う。
結局その日の放課後は、本城と姫、野島、阿部と土屋と俺の6人で、姫の絶対的な宣言でクレープを食べに行き、土屋が野島にジュースを奢ってありがとうと言われて照れているところの写真を撮ってみんなに回すことになった。





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