雨想

 電車の揺れがいつもより激しいだけで、怒られているような気持になる。
 全国を低気圧が襲った。それほど影響を受ける体質ではないと思っていたけれど、全身が重い。頭が痛い。今日は授業が三コマあった。レポートはどれも手を抜かなかった。靴が窮屈に感じる。カバンをかけた肩が重い。
「……顔色が悪いな」
 事務所に着いて、顔を見合わせた第一声がそれだった。雨彦さんはぽんぽんと僕の肩を叩いて、ソファに座るように促す。あたたかい緑茶か麦茶か、と聞かれて、少し迷って緑茶と答えた。ペットボトルのなかに、冷めたほうじ茶があるのを忘れていた。
「クリスさんはー?」
「前の仕事が押してるらしい」
 ああ、そういえばLINKが来てたっけ。今日はぼんやりだなあ。大きく伸びをして深呼吸をする。こういう時は酸素が足りていない。
 雨が降りそうな曇天だ。折り畳み傘、もってたっけ。なければ事務所の、誰が持ってきたのかわからないビニール傘を拝借しよう。助け合いの精神と思って、ありがたく。
「傘なら持ってるし、今日は車だ。帰りは送って行ってやるよ」
「……今日ばかりは、お言葉に甘えようかなー」
 僕の考えを見透かしたように喋る雨彦さんから緑茶を受け取って、ひとくち啜った。指先があたたかい。
 プロデューサーさんから、舞台オーディションを兼ねたワークショップがある、という話を貰い、今日はその話を詳しく聞きに来た。ワークショップを受けるのにも簡単な書類審査が必要な周到ぶり。僕らの分の資料はすでに提出されており、今は結果待ちの状態だ。
「さっき軽く聞いたんだけどな。ワークショップではサロメを取り扱うらしい」
「サロメかー。じゃあミュージカルも激しい女性が主役なのかなー」
「それがな、登場人物は全員男なんだと」
 二人で向かい合って、緑茶にふうふうと息を吹きかけた。この湯呑、いつ使ってもピカピカだなー。雨彦さんか、硲先生とかが綺麗にしてくれてるんだろうなあ。
「だから、北村にもサロメ役が回ってくるかもしれないぜ」
「わー、緊張するなー」
 軽く授業で取り扱ったことはあるけど、細部までは思い出せない。ヨハネの首を、と父にせがむシーンの絵画を何枚か見た。自分に振り向かない男への情欲を、爆発させて躍る舞いの美しいこと。
 古典劇をやるのは、苦手ではない。下調べがとても楽しいからだ。以前演技のレッスンで岸田國士の「紙風船」を演じた時、「十銭の価値を知っているか知らないでいるかで、台詞の重みが変わる」と教わった。落語もそうだなあ。三両、と言われて、気軽な金と受け取るか大金と受け取るかは聞く人の教養にかかってくる。
「ヨハネはどうしてサロメに振り向かないんでしたっけー?」
「さてな、俺も詳しくは思い出せない」
 お茶を啜っていると、雨彦さんの視線がいつもより長く僕を捉えていることに気付いた。なにをそんなに見ることがあるだろう。何か顔についていただろうか。お茶のおかげで顔色はよくなったと思いたいが。
「……北村」
「はいー」
「俺に一度想いを告げた後、俺は考えさせてくれと言っただろう」
「わー、今その話しますー?」
 ふざけているようにも、茶化しているようにも見えない。声色からして真剣なのはわかるが、事務所でする話ではないと思うのに。
 曇天の街に、風が吹く。窓ががたがたと鳴って、雲が厚くなっていく。
「待たされている間、どんな心境だったか?」
「……そりゃあ、不安で仕方なくて……」
 今思い出しても、胸がはらはらと痛くなる。もし断られたら。それとも、良いと言われて、一歩関係が前進したら。どちらに転んでも、自分がどうなってしまうかわからなかった、あの恐怖。
「……振り向かせたくて、必死でしたよー。あなたから見た僕はまだまだ子供だろうけど、子供なりに、必死でしたー」
「……ありがとな」
 手を伸ばして、またぽんぽんと肩を叩かれる。お茶は程よく冷め、指先にもじんわりと温もりが広がっていた。
 雨彦さんの世界の一部になりたくて、息苦しかった日々を思い出す。今、共に歩めていることが、こんなにも当たり前になっていて、嬉しい。
「急にどうしたのー?」
「なに、サロメのように首を所望されていたらどうしようかと思ってな」
「ひどくないー?」
 くすくす笑いあいながら、そうだな、それでもいいな、と思ってしまった。彼の世界の最後に、僕を刻みつけるのだ。誰のものでもない、僕だけのものにするのだ。
 ――なーんて。恐ろしい考え。僕は一緒に呼吸していたいのであって、死体なんか欲しくない。
「21 グラムの重さ 抱きかかえ」
「魂の重さか。弛緩した身体は実際には重いだろう」
「それでも、からっぽだって思うんじゃないかなー。雨彦さんは、どうだったー? 僕を待たせてる時」
「……内緒さ」
 えー、ずるい、そう言って唇を尖らせると、また今度な、と返される。十一も年上のこの男が何を考えているのかはしばしばわからないことがあるけれど、そんな時は程よい距離を保つのが心地いいことも知っている。深くは踏み込まない。だけど、この流れはずるいだろう。
「サロメは、ヨハネの首を抱きかかえて、嬉しかったのかなー?」
「そういったことをワークショップでやるんじゃないか?」
「たしかに」
 自分の愛する者を、真に手に入れたと形容していいのか。そんなところまで掘り下げられたらいいな。オーディションに落ちたとしても、今度サロメの文献について呼んでみよう。芸術学科の教授の研究室に行けば、ミュージカル映像も貸し出してくれるかもしれない。
「お待たせしました」
「二人とも、お待たせ」
 クリスさんとプロデューサーさんが一緒に部屋に入ってきて、事務所がわっと明るくなった。二人の頭髪と肩が少し濡れていて、雨が降り出したことを知る。
 雨彦さんが追加の緑茶を淹れ、僕は二人にタオルを差し出す。プロデューサーさんの顔色をこっそり窺うと、曇天にはにつかわず、どこか晴れ晴れとしていたから、きっといいお知らせを持っているに違いない。
「それでは、さっそくなんですが」
 改めて机に向かい合い、資料を手渡される。ワークショップの詳細についてだった。僕はぱらぱらと紙を捲って、その指先のあたたかさに、ふと気づく。雨彦さんに触られた箇所がぽかぽかと軽く、頭痛がとれていることに。
「書類審査、通りました。これから皆さんには、ワークショップオーディションを受けていただきます」
 愛する者の世界の一部になりたい。僕はそんな思いを持っている。サロメ、受けて立とうじゃないか。雨彦さんをチラリとみると、桔梗色の瞳を少し細めて、僕にだけわかるように微笑んでくれた。
 雨は本降りになってきた。帰りのドライブを楽しみにしながら、僕はプロデューサーさんの声を聞く。
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