雨想
元の形がわからなくなるくらい、覆われてしまう時。はじめの形を思い起こそうとするのと、今の形に浸るのと、どちらが尊い作業なのだろう。
控室の机の上で、ぴこんとスマホに通知がくる。クリスさんから、遅れてすまない、もう少しで到着する、とのLINKだった。前の現場が押したらしい。すいすいと指で操作し、返信ついでに今までのメッセージを読み返していた時。
「北村は、Reの世代じゃないか」
と、隣から声が降ってきた。
「Re……?」
「俺の若い頃はスマホじゃなかったからな。所謂ガラケーさ」
「うん、それはわかるけどー」
「だから、LINKもなくて、連絡は全部メールだったんだ」
今だって、かしこまった仕事の連絡はメールを使用する。事務所宛てに企画書が送付されたら、そのまま転送されることもあるし。大学の大切なお知らせだってメールだ。僕は右隣を見上げて、彼が何を言わんとしているのか測る。
「雨彦さんは筆無精でしょうー? メールだって、滅多に返さなかったんじゃないですかー?」
「ああ、ご名答」
余裕綽々に微笑まれれば、じゃあ僕にももっと言葉をくれればいいのに、と拗ねてみせる。僕だってまめな方ではないけれど、翌日の予定を聞かれたら翌日になる前に返答するくらいは意識できますよー。雨彦さんは当日のお昼頃にやっと返信したりする。もう慣れたものだけれど。
「メールをしばらくやり取りしていると、件名にReが連なるだろう」
「そうですねー」
「それがな、どうしようもなく恋しくなったり、愛しくなったりしたもんだ」
例えば、おやすみ、といった一言にも、Reがつくんだ。雨彦さんは目を瞑り、何かを思い出して微笑む。そこに映る姿がかつての恋人なのだとしたら、怒るべきところなのかもしれない。
「……確かに、LINKだと、それは出来ないですねー」
「メールセンターに、メールが来ていないか問合せたりな。もうこの話題も伝わらないのか」
「三十代の方々でどうぞー」
Reの付くおやすみを、僕は知らない。おやすみというメールにReが連なれば連なるほど、寝る間を惜しむ恋人たちの姿が浮かぶ。朝起きて、メール一覧を見返した時の喜びが胸広がる様は、なるほどLINKでは再現できないかもしれない。
「まどろみを 引き上げる綱の 通知音」
「ほう、北村も寝る前に通知が気になったりするのかい」
「今まではそんなことなかったんですけどねー。誰かさんのせいでねー?」
元の形が分からなくなるくらい、今が輝かしく思えるのも、彼の手中の内なのだろうか。ダイヤモンドに見える枯れ枝は、噛めば噛むほどしょっぱい。
今日、クリスさんが集合時間に遅れそうなことは、事前に皆で予想出来ていた。こだわりの強いカメラマンとの撮影は、クリスさんの調子が良ければそれに比例して時間が溶けていくだろうと。三人揃ってではなく個人のインタビューがメインの仕事だから、一人が多少遅れたって構わないのだ。束の間の二人きりの時間、壁に貼り付けられた鏡がライトに当たって眩しい。
「……塩坑って、どんなところなんでしょうー」
「なんだ、いきなり」
「雨彦さん、スタンダールの恋愛論って知ってるー?」
「すまないが、恋愛論なんて高尚なものは門外漢でな」
「たった今語ってたのにー?」
塩坑に投げ入れられた枯れ枝が、塩の結晶がつくことによってダイヤモンドで飾られたように見えるという、恋愛によってその対象を美化させてしまう心理のことだ。僕は今、結晶に覆われて、元の姿を思い出せずにいる。
雨彦さんの瞼裏に浮かんだ人も、彼のことをダイヤモンドに見えていたのだろうか。
元の形がわからなくなるくらい、覆われてしまう時。はじめの形を思い起こそうとするのと、今の形に浸るのと、どちらが尊い作業なのだろう。
「……どうやらご機嫌ななめらしいな」
「どこの誰のせいでしょう」
悔しいのだ。自分のペースを崩されるのはもとより苦手だ。こんなに鏡が眩しいなんて聞いてない。席を移動すればいいだけなのだけど、あいにくと椅子が程よく温まっていて、動く気にならない。
「北村。提案があるんだが」
雨彦さんの大きな手が、ぽんぽんと僕の頭を撫でる。あからさまなご機嫌取りのそれに、僕は心の中で頬を膨らませた。
「今度、LINKじゃなくて、メールしてみないか」
「……わざわざ、ですかー?」
「Reの数だけ、愛を囁いてやるさ」
「それ、寝る前のメールでしょー? 寝落ちして謝るところがもう想像つくんですけどー」
「でも、特別って感じがするだろう?」
それこそ大事なメールに紛れてしまいそうだけれどーと呟きながら、件名を「おやすみ」にしたら、間違う事なんてないことに気付く。皆に隠れるように行われる文のやり取りと思えば、確かに少しロマンティックかもしれない。
まばゆく輝く目隠しに覆われる毎日。秘密の恋は蜜の味とはよく言ったものだが、この目隠しは塩だ。
「……雨彦さんの思い出を上書きできるまでに、どれくらいのReが必要かなー」
「まずはひとつから。今夜、送るぜ」
葛之葉さん、お願いします、というスタッフの声に立ち上がりながら、雨彦さんはもう一度僕の頭を撫でた。僕は溜息を吐きながら、スマホで塩坑を調べる。ポーランドの世界遺産がヒットした。
「……写真を送るなら、LINKの方が便利なんだけどなー」
それでも、今夜はメールの通知に心を躍らせてしまうのだろう。まずはひとつのReから。
サイトの写真を保存しながら、僕は気付かぬうちに上がっていた口角をさすった。ダイヤモンドを内側から見た世界も、存外美しい。
控室の机の上で、ぴこんとスマホに通知がくる。クリスさんから、遅れてすまない、もう少しで到着する、とのLINKだった。前の現場が押したらしい。すいすいと指で操作し、返信ついでに今までのメッセージを読み返していた時。
「北村は、Reの世代じゃないか」
と、隣から声が降ってきた。
「Re……?」
「俺の若い頃はスマホじゃなかったからな。所謂ガラケーさ」
「うん、それはわかるけどー」
「だから、LINKもなくて、連絡は全部メールだったんだ」
今だって、かしこまった仕事の連絡はメールを使用する。事務所宛てに企画書が送付されたら、そのまま転送されることもあるし。大学の大切なお知らせだってメールだ。僕は右隣を見上げて、彼が何を言わんとしているのか測る。
「雨彦さんは筆無精でしょうー? メールだって、滅多に返さなかったんじゃないですかー?」
「ああ、ご名答」
余裕綽々に微笑まれれば、じゃあ僕にももっと言葉をくれればいいのに、と拗ねてみせる。僕だってまめな方ではないけれど、翌日の予定を聞かれたら翌日になる前に返答するくらいは意識できますよー。雨彦さんは当日のお昼頃にやっと返信したりする。もう慣れたものだけれど。
「メールをしばらくやり取りしていると、件名にReが連なるだろう」
「そうですねー」
「それがな、どうしようもなく恋しくなったり、愛しくなったりしたもんだ」
例えば、おやすみ、といった一言にも、Reがつくんだ。雨彦さんは目を瞑り、何かを思い出して微笑む。そこに映る姿がかつての恋人なのだとしたら、怒るべきところなのかもしれない。
「……確かに、LINKだと、それは出来ないですねー」
「メールセンターに、メールが来ていないか問合せたりな。もうこの話題も伝わらないのか」
「三十代の方々でどうぞー」
Reの付くおやすみを、僕は知らない。おやすみというメールにReが連なれば連なるほど、寝る間を惜しむ恋人たちの姿が浮かぶ。朝起きて、メール一覧を見返した時の喜びが胸広がる様は、なるほどLINKでは再現できないかもしれない。
「まどろみを 引き上げる綱の 通知音」
「ほう、北村も寝る前に通知が気になったりするのかい」
「今まではそんなことなかったんですけどねー。誰かさんのせいでねー?」
元の形が分からなくなるくらい、今が輝かしく思えるのも、彼の手中の内なのだろうか。ダイヤモンドに見える枯れ枝は、噛めば噛むほどしょっぱい。
今日、クリスさんが集合時間に遅れそうなことは、事前に皆で予想出来ていた。こだわりの強いカメラマンとの撮影は、クリスさんの調子が良ければそれに比例して時間が溶けていくだろうと。三人揃ってではなく個人のインタビューがメインの仕事だから、一人が多少遅れたって構わないのだ。束の間の二人きりの時間、壁に貼り付けられた鏡がライトに当たって眩しい。
「……塩坑って、どんなところなんでしょうー」
「なんだ、いきなり」
「雨彦さん、スタンダールの恋愛論って知ってるー?」
「すまないが、恋愛論なんて高尚なものは門外漢でな」
「たった今語ってたのにー?」
塩坑に投げ入れられた枯れ枝が、塩の結晶がつくことによってダイヤモンドで飾られたように見えるという、恋愛によってその対象を美化させてしまう心理のことだ。僕は今、結晶に覆われて、元の姿を思い出せずにいる。
雨彦さんの瞼裏に浮かんだ人も、彼のことをダイヤモンドに見えていたのだろうか。
元の形がわからなくなるくらい、覆われてしまう時。はじめの形を思い起こそうとするのと、今の形に浸るのと、どちらが尊い作業なのだろう。
「……どうやらご機嫌ななめらしいな」
「どこの誰のせいでしょう」
悔しいのだ。自分のペースを崩されるのはもとより苦手だ。こんなに鏡が眩しいなんて聞いてない。席を移動すればいいだけなのだけど、あいにくと椅子が程よく温まっていて、動く気にならない。
「北村。提案があるんだが」
雨彦さんの大きな手が、ぽんぽんと僕の頭を撫でる。あからさまなご機嫌取りのそれに、僕は心の中で頬を膨らませた。
「今度、LINKじゃなくて、メールしてみないか」
「……わざわざ、ですかー?」
「Reの数だけ、愛を囁いてやるさ」
「それ、寝る前のメールでしょー? 寝落ちして謝るところがもう想像つくんですけどー」
「でも、特別って感じがするだろう?」
それこそ大事なメールに紛れてしまいそうだけれどーと呟きながら、件名を「おやすみ」にしたら、間違う事なんてないことに気付く。皆に隠れるように行われる文のやり取りと思えば、確かに少しロマンティックかもしれない。
まばゆく輝く目隠しに覆われる毎日。秘密の恋は蜜の味とはよく言ったものだが、この目隠しは塩だ。
「……雨彦さんの思い出を上書きできるまでに、どれくらいのReが必要かなー」
「まずはひとつから。今夜、送るぜ」
葛之葉さん、お願いします、というスタッフの声に立ち上がりながら、雨彦さんはもう一度僕の頭を撫でた。僕は溜息を吐きながら、スマホで塩坑を調べる。ポーランドの世界遺産がヒットした。
「……写真を送るなら、LINKの方が便利なんだけどなー」
それでも、今夜はメールの通知に心を躍らせてしまうのだろう。まずはひとつのReから。
サイトの写真を保存しながら、僕は気付かぬうちに上がっていた口角をさすった。ダイヤモンドを内側から見た世界も、存外美しい。