雨想
三月なのに雪が降るとは、これいかに。
朝起きて、妙に外が静かな気がして、スマホで天気予報を開く。午前中いっぱい、雪の予報だった。薄い布一枚着込んだだけの上半身が外気に晒されて寒く、またのそのそと布団の中に戻る。
隣に寝転ぶ大きな図体に額を寄せた。彼は体温が低いけれど、寝ていると流石にあたたかい。腹の方に腕を回してみようか考えているうちに、大きな身体はごそりと寝返りを打ち、こちら側を向いた。見上げると、眠たそうな眼が僕を見つめている。
「おはようございますー」
「随分早起きだな」
「寒くて起きちゃってー。雪らしいですよー」
「ああ、なにか外が眩しいと思った」
この家のカーテンは陽をよく通す。寝つきが悪いのなら遮光カーテンにしたらどうだと言ったことがあるけれど、朝日を浴びたいのだ、明るい部屋の方がいい、と言われてしまっては返す言葉もない。キングサイズのベッドの上で、僕らは甘いまどろみを楽しむ。
「身体は大丈夫か」
「もう慣れたものですー」
「無理するなよ。何か飲むか」
「あったかいお茶かなー」
待ってな、とくしゃりと頭を撫でて起き上がる彼の、普段は上げている前髪を見る。無造作におろしているところを朝イチで見られるのは僕の特権だ。もっとも、ヘアセットが必要な撮影ではあえて整えず現場にやってくることもあるけれど。瓶付油の匂いのしない布団に顔を埋め、数度深呼吸をした。彼の形に窪んでいたマットレスに手を這わす。
慣れたものだと答えはしたが、菊門のあたりに違和感がある。痛みこそないものの、無理に押し広げたのだから、そりゃあ違和感のひとつくらいあるだろう、雨彦さんから借りたトレーナーの下からにょっきりと伸びた足が寒い。昨夜、ズボンを履く余裕はなかった。なかば気絶するように眠ってしまったのだ。
「ほら」
「ありがとうございますー」
僕に緑茶を渡してカーテンを開ける雨彦さんは、きちんとズボンを履いている。ずるいなあ、というのは違うかな。この部屋には僕の寝巻きも常備しているのに、ことに及ぶとそれどころじゃなくて、殆ど着ていない。
緑茶はあたたかくて、春の色をしていた。若草色で少し渋い、落ち着く味。ぼんやりしていた世界が輪郭を帯びていく。時刻はまだ六時だった。
「雪、降ってますー?」
「ちらちらとな。積もってはいないみたいだぜ」
僕もベッドを抜け出して、雨彦さんの隣に立った。白い空から、僅かに粒が舞っている。
「みぞれにならないといいなー」
「マフラーでも貸そうか」
「そうですねー、借りようかなー」
足が寒くて、身体がぶるりと震えた。観念して自分の寝巻きのしまってある引き出しを勝手に漁り、ジャージを履く。まだ帰るには早い。外着を着る気にはならない。
「せっかく暖かくなってきたと思ったのに、冬に逆戻りですねー」
「三寒四温にもほどがあるな」
雨彦さんは僕の手から湯呑みを奪い、数口啜った。大きな手のひらだなあ。湯呑みがすっぽりと覆われている。
「今年の桜はまだですかねー」
「梅は咲いてたんだがなあ」
もう散ってしまっている花のことを思う。一瞬の栄華、四季の移ろい。僕の家の近所には白い梅しか咲かない。赤い梅を久しく見ていないかもしれない。
日本人にとって桜が特別であるのには、様々な理由があるはずだ。入学式や卒業式に咲くから。出会いと別れの季節の象徴だから。厳しい寒さを乗り越えた祝いに咲き誇るから。まるで生きていることを肯定するかのような春爛漫さに、気圧されることすらある。攫われそう、という表現をしたのは一体誰がはじめなのだろう。たしかに、蝉時雨には攫われそうにない。神隠しならありえるかもしれないけれど。四季それぞれに、消えてしまいそうな魔力はある。
「……雨彦さん」
「なんだ」
「どこか、遠くに行きたくないですかー」
「遠くか。行きたいな」
突拍子もない話を茶化さずに受け入れてくれる彼の目元は微笑んでいて、それは話の飛び具合になのか、僕の若さに対してなのかはわからなかった。
「どこまでも遠くにな」
「二人でだよー? お仕事でじゃないよー?」
「わかってるさ。ハネムーンでも駆け落ちでも、どこへでもお供するぜ」
「……駆け落ち、かあ」
あまねく並行世界のどこかに、そんな世界線はあるのだろうか。何もかも放り投げて、全てを捨てて二人きりで暮らしていく世界が。
僕はこの世界が愛おしいから、そんなことはしない。それはしがらみかもしれないし、呪いかもしれない。雪の勢いが増している気がする。
「どこまでも 行く手の先に 桜あり」
「……逃げられやしない 世界の端に」
「わ、続けられたー」
「同じことを考えてるかと思ってな」
川柳が短歌になってしまった。この人はときどきこういうことをする。
世界の端ってどこだろう。端なんかないように、地球は丸いのに。それでもここを、地球の中心と思わないのは、部屋着だからかもしれない。ステージの上では、いつも星の誕生を感じている。
「雨彦さん」
「ん?」
「次からは、僕が寝落ちした時、ズボンも履かせてもらえるとありがたいなー」
「ああ……つい」
「もっと体力つけるけどさー」
すっかり空になった湯呑みを雨彦さんに押し付けて、僕は大きく伸びをした。きんと冷えた部屋、窓の枠。肺に取り込む空気が冷たくて、脳がしゃっきりとしていく。
「朝飯、食ってくか」
「そうだねー、いただこうかなー」
雨彦さんの大きな手のひらが降ってくる。彼は相変わらず微笑んでいて、攫われるほどの桜が似合いそうだと思った。
すぐそこの春を待ち侘びながら、並行世界の逃避行の成功を願って、僕らは渋い味のキスをする。世界の端っこにも、この雪は舞っているだろうか。雨彦さんのおろした前髪が額にくすぐったくて笑ったら、鼻をきゅっと摘まれてしまった。
朝起きて、妙に外が静かな気がして、スマホで天気予報を開く。午前中いっぱい、雪の予報だった。薄い布一枚着込んだだけの上半身が外気に晒されて寒く、またのそのそと布団の中に戻る。
隣に寝転ぶ大きな図体に額を寄せた。彼は体温が低いけれど、寝ていると流石にあたたかい。腹の方に腕を回してみようか考えているうちに、大きな身体はごそりと寝返りを打ち、こちら側を向いた。見上げると、眠たそうな眼が僕を見つめている。
「おはようございますー」
「随分早起きだな」
「寒くて起きちゃってー。雪らしいですよー」
「ああ、なにか外が眩しいと思った」
この家のカーテンは陽をよく通す。寝つきが悪いのなら遮光カーテンにしたらどうだと言ったことがあるけれど、朝日を浴びたいのだ、明るい部屋の方がいい、と言われてしまっては返す言葉もない。キングサイズのベッドの上で、僕らは甘いまどろみを楽しむ。
「身体は大丈夫か」
「もう慣れたものですー」
「無理するなよ。何か飲むか」
「あったかいお茶かなー」
待ってな、とくしゃりと頭を撫でて起き上がる彼の、普段は上げている前髪を見る。無造作におろしているところを朝イチで見られるのは僕の特権だ。もっとも、ヘアセットが必要な撮影ではあえて整えず現場にやってくることもあるけれど。瓶付油の匂いのしない布団に顔を埋め、数度深呼吸をした。彼の形に窪んでいたマットレスに手を這わす。
慣れたものだと答えはしたが、菊門のあたりに違和感がある。痛みこそないものの、無理に押し広げたのだから、そりゃあ違和感のひとつくらいあるだろう、雨彦さんから借りたトレーナーの下からにょっきりと伸びた足が寒い。昨夜、ズボンを履く余裕はなかった。なかば気絶するように眠ってしまったのだ。
「ほら」
「ありがとうございますー」
僕に緑茶を渡してカーテンを開ける雨彦さんは、きちんとズボンを履いている。ずるいなあ、というのは違うかな。この部屋には僕の寝巻きも常備しているのに、ことに及ぶとそれどころじゃなくて、殆ど着ていない。
緑茶はあたたかくて、春の色をしていた。若草色で少し渋い、落ち着く味。ぼんやりしていた世界が輪郭を帯びていく。時刻はまだ六時だった。
「雪、降ってますー?」
「ちらちらとな。積もってはいないみたいだぜ」
僕もベッドを抜け出して、雨彦さんの隣に立った。白い空から、僅かに粒が舞っている。
「みぞれにならないといいなー」
「マフラーでも貸そうか」
「そうですねー、借りようかなー」
足が寒くて、身体がぶるりと震えた。観念して自分の寝巻きのしまってある引き出しを勝手に漁り、ジャージを履く。まだ帰るには早い。外着を着る気にはならない。
「せっかく暖かくなってきたと思ったのに、冬に逆戻りですねー」
「三寒四温にもほどがあるな」
雨彦さんは僕の手から湯呑みを奪い、数口啜った。大きな手のひらだなあ。湯呑みがすっぽりと覆われている。
「今年の桜はまだですかねー」
「梅は咲いてたんだがなあ」
もう散ってしまっている花のことを思う。一瞬の栄華、四季の移ろい。僕の家の近所には白い梅しか咲かない。赤い梅を久しく見ていないかもしれない。
日本人にとって桜が特別であるのには、様々な理由があるはずだ。入学式や卒業式に咲くから。出会いと別れの季節の象徴だから。厳しい寒さを乗り越えた祝いに咲き誇るから。まるで生きていることを肯定するかのような春爛漫さに、気圧されることすらある。攫われそう、という表現をしたのは一体誰がはじめなのだろう。たしかに、蝉時雨には攫われそうにない。神隠しならありえるかもしれないけれど。四季それぞれに、消えてしまいそうな魔力はある。
「……雨彦さん」
「なんだ」
「どこか、遠くに行きたくないですかー」
「遠くか。行きたいな」
突拍子もない話を茶化さずに受け入れてくれる彼の目元は微笑んでいて、それは話の飛び具合になのか、僕の若さに対してなのかはわからなかった。
「どこまでも遠くにな」
「二人でだよー? お仕事でじゃないよー?」
「わかってるさ。ハネムーンでも駆け落ちでも、どこへでもお供するぜ」
「……駆け落ち、かあ」
あまねく並行世界のどこかに、そんな世界線はあるのだろうか。何もかも放り投げて、全てを捨てて二人きりで暮らしていく世界が。
僕はこの世界が愛おしいから、そんなことはしない。それはしがらみかもしれないし、呪いかもしれない。雪の勢いが増している気がする。
「どこまでも 行く手の先に 桜あり」
「……逃げられやしない 世界の端に」
「わ、続けられたー」
「同じことを考えてるかと思ってな」
川柳が短歌になってしまった。この人はときどきこういうことをする。
世界の端ってどこだろう。端なんかないように、地球は丸いのに。それでもここを、地球の中心と思わないのは、部屋着だからかもしれない。ステージの上では、いつも星の誕生を感じている。
「雨彦さん」
「ん?」
「次からは、僕が寝落ちした時、ズボンも履かせてもらえるとありがたいなー」
「ああ……つい」
「もっと体力つけるけどさー」
すっかり空になった湯呑みを雨彦さんに押し付けて、僕は大きく伸びをした。きんと冷えた部屋、窓の枠。肺に取り込む空気が冷たくて、脳がしゃっきりとしていく。
「朝飯、食ってくか」
「そうだねー、いただこうかなー」
雨彦さんの大きな手のひらが降ってくる。彼は相変わらず微笑んでいて、攫われるほどの桜が似合いそうだと思った。
すぐそこの春を待ち侘びながら、並行世界の逃避行の成功を願って、僕らは渋い味のキスをする。世界の端っこにも、この雪は舞っているだろうか。雨彦さんのおろした前髪が額にくすぐったくて笑ったら、鼻をきゅっと摘まれてしまった。