雨想
雨彦さんが実家の清掃会社と事務所の間に借りている寝泊まり用のワンルームに、仄甘い香りが広がる。
昨日のうちに、昨日までに事務所に届いていたチョコを運び込んでいたせいだ。僕の分もいったん置かせてもらっている。僕は自分宛の箱の中から板チョコ――海外製のもので、猫の絵が描かれているパッケージ――を取り出し、雨彦さんに「これ、今からどうですかー?」と訊ねた。Bitter、と書いてあるのが読める。
「ひとかけら。ホットミルクに入れると、ホットチョコレートドリンクになるんですよー」
「へえ、いいじゃないか」
じゃあマグカップを用意しよう、と動き出す彼の背を追いながら、今日という日について思いを馳せていた。
世間は華やぐバレンタインデー。日本ではチョコレートを贈る風習がある――ここ数年は、祭典が盛況のようだけれど。多分に漏れず僕らアイドル宛てにも、事務所に大量のチョコレートが届いていた。今目の前にあるのは、ほんの一部に過ぎない。
「なあ。お前さんは、くれないのかい」
チョコレート。牛乳をカップにたっぷり注ぎながら、雨彦さんは愉快そうに笑う。僕を揶揄うのが楽しいのだろう。残念ながら、今日はその手には乗らない。
「えー、こんなに貰ってるのに、お腹いっぱいじゃないですかー?」
「恋人からの特別が欲しいと思っちゃあ、贅沢かい?」
電子レンジがブーンと鳴るのを聞きながら、僕は手元の板チョコを、パキリと折った。濃厚な香りが胸に広がる。
「あのね、雨彦さんー」
「なんだ?」
「バレンタインデーって、世界で一番、花を贈る日なんですよー」
「ああ、たしかに、日本特有らしいからな。こんなにチョコが流通するのは」
雨彦さんが二つ、マグカップをテーブルに置く。ほかほかとあたたかな湯気が立ち昇るそこに、ぽとり、ぽとりとチョコレートの欠片を落とし、スプーンを借りてくるりとかき回した。
「だから、花を買いに行きませんかー?」
この部屋にも、潤いが必要ですよ―。そう言って微笑めば、彼は参ったと笑い返して、僕からマグカップを受け取った。
実際、この部屋はあまりにも簡素だ。寝泊まりに必要な最低限の家具と着替えしかないのだから、当然と言えば当然なのだけれど。僕は真っ暗になる遮光カーテンがどうにも気に入らず、泊るときはわざとほんの少し開けて寝たりしている。
「じゃあ、この部屋に似合う花でも選んで貰おうか」
「はいー、明るい花を飾りましょうー」
愛の言葉も、こっそり添えられるものがいい。ホットチョコレートは舌にとろりと溶けて、ほんの少しの苦みを残していく。
二人でこっくりと甘いそれを飲み干して、ああ、これから数日間いや数週間、この味を食べ続けるのだ、と少し腹を括った。愛の形は人それぞれだと言うけれど、固形にするとこんなにも甘い。
「雨彦さんも、僕に買ってくれてもいいんですよー?」
「花でもチョコでもスニーカーでも、なんでも買ってやるさ」
雨彦さんの隣にわざわざ座りなおしたのは、この苦みが引かないうちに、唇を舐めたいと思ったから。雨彦さんは目尻を柔らかにさげてそれを受け入れ、僕の頭をくしゃりと撫でた。甘い甘いキスの合間に、僕はどんな花を飾ろうかと思いを巡らす。
「さっそく向かうかい? こんなにいい天気だ」
「そうですねー。お散歩日和ですー」
彼の腕の中が熱いのは、ホットチョコレートのせいだけじゃない。世界が愛に包まれる今日、僕らの間では花が交わされる。
花でもチョコでもスニーカーでも、か。それならば今度、カーテンをねだってみよう。光を通す、明るい色合いの。
支度を簡単に済ませていると、雨彦さんがキッチンでマグカップを洗う音が聞こえた。カチャカチャというその音の旋律が心地よく、僕は鼻唄を奏でる。ここに飾られる花は、きっと幸福になるに違いない。二つのマグカップと明るいカーテン。雨彦さん家がどんどん僕の色に染まっていく。
いつか、二人で暮らす日が来たら。その家でも、花を絶やさないようにしたい。日々を彩るしあわせの形を、愛の言葉を、灯していたいと、そう願う。
「……何考えてるか、あててやろうか」
「結構ですー」
大きな手が僕の頭をかきまわし、ああもう、せっかく整えたのにとひと睨み。楽しそうな彼の肩を小突いて玄関に向かう。一歩外に出れば、まだほんのりと寒い風が肌を撫でた。
次に帰ってきたとき、この腕には花が抱えられている。それはそれは楽しい計画に、僕らの口角は自然と上がった。
チョコレートの甘さが口の中から消えないうちに。ぴゅう、と吹く風の中から日向へ、二人でせかせかと歩いて行った。
昨日のうちに、昨日までに事務所に届いていたチョコを運び込んでいたせいだ。僕の分もいったん置かせてもらっている。僕は自分宛の箱の中から板チョコ――海外製のもので、猫の絵が描かれているパッケージ――を取り出し、雨彦さんに「これ、今からどうですかー?」と訊ねた。Bitter、と書いてあるのが読める。
「ひとかけら。ホットミルクに入れると、ホットチョコレートドリンクになるんですよー」
「へえ、いいじゃないか」
じゃあマグカップを用意しよう、と動き出す彼の背を追いながら、今日という日について思いを馳せていた。
世間は華やぐバレンタインデー。日本ではチョコレートを贈る風習がある――ここ数年は、祭典が盛況のようだけれど。多分に漏れず僕らアイドル宛てにも、事務所に大量のチョコレートが届いていた。今目の前にあるのは、ほんの一部に過ぎない。
「なあ。お前さんは、くれないのかい」
チョコレート。牛乳をカップにたっぷり注ぎながら、雨彦さんは愉快そうに笑う。僕を揶揄うのが楽しいのだろう。残念ながら、今日はその手には乗らない。
「えー、こんなに貰ってるのに、お腹いっぱいじゃないですかー?」
「恋人からの特別が欲しいと思っちゃあ、贅沢かい?」
電子レンジがブーンと鳴るのを聞きながら、僕は手元の板チョコを、パキリと折った。濃厚な香りが胸に広がる。
「あのね、雨彦さんー」
「なんだ?」
「バレンタインデーって、世界で一番、花を贈る日なんですよー」
「ああ、たしかに、日本特有らしいからな。こんなにチョコが流通するのは」
雨彦さんが二つ、マグカップをテーブルに置く。ほかほかとあたたかな湯気が立ち昇るそこに、ぽとり、ぽとりとチョコレートの欠片を落とし、スプーンを借りてくるりとかき回した。
「だから、花を買いに行きませんかー?」
この部屋にも、潤いが必要ですよ―。そう言って微笑めば、彼は参ったと笑い返して、僕からマグカップを受け取った。
実際、この部屋はあまりにも簡素だ。寝泊まりに必要な最低限の家具と着替えしかないのだから、当然と言えば当然なのだけれど。僕は真っ暗になる遮光カーテンがどうにも気に入らず、泊るときはわざとほんの少し開けて寝たりしている。
「じゃあ、この部屋に似合う花でも選んで貰おうか」
「はいー、明るい花を飾りましょうー」
愛の言葉も、こっそり添えられるものがいい。ホットチョコレートは舌にとろりと溶けて、ほんの少しの苦みを残していく。
二人でこっくりと甘いそれを飲み干して、ああ、これから数日間いや数週間、この味を食べ続けるのだ、と少し腹を括った。愛の形は人それぞれだと言うけれど、固形にするとこんなにも甘い。
「雨彦さんも、僕に買ってくれてもいいんですよー?」
「花でもチョコでもスニーカーでも、なんでも買ってやるさ」
雨彦さんの隣にわざわざ座りなおしたのは、この苦みが引かないうちに、唇を舐めたいと思ったから。雨彦さんは目尻を柔らかにさげてそれを受け入れ、僕の頭をくしゃりと撫でた。甘い甘いキスの合間に、僕はどんな花を飾ろうかと思いを巡らす。
「さっそく向かうかい? こんなにいい天気だ」
「そうですねー。お散歩日和ですー」
彼の腕の中が熱いのは、ホットチョコレートのせいだけじゃない。世界が愛に包まれる今日、僕らの間では花が交わされる。
花でもチョコでもスニーカーでも、か。それならば今度、カーテンをねだってみよう。光を通す、明るい色合いの。
支度を簡単に済ませていると、雨彦さんがキッチンでマグカップを洗う音が聞こえた。カチャカチャというその音の旋律が心地よく、僕は鼻唄を奏でる。ここに飾られる花は、きっと幸福になるに違いない。二つのマグカップと明るいカーテン。雨彦さん家がどんどん僕の色に染まっていく。
いつか、二人で暮らす日が来たら。その家でも、花を絶やさないようにしたい。日々を彩るしあわせの形を、愛の言葉を、灯していたいと、そう願う。
「……何考えてるか、あててやろうか」
「結構ですー」
大きな手が僕の頭をかきまわし、ああもう、せっかく整えたのにとひと睨み。楽しそうな彼の肩を小突いて玄関に向かう。一歩外に出れば、まだほんのりと寒い風が肌を撫でた。
次に帰ってきたとき、この腕には花が抱えられている。それはそれは楽しい計画に、僕らの口角は自然と上がった。
チョコレートの甘さが口の中から消えないうちに。ぴゅう、と吹く風の中から日向へ、二人でせかせかと歩いて行った。