白衣と、包帯
「先生。また平川が」
2年の生徒が駆け込んできて、保健医の松田は軽くため息をついた。
平川がいるという屋上へ、松田は長身に白衣をはためかせて階段を上る。一見冷たく見えるその顔の奥に、浮上しそうな感情を押し留める。
ポケットにつっこんでいる手を、軽く握った。
屋上へ続く鉄扉を開けると、人だかりの真ん中に、平川が横たわっていた。
その両手に、首に。巻かれた包帯。
松田に気づいて体をよける生徒たちに目礼しながら、平川の傍に片膝をつき、軽く頬をたたいた。
「平川。起きなさい」
ゆっくりと目を開け、焦点が合い、松田に気づくと、平川は微かに笑った。
「松田先生」
周囲の生徒たちから安堵のため息が漏れる。
「大丈夫か」
「大丈夫」
ゆっくり起き上がる平川に手を貸し、松田は保健室へと向かう。その制服にこびりついた体液らしきものから目を逸らすため、手に巻かれた包帯を見た。
薄汚れて、糸が飛び出している。
平川シロ、というのが、彼の名前だ。
変わっているのは名前だけではない。その風貌、雰囲気、そして包帯。
それから、いかがわしいアルバイト。そのために度々倒れて発見される。学校内で彼を知らない生徒はいない。
「換えようか、包帯」
「いいの、これは」
ベッドに寝かせて尋ねるが、平川は微笑んで首を横に振る。
平川は常に、両手首から指の下までの手のひらの部分と、首に、汚れた包帯を巻いていた。
そこに隠れた皮膚の状態を松田も見たことがなかった。もし怪我をしているなら汚れた包帯は良くないと言っても無駄で、決してそれを解こうとしなかった。
柔らかそうな茶髪は生まれつきらしい。身長は170cmほどで、どちらかと言うと細身だが、動きが堂々としていて少し大きく見える。右目が左目より大きく、左目は一重だった。その上の眉尻と唇と舌にひとつずつピアスがついている。その風貌なのに表情はいつも優しく、独特の雰囲気を醸し出している。
「少し寝なさい」
「先生」
「なに?」
「今日の相手は先輩だったんだけど。今度優しくしてくれるって約束で、1万で首絞めさせたげたの。そしたら落ちた」
「危ないから辞めなさい」
「苦しいの我慢したし、中出しもコミコミだよ。安いよね」
無邪気に笑う平川をじっと見つめた。
「相場だといくらくらいかな、ね、先生」
「さあな。でも本当に、気絶するほどというのは危ないよ。命に関わる。もうやめたらどうだ」
「先生が代わりになってくれるなら、全部やめる」
つかみどころのないような独特の雰囲気が少しだけ締まる。松田はまた、平川をじっと観察する。お前はどこまで俺を信用している?
「ふざけていないで。おやすみ」
「おやすみなさい」
素直に布団を被るのを見届け、ベッドを囲むようにカーテンを締める。その奥から微笑んで自分に軽く手を振る平川。そして、松田の頭に浮かぶイメージ。
溺れる。
ぬるい水が、白衣へ、その下の衣服へ、さらに下着の中へと浸透して。
体を、何の違和感もなく包んで、撫でて、息ができなくなって、それでもなお、心地よさは増していく。
平川。
纏う色が明るくて、白くて、ぬるい。
このまま溺れて、死んでもいい。
気持ちを切り替えて仕事に戻ろうとする松田には、自分がそこからもう抜け出せないことがわかっていた。もう、抜け出す気もさらさらなかった。
こんなに心が荒れている。平川がまた、3年の誰かに抱かれたと知って。松田はゆっくりと首を回してストレッチをする。リラックスをするために。
初めは、目立つ子だ、という印象だった。
見た目も、包帯も、無理のない笑顔も、いつも1人でいることも、全てが彼を周囲から浮き上がらせて見せるようだった。単純に興味を持った。
話してみると、彼は見た目に反して、どちらかというと大人しい部類の人間だった。その時開いていたピアスは眉尻だけだった。開けるのは痛くないかと聞くと、平川は平気な顔で「痛かったけど、開けたいっていう人がいたから開けさせてあげた」と言った。
そこから、松田は度々平川からアルバイトの話の断片を聞き出すようになった。惜しげも無く自分を切り売りする平川への興味は増す一方だ。
「また平川がやらかしたとか」
「そろそろ退学も考えては」
「父母会が」
「他の生徒への影響は」
職員会議でざわざわと耳に入る他の教師の言葉を、松田は聞き流していた。
退学か。笑ってしまいそうだ。
この中に1人でも、平川のことを本気で心配できる奴が交じっているだろうかと松田は思った。
平川がなぜ、他の生徒から金をもらう代わりに抱かれるのか。なぜ頑なに、奇妙な包帯を巻いたままでいるのか。なぜ友人が1人もいないのか。教師や関わりのない生徒に敬遠され蔑まれても、なぜあんなに綺麗に微笑んで見せることができるのか。その状況でなぜ、1日も学校を休まないのか。
そんなことを真剣に考える奴は1人もいないに違いない。皆、違うことを考えるので精一杯なのだ。
もしくは、考えないことで精一杯なのか。
だから、俺が考える。俺は、この学校の保健医だから。俺が、見ていてやるから。俺だけが。
「松田先生、あれの精神状態というか、その、精神鑑定みたいなものを、どこかの機関でしてもらうことはできないんですか」
平川の学年主任が言う「あれ」が平川を指すと気づいて、松田は苦笑して見せる。
「それなら、まず精神科を受診させるというのがいいかと。その前に、私が何度か面談をしてみます」
本当は平川以外の全員を精神鑑定にかけてやりたい気分だったが、松田は自分をコントロールする。穏やかに、精神科の受診でよく挙げられる精神疾患や症状について説明し、皆がついて来られなくなる直前で話をやめた。
「ま、松田先生に任せておけば安心だ」
「我々にはわからない分野だからな」
そこで笑いが起きる意味が松田にはわからない。笑っている場合なのだろうか。
付き合いきれない。それが、保健医をしていて他の教師に持つ感想だった。
松田は、保健室の隣の面談室で、平川シロと向かい合っていた。
生徒が悩みを相談するための部屋だ。ゆったりと座れる椅子がいくつか置いてあり、お互いに楽な体勢で話が出来る様にしてあった。
平川は、一人掛けの大きく深い布張りの椅子に腰掛けている。その斜め前にあるソファで、松田は話し出す。
「楽にして。最近楽しかったことの話でも聞かせてもらえるかな」
「先生は?最近なんか楽しかった?」
平川の表情は穏やかだ。
「オセロ世界大会の中継が楽しかった」
「オセロの世界大会?」
平川が笑い、松田も微笑んで頷く。
「気がついたら休みの日が1日潰れていた」
「先生って変わってる」
平川は、無邪気に笑う。本当に、無垢な笑顔だ。松田は見入ってしまう。
「あ、今、お前に言われたくないって思ったね、先生」
「いや、思っていない」
「本当?」
「私は、平川が変わっているなんて、思ったことがないよ。平川は普通で、真っ当だ」
「そんなの初めて言われた」
「何が楽しかった?」
「うーん。なにか……昨日ヤった後輩が1分でイったこととか」
「笑った?」
「ダメだと思ったけど、笑っちゃった、少し」
松田は頭の中にメモをとる。
このアンバランスさ。話す内容とその表情の落差。
「平川のそのアルバイトのこと、また聞いてもいいかな」
「アルバイトね」
「おかしい?」
「うん、いや、間違ってないけど」
首元に手をやる平川。そこにはやはり、包帯が巻かれている。
平川が、どのタイミングで体を動かすか、どの言葉の後に目を逸らすか、平川シロのここでの全てを、松田は丹念に記憶していく。
「どうやってアポを取るの?メールかなにか?」
「俺と、相手がってこと?」
「そう」
「アポは取らないけど。俺、携帯持ってないし」
「携帯持ってないんだ」
「うん」
「もし、今日会いたいと思ったら、どうすればいいの?」
「探せばいいんじゃない?俺、学校休まないし」
「なるほどね」
「考えたことなかった。俺に会いに来るやつの気持ちなんか」
また。突き放した言い方と、人懐こいような表情。
「あ、あと、昨日の後輩は次の月曜にまたヤりたいって言ってたから、そう、予約優先みたいな感じもする」
「もし予約が重なったら、どうする?断るの?」
「3人でヤる。向こうがいいって言えばだけど。こっちはお金が儲かるから効率がいいの」
松田はひとつ頷く。本当は首を横に振りたかったが、首の神経に嘘をつかせる。
「包帯の下は、どうなってるの」
平川は少し身じろぎをして目を逸らした。
「どうもなってない」
「傷があるわけじゃないの?」
「見る?」
今度はこちらが動揺しそうになる。予想外の反応だった。
「良ければ」
「松田先生なら見せても大丈夫だよ、俺、先生を信用してる」
真剣な顔をしたと思うと、一気に表情を崩して、平川は声を上げて笑った。本当は信用なんかしていないのだろう。
不安定な。
平川はまず、右手で左手に巻かれた包帯を解いた。現れたのは、日に焼けていない白い肌。綺麗な肌だ。
「こっちも」
左手で解いた右手側も同じ。白い。
「首は、タダでは見せられない」
「条件は?」
平川は、立ち上がって松田のすぐ向かいまで来た。
「殴って」
平川の顔には何の表情もない。
「殴る?なぜ?」
「俺を殴る先生の顔が見たいから」
「俺を試してるのか?」
「こっちが、先生の本当の顔」
平川は冷たい目をした。右目より細い左目だけが、さらに細くなった。あまり見せない表情だ。
「先生は、俺を軽蔑してるんでしょう?仕事だから仕方なくこんなことをしてる」
「それは違うな」
「普段は優しい穏やかな先生を演じてるんだ。本当はうんざりしてるのに、どうしても馬鹿な生徒の相手をしなきゃなんない。金のために。俺と同じだ」
「平川と同じ?お前はうんざりしているのか?」
松田は、極力感情を抑えながら、会話をコントロールしていく。自分の一人称を「私」から「俺」にしたのも、話し方を少し乱暴にしたのも、故意だ。
平川は試している。松田がどれだけ自分を許すか、見極めようとしている。なら、それに乗ってやろう、と松田は思った。
「俺はお前のことを馬鹿だと思ったことはない」
「嘘でしょ。信じられない。先生みたいに頭のいい人が俺のことを見下さない訳がない」
「平川は頭がいい。素直な、いい子だ」
「なんだそれ。気味悪いよ。俺のバイトは不健全でしょ?先生としては、辞めさせなきゃならないんでしょ?仕事だもんね。他の先生とかもうるさく言ってくるんじゃない?」
「さあ。どうかな」
「ねえ先生。殴ってくれないの?この中、見たくない?」
「今日はもう終わりにしよう。話したくなったらまたおいで」
「先生、怒ったの?」
平川は無表情のままだ。それでも少し不安になったようだった。
そこで松田は、決定的な一言を言ってやる。
「平川を買い被っていたようだ。もっと興味深い子だと思っていたんだけど。他の生徒と大して違いはないな」
挑発したまま部屋を出る。賭けだった。しかし恐らく、平川は自分を意識するだろうと想像する。
保健室へ帰って、松田は深呼吸をした。
危ないところだった。
もう少しで、平川の挑発に乗り、喜んで殴ってしまうところだった。
殴って、撫でて、抱いて、溺れるところだった。
そんなことはいつでもできる。いつだって、堕ちて行ける。まだ、もう少し、駆け引きがしたい。平川シロのもっと奥の方を覗きたい。
次に会うときに平川がどんな顔をするか、楽しみだ。禁煙であることを忘れて、松田は煙草に火をつけた。
数日後。保健室の内線が鳴り、取ると外線が入っていると言う。相手の名前は、平川。
「はい、松田です」
「松田先生。本当に繋がった。平川です」
「平川。どうした。学校は?」
「俺ね、携帯買ったの。この間先生が言ってた電話予約制?やろうかと思って」
「学校にいるのか?」
「屋上」
「今日の予約状況は?」
「今日は店じまい」
「今から行ってもいいかな」
「予約する?」
「しない」
あはは、と笑う声が遠い。
「松田先生なら、どんな予約より優先するんだけどなあ」
電話を切り、白衣のポケットに新しい包帯を入れて、松田は屋上へ向かった。
気分が高揚していくのを感じる。
深呼吸。
「先生」
屋上の扉を開けると、少し離れた場所で壁にもたれていた平川が、ゆらゆらと手を振った。
「天気がいいな」
「気持ちいいよね」
涼しげな顔で松田を見上げる平川。首と両手はやはり包帯で覆われている。
「見て、先生」
おもむろに制服のポロシャツの裾をめくり上げ、平川は胸を晒した。松田は平川に気づかれないようにそっと息を飲む。
みぞおちの辺りに、赤黒い大きな痣があった。その他にも、ミミズ腫れが幾つも。ムチの痕らしい。
「すごい乱暴する人に出会っちゃって。でも金払いが良くて、次の予約も断らないで入れてあげた」
「手当てしないと。痕が残るぞ」
「先生、首、見せてあげるよ」
平川は松田の言葉を無視した。
「殴らなくても?」
「もう殴られるのはしばらくいい」
平川は苦笑しながら立ち上がる。
脆い。
落ち着いて見えるけれど、今この子は、均衡を欠いている。注意を要する。依存傾向。松田の頭の中に文字が刻まれていく。
平川は高さ30cm程のコンクリートの出っ張りに片足を乗せ、うまくバランスをとって立った。そのまま、包帯を巻いた右手を首にかける。包帯をつまみ、引っ張った。それは少し抵抗して平川の首を絞め、それからゆっくりと解けだす。
するする、するすると。
「ほらね、傷は、もうない」
平川が微笑みながら言う。
確かにもう傷ではない。
それは、傷跡だ。
大きく深い傷跡があった。切創と挫創の痕らしい。首に。まだ16歳のこの子の首に、こんなに酷い跡が。
「いつ、どうして、そんな」
自分をコントロールすることも忘れ、松田は呟いた。
「親がやった。いつだか覚えてない。そもそも何をされたかも、本当に綺麗に忘れた」
平川は笑っている。笑いながら、大きい方の右目から、涙を流している。きっと、飽和量を超えたのだ。やはり、今日の平川は限界に近い。思いながら、松田は自分に歓喜の鳥肌が立ったことに気づく。
「先生、俺ね、この傷跡がすごく恥ずかしいんだ。だから、包帯で隠すでしょ。そしたら余計目立つんだよね。だから、両手にも包帯を巻いたの。あいつ包帯だらけでキモいって、頭おかしいって、そう言われても、首を見られて引かれるよりずっと俺は幸せなんだよ」
真っ青な春の空を背にして、片足で立ったまま、平川は微笑む。左目が細くなる。右手に持った首の包帯が風に乗ってなびいている。
松田はポケットから包帯を取り出して、平川に近づいた。
「新しい包帯を巻いてやる」
「先生が巻いてくれるの?」
「そう」
「どうして?どうして、俺に構うの?」
「もう、堕ちてもいい。お前に」
痛々しい首を傾げる平川の肩を、松田は抱く。
「アルバイトは今日でもうやめなさい。金が欲しいなら、他の人間の倍払おう。殴って欲しいなら殴る。優しくして欲しいならこれ以上ないくらい愛してやれる。そうして、新しい包帯を巻いてあげるから。だから覚えておいて。平川をちゃんと見ていてやれるのは、世界中で私だけだよ」
先生だけ、と呟いた平川の首に、丁寧に包帯を巻いた。
「さあ。保健室に行こう。お腹の傷を手当てしてあげるから」
平川は震え出した。
「俺、先生しか、いないのかなあ」
知らない。俺以外に平川のことを大事に思える奴がいるかなど、俺は知らない。
驚くほど冷たい気持ちになりながら、平川の体を抱く。
「他の奴はみんな、お前の体だけが目的なんだろう?」
「知らない…」
「金で繋がるってことはそういうことなんじゃないかな。ちゃんと、平川の気持ちにだって、目を向けるべきなのに。悲しいね」
震えは止まらない。
「心配しないで。平川がぶつけたいことを、私は全部受け入れてあげられるんだよ。私はそういうことのプロだから。甘えていいんだ。ゆっくりでいいから、平川のことを、私に教えて欲しい」
ああ。堕ちる。
俺が。それとも、平川が。
2014.2.16
2年の生徒が駆け込んできて、保健医の松田は軽くため息をついた。
平川がいるという屋上へ、松田は長身に白衣をはためかせて階段を上る。一見冷たく見えるその顔の奥に、浮上しそうな感情を押し留める。
ポケットにつっこんでいる手を、軽く握った。
屋上へ続く鉄扉を開けると、人だかりの真ん中に、平川が横たわっていた。
その両手に、首に。巻かれた包帯。
松田に気づいて体をよける生徒たちに目礼しながら、平川の傍に片膝をつき、軽く頬をたたいた。
「平川。起きなさい」
ゆっくりと目を開け、焦点が合い、松田に気づくと、平川は微かに笑った。
「松田先生」
周囲の生徒たちから安堵のため息が漏れる。
「大丈夫か」
「大丈夫」
ゆっくり起き上がる平川に手を貸し、松田は保健室へと向かう。その制服にこびりついた体液らしきものから目を逸らすため、手に巻かれた包帯を見た。
薄汚れて、糸が飛び出している。
平川シロ、というのが、彼の名前だ。
変わっているのは名前だけではない。その風貌、雰囲気、そして包帯。
それから、いかがわしいアルバイト。そのために度々倒れて発見される。学校内で彼を知らない生徒はいない。
「換えようか、包帯」
「いいの、これは」
ベッドに寝かせて尋ねるが、平川は微笑んで首を横に振る。
平川は常に、両手首から指の下までの手のひらの部分と、首に、汚れた包帯を巻いていた。
そこに隠れた皮膚の状態を松田も見たことがなかった。もし怪我をしているなら汚れた包帯は良くないと言っても無駄で、決してそれを解こうとしなかった。
柔らかそうな茶髪は生まれつきらしい。身長は170cmほどで、どちらかと言うと細身だが、動きが堂々としていて少し大きく見える。右目が左目より大きく、左目は一重だった。その上の眉尻と唇と舌にひとつずつピアスがついている。その風貌なのに表情はいつも優しく、独特の雰囲気を醸し出している。
「少し寝なさい」
「先生」
「なに?」
「今日の相手は先輩だったんだけど。今度優しくしてくれるって約束で、1万で首絞めさせたげたの。そしたら落ちた」
「危ないから辞めなさい」
「苦しいの我慢したし、中出しもコミコミだよ。安いよね」
無邪気に笑う平川をじっと見つめた。
「相場だといくらくらいかな、ね、先生」
「さあな。でも本当に、気絶するほどというのは危ないよ。命に関わる。もうやめたらどうだ」
「先生が代わりになってくれるなら、全部やめる」
つかみどころのないような独特の雰囲気が少しだけ締まる。松田はまた、平川をじっと観察する。お前はどこまで俺を信用している?
「ふざけていないで。おやすみ」
「おやすみなさい」
素直に布団を被るのを見届け、ベッドを囲むようにカーテンを締める。その奥から微笑んで自分に軽く手を振る平川。そして、松田の頭に浮かぶイメージ。
溺れる。
ぬるい水が、白衣へ、その下の衣服へ、さらに下着の中へと浸透して。
体を、何の違和感もなく包んで、撫でて、息ができなくなって、それでもなお、心地よさは増していく。
平川。
纏う色が明るくて、白くて、ぬるい。
このまま溺れて、死んでもいい。
気持ちを切り替えて仕事に戻ろうとする松田には、自分がそこからもう抜け出せないことがわかっていた。もう、抜け出す気もさらさらなかった。
こんなに心が荒れている。平川がまた、3年の誰かに抱かれたと知って。松田はゆっくりと首を回してストレッチをする。リラックスをするために。
初めは、目立つ子だ、という印象だった。
見た目も、包帯も、無理のない笑顔も、いつも1人でいることも、全てが彼を周囲から浮き上がらせて見せるようだった。単純に興味を持った。
話してみると、彼は見た目に反して、どちらかというと大人しい部類の人間だった。その時開いていたピアスは眉尻だけだった。開けるのは痛くないかと聞くと、平川は平気な顔で「痛かったけど、開けたいっていう人がいたから開けさせてあげた」と言った。
そこから、松田は度々平川からアルバイトの話の断片を聞き出すようになった。惜しげも無く自分を切り売りする平川への興味は増す一方だ。
「また平川がやらかしたとか」
「そろそろ退学も考えては」
「父母会が」
「他の生徒への影響は」
職員会議でざわざわと耳に入る他の教師の言葉を、松田は聞き流していた。
退学か。笑ってしまいそうだ。
この中に1人でも、平川のことを本気で心配できる奴が交じっているだろうかと松田は思った。
平川がなぜ、他の生徒から金をもらう代わりに抱かれるのか。なぜ頑なに、奇妙な包帯を巻いたままでいるのか。なぜ友人が1人もいないのか。教師や関わりのない生徒に敬遠され蔑まれても、なぜあんなに綺麗に微笑んで見せることができるのか。その状況でなぜ、1日も学校を休まないのか。
そんなことを真剣に考える奴は1人もいないに違いない。皆、違うことを考えるので精一杯なのだ。
もしくは、考えないことで精一杯なのか。
だから、俺が考える。俺は、この学校の保健医だから。俺が、見ていてやるから。俺だけが。
「松田先生、あれの精神状態というか、その、精神鑑定みたいなものを、どこかの機関でしてもらうことはできないんですか」
平川の学年主任が言う「あれ」が平川を指すと気づいて、松田は苦笑して見せる。
「それなら、まず精神科を受診させるというのがいいかと。その前に、私が何度か面談をしてみます」
本当は平川以外の全員を精神鑑定にかけてやりたい気分だったが、松田は自分をコントロールする。穏やかに、精神科の受診でよく挙げられる精神疾患や症状について説明し、皆がついて来られなくなる直前で話をやめた。
「ま、松田先生に任せておけば安心だ」
「我々にはわからない分野だからな」
そこで笑いが起きる意味が松田にはわからない。笑っている場合なのだろうか。
付き合いきれない。それが、保健医をしていて他の教師に持つ感想だった。
松田は、保健室の隣の面談室で、平川シロと向かい合っていた。
生徒が悩みを相談するための部屋だ。ゆったりと座れる椅子がいくつか置いてあり、お互いに楽な体勢で話が出来る様にしてあった。
平川は、一人掛けの大きく深い布張りの椅子に腰掛けている。その斜め前にあるソファで、松田は話し出す。
「楽にして。最近楽しかったことの話でも聞かせてもらえるかな」
「先生は?最近なんか楽しかった?」
平川の表情は穏やかだ。
「オセロ世界大会の中継が楽しかった」
「オセロの世界大会?」
平川が笑い、松田も微笑んで頷く。
「気がついたら休みの日が1日潰れていた」
「先生って変わってる」
平川は、無邪気に笑う。本当に、無垢な笑顔だ。松田は見入ってしまう。
「あ、今、お前に言われたくないって思ったね、先生」
「いや、思っていない」
「本当?」
「私は、平川が変わっているなんて、思ったことがないよ。平川は普通で、真っ当だ」
「そんなの初めて言われた」
「何が楽しかった?」
「うーん。なにか……昨日ヤった後輩が1分でイったこととか」
「笑った?」
「ダメだと思ったけど、笑っちゃった、少し」
松田は頭の中にメモをとる。
このアンバランスさ。話す内容とその表情の落差。
「平川のそのアルバイトのこと、また聞いてもいいかな」
「アルバイトね」
「おかしい?」
「うん、いや、間違ってないけど」
首元に手をやる平川。そこにはやはり、包帯が巻かれている。
平川が、どのタイミングで体を動かすか、どの言葉の後に目を逸らすか、平川シロのここでの全てを、松田は丹念に記憶していく。
「どうやってアポを取るの?メールかなにか?」
「俺と、相手がってこと?」
「そう」
「アポは取らないけど。俺、携帯持ってないし」
「携帯持ってないんだ」
「うん」
「もし、今日会いたいと思ったら、どうすればいいの?」
「探せばいいんじゃない?俺、学校休まないし」
「なるほどね」
「考えたことなかった。俺に会いに来るやつの気持ちなんか」
また。突き放した言い方と、人懐こいような表情。
「あ、あと、昨日の後輩は次の月曜にまたヤりたいって言ってたから、そう、予約優先みたいな感じもする」
「もし予約が重なったら、どうする?断るの?」
「3人でヤる。向こうがいいって言えばだけど。こっちはお金が儲かるから効率がいいの」
松田はひとつ頷く。本当は首を横に振りたかったが、首の神経に嘘をつかせる。
「包帯の下は、どうなってるの」
平川は少し身じろぎをして目を逸らした。
「どうもなってない」
「傷があるわけじゃないの?」
「見る?」
今度はこちらが動揺しそうになる。予想外の反応だった。
「良ければ」
「松田先生なら見せても大丈夫だよ、俺、先生を信用してる」
真剣な顔をしたと思うと、一気に表情を崩して、平川は声を上げて笑った。本当は信用なんかしていないのだろう。
不安定な。
平川はまず、右手で左手に巻かれた包帯を解いた。現れたのは、日に焼けていない白い肌。綺麗な肌だ。
「こっちも」
左手で解いた右手側も同じ。白い。
「首は、タダでは見せられない」
「条件は?」
平川は、立ち上がって松田のすぐ向かいまで来た。
「殴って」
平川の顔には何の表情もない。
「殴る?なぜ?」
「俺を殴る先生の顔が見たいから」
「俺を試してるのか?」
「こっちが、先生の本当の顔」
平川は冷たい目をした。右目より細い左目だけが、さらに細くなった。あまり見せない表情だ。
「先生は、俺を軽蔑してるんでしょう?仕事だから仕方なくこんなことをしてる」
「それは違うな」
「普段は優しい穏やかな先生を演じてるんだ。本当はうんざりしてるのに、どうしても馬鹿な生徒の相手をしなきゃなんない。金のために。俺と同じだ」
「平川と同じ?お前はうんざりしているのか?」
松田は、極力感情を抑えながら、会話をコントロールしていく。自分の一人称を「私」から「俺」にしたのも、話し方を少し乱暴にしたのも、故意だ。
平川は試している。松田がどれだけ自分を許すか、見極めようとしている。なら、それに乗ってやろう、と松田は思った。
「俺はお前のことを馬鹿だと思ったことはない」
「嘘でしょ。信じられない。先生みたいに頭のいい人が俺のことを見下さない訳がない」
「平川は頭がいい。素直な、いい子だ」
「なんだそれ。気味悪いよ。俺のバイトは不健全でしょ?先生としては、辞めさせなきゃならないんでしょ?仕事だもんね。他の先生とかもうるさく言ってくるんじゃない?」
「さあ。どうかな」
「ねえ先生。殴ってくれないの?この中、見たくない?」
「今日はもう終わりにしよう。話したくなったらまたおいで」
「先生、怒ったの?」
平川は無表情のままだ。それでも少し不安になったようだった。
そこで松田は、決定的な一言を言ってやる。
「平川を買い被っていたようだ。もっと興味深い子だと思っていたんだけど。他の生徒と大して違いはないな」
挑発したまま部屋を出る。賭けだった。しかし恐らく、平川は自分を意識するだろうと想像する。
保健室へ帰って、松田は深呼吸をした。
危ないところだった。
もう少しで、平川の挑発に乗り、喜んで殴ってしまうところだった。
殴って、撫でて、抱いて、溺れるところだった。
そんなことはいつでもできる。いつだって、堕ちて行ける。まだ、もう少し、駆け引きがしたい。平川シロのもっと奥の方を覗きたい。
次に会うときに平川がどんな顔をするか、楽しみだ。禁煙であることを忘れて、松田は煙草に火をつけた。
数日後。保健室の内線が鳴り、取ると外線が入っていると言う。相手の名前は、平川。
「はい、松田です」
「松田先生。本当に繋がった。平川です」
「平川。どうした。学校は?」
「俺ね、携帯買ったの。この間先生が言ってた電話予約制?やろうかと思って」
「学校にいるのか?」
「屋上」
「今日の予約状況は?」
「今日は店じまい」
「今から行ってもいいかな」
「予約する?」
「しない」
あはは、と笑う声が遠い。
「松田先生なら、どんな予約より優先するんだけどなあ」
電話を切り、白衣のポケットに新しい包帯を入れて、松田は屋上へ向かった。
気分が高揚していくのを感じる。
深呼吸。
「先生」
屋上の扉を開けると、少し離れた場所で壁にもたれていた平川が、ゆらゆらと手を振った。
「天気がいいな」
「気持ちいいよね」
涼しげな顔で松田を見上げる平川。首と両手はやはり包帯で覆われている。
「見て、先生」
おもむろに制服のポロシャツの裾をめくり上げ、平川は胸を晒した。松田は平川に気づかれないようにそっと息を飲む。
みぞおちの辺りに、赤黒い大きな痣があった。その他にも、ミミズ腫れが幾つも。ムチの痕らしい。
「すごい乱暴する人に出会っちゃって。でも金払いが良くて、次の予約も断らないで入れてあげた」
「手当てしないと。痕が残るぞ」
「先生、首、見せてあげるよ」
平川は松田の言葉を無視した。
「殴らなくても?」
「もう殴られるのはしばらくいい」
平川は苦笑しながら立ち上がる。
脆い。
落ち着いて見えるけれど、今この子は、均衡を欠いている。注意を要する。依存傾向。松田の頭の中に文字が刻まれていく。
平川は高さ30cm程のコンクリートの出っ張りに片足を乗せ、うまくバランスをとって立った。そのまま、包帯を巻いた右手を首にかける。包帯をつまみ、引っ張った。それは少し抵抗して平川の首を絞め、それからゆっくりと解けだす。
するする、するすると。
「ほらね、傷は、もうない」
平川が微笑みながら言う。
確かにもう傷ではない。
それは、傷跡だ。
大きく深い傷跡があった。切創と挫創の痕らしい。首に。まだ16歳のこの子の首に、こんなに酷い跡が。
「いつ、どうして、そんな」
自分をコントロールすることも忘れ、松田は呟いた。
「親がやった。いつだか覚えてない。そもそも何をされたかも、本当に綺麗に忘れた」
平川は笑っている。笑いながら、大きい方の右目から、涙を流している。きっと、飽和量を超えたのだ。やはり、今日の平川は限界に近い。思いながら、松田は自分に歓喜の鳥肌が立ったことに気づく。
「先生、俺ね、この傷跡がすごく恥ずかしいんだ。だから、包帯で隠すでしょ。そしたら余計目立つんだよね。だから、両手にも包帯を巻いたの。あいつ包帯だらけでキモいって、頭おかしいって、そう言われても、首を見られて引かれるよりずっと俺は幸せなんだよ」
真っ青な春の空を背にして、片足で立ったまま、平川は微笑む。左目が細くなる。右手に持った首の包帯が風に乗ってなびいている。
松田はポケットから包帯を取り出して、平川に近づいた。
「新しい包帯を巻いてやる」
「先生が巻いてくれるの?」
「そう」
「どうして?どうして、俺に構うの?」
「もう、堕ちてもいい。お前に」
痛々しい首を傾げる平川の肩を、松田は抱く。
「アルバイトは今日でもうやめなさい。金が欲しいなら、他の人間の倍払おう。殴って欲しいなら殴る。優しくして欲しいならこれ以上ないくらい愛してやれる。そうして、新しい包帯を巻いてあげるから。だから覚えておいて。平川をちゃんと見ていてやれるのは、世界中で私だけだよ」
先生だけ、と呟いた平川の首に、丁寧に包帯を巻いた。
「さあ。保健室に行こう。お腹の傷を手当てしてあげるから」
平川は震え出した。
「俺、先生しか、いないのかなあ」
知らない。俺以外に平川のことを大事に思える奴がいるかなど、俺は知らない。
驚くほど冷たい気持ちになりながら、平川の体を抱く。
「他の奴はみんな、お前の体だけが目的なんだろう?」
「知らない…」
「金で繋がるってことはそういうことなんじゃないかな。ちゃんと、平川の気持ちにだって、目を向けるべきなのに。悲しいね」
震えは止まらない。
「心配しないで。平川がぶつけたいことを、私は全部受け入れてあげられるんだよ。私はそういうことのプロだから。甘えていいんだ。ゆっくりでいいから、平川のことを、私に教えて欲しい」
ああ。堕ちる。
俺が。それとも、平川が。
2014.2.16
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