雨想
日曜日、実家には帰らなかった。
正確には、帰る暇がなかった。年始早々仕事が続いたのもあるし、正直成人のお祝いなんて、東京でも出来るのだ。
実家には正月に顔を出したし、そこでお祝いの言葉をかけられて、おしまい。この方が気が楽で助かった。中高の頃の同級生と成人式の会場で会ったら、きっとあっというまにもみくちゃの質問攻めにされて、あることないこと噂が広まって、テレビ中継でその様子が報道されてしまうのだ。ほんの数人の親しい人とだけ連絡がとれればそれでいいし、それは成人式の時じゃなくてもいい。兄さんには「行ったらどうだ」と言われたけれど、行かない選択をしたことを後悔はしていない。
「それでね、九郎先生、一希先生と、袴で写真を撮ってきたんだよー。ほら」
雨彦さんの家でコーヒーをご馳走になりながら、今日の仕事の話をする。仕事で何度か和装はしてきたが、お祝い事での正装となると、やはり背筋が伸びるというものだ。脱いだ途端、全身の力がぐったりと抜けてしまい、ああこれは雨彦さんを吸収しなければと慌てて家に押しかけたのだった。
「春名くんは来年やるんだって」
僕のスマホを見ながら、雨彦さんは嬉しそうに顔を綻ばせている。これじゃあ恋人というより、まるで親戚の人だ。
「似合ってるぜ」
大きな手が頭に降ってくる。わしわしと掻きまわされながら、こういうところは子ども扱いのままだなあ、と思った。大人になったという話をしたばかりなのに。
「それじゃあ、俺からも」
雨彦さんはなにやら棚をがさごそと漁り、綺麗にラッピングされた小さな箱を取り出した。誕生日にはもうプレゼントを貰っていたから、いきなりのサプライズにびっくりする。
「開けてみな」
片手で持てるほどの箱を開けてみると、くしゃくしゃの紙が緩衝材として入っていた。それをとっぱらって奥を見ると、小ぶりな陶器が姿を現す。
「……おちょこ?」
「ああ。美濃焼のな」
手に取ってみると、ころんとした、小さな軽い器だった。おちょこを持つのもはじめてである。側面に赤いラインが一本入っていて、鮮やかだ。
「それで、今度一杯、酌み交わさないか。俺からのお祝いだ」
「……いいのー? すごく嬉しいよー」
ありがとう、と言っているあいだに、雨彦さんはまたガサゴソをやって、今度は大きな箱を持ち出した。それを開けてみると徳利が入っていて、おちょことセットの模様だった。
「北村と酒を酌み交わすのを、ずっと楽しみにしてたからな」
「もー、いつから買っておいたのー?」
雨彦さんは本当に嬉しそうに笑っていて、僕以上に嬉しそうだった。なんだか照れ臭くなってしまい、それじゃあ、と提案する。
「いま、お酒はないのー? どうせならこのまま乾杯しようよー」
「お、いいのがあるぜ。飲みかけでよければ」
飲みかけならば、徳利は使わなくていいか。二人分のおちょこをテーブルに並べて、大きな緑色の瓶から、直接注いでもらった。ワイングラスはグラスを合わせないのがマナーだけど、おちょこは乾杯の時どうするのだろう。雨彦さんは顔の横に掲げて「おめでとう」と乾杯の音頭をとってくれたから、それに習って「乾杯」と返した。
日本酒はまろかかで甘くて、好きだ。喉の奥を通る時、顔が熱くなる。その感覚の慣れなさを味わっていると、雨彦さんはにこにこと愉快そうに笑っていた。今日は笑い上戸の日だ。この人は僕の成長が本当に嬉しいらしい。だから、親族じゃなくて、恋人なんだけどな。
「兄貴とは乾杯はしたのかい」
「うん、したよー。お寿司とって、ビールを飲んだよー」
「どうだった?」
「想像通りの苦さかなー。のどごしが重要だって言われたから、そのうち飲み慣れるのかなー?」
「そうかそうか。兄貴ともいっぱい飲めよ」
いつのまにかおちょこには二杯目が注がれていた。弱い度数なのか、まだくらくらはしない。
こうやって、雨彦さんと二人、静かに成長を祝えるのって、なんだかすごく嬉しい。もちろんクリスさんと三人で誕生日パーティーをしたのも、とても嬉しかった。それとは別の、特別の時間。こうして僕のために時間を使ってくれることが、とてもこそばゆくて、僕は顔が赤らむのを酒のせいにした。
「あ。お酒飲んじゃったから、車で送ってもらえないねー」
「酔いがさめるまでここにいていいさ。なんなら泊っても」
今日何度目かの、乾杯。おちょこはしっくり僕の手に馴染む。身体があたたかくなって、雨彦さんの頬も少し赤らんでいて、心地の良いしあわせだった。
両親にLINKで送った袴姿の写真に、いいねスタンプがついた。うん、僕の成人式はこれでいい。
これでいい、この小さなしあわせを噛みしめながら大人になっていくのが、楽しい。
雨彦さんは愉快そうにからから笑っていた。愛しいという思いを伝えるのもまた、酒のせいにしようと決めた。
正確には、帰る暇がなかった。年始早々仕事が続いたのもあるし、正直成人のお祝いなんて、東京でも出来るのだ。
実家には正月に顔を出したし、そこでお祝いの言葉をかけられて、おしまい。この方が気が楽で助かった。中高の頃の同級生と成人式の会場で会ったら、きっとあっというまにもみくちゃの質問攻めにされて、あることないこと噂が広まって、テレビ中継でその様子が報道されてしまうのだ。ほんの数人の親しい人とだけ連絡がとれればそれでいいし、それは成人式の時じゃなくてもいい。兄さんには「行ったらどうだ」と言われたけれど、行かない選択をしたことを後悔はしていない。
「それでね、九郎先生、一希先生と、袴で写真を撮ってきたんだよー。ほら」
雨彦さんの家でコーヒーをご馳走になりながら、今日の仕事の話をする。仕事で何度か和装はしてきたが、お祝い事での正装となると、やはり背筋が伸びるというものだ。脱いだ途端、全身の力がぐったりと抜けてしまい、ああこれは雨彦さんを吸収しなければと慌てて家に押しかけたのだった。
「春名くんは来年やるんだって」
僕のスマホを見ながら、雨彦さんは嬉しそうに顔を綻ばせている。これじゃあ恋人というより、まるで親戚の人だ。
「似合ってるぜ」
大きな手が頭に降ってくる。わしわしと掻きまわされながら、こういうところは子ども扱いのままだなあ、と思った。大人になったという話をしたばかりなのに。
「それじゃあ、俺からも」
雨彦さんはなにやら棚をがさごそと漁り、綺麗にラッピングされた小さな箱を取り出した。誕生日にはもうプレゼントを貰っていたから、いきなりのサプライズにびっくりする。
「開けてみな」
片手で持てるほどの箱を開けてみると、くしゃくしゃの紙が緩衝材として入っていた。それをとっぱらって奥を見ると、小ぶりな陶器が姿を現す。
「……おちょこ?」
「ああ。美濃焼のな」
手に取ってみると、ころんとした、小さな軽い器だった。おちょこを持つのもはじめてである。側面に赤いラインが一本入っていて、鮮やかだ。
「それで、今度一杯、酌み交わさないか。俺からのお祝いだ」
「……いいのー? すごく嬉しいよー」
ありがとう、と言っているあいだに、雨彦さんはまたガサゴソをやって、今度は大きな箱を持ち出した。それを開けてみると徳利が入っていて、おちょことセットの模様だった。
「北村と酒を酌み交わすのを、ずっと楽しみにしてたからな」
「もー、いつから買っておいたのー?」
雨彦さんは本当に嬉しそうに笑っていて、僕以上に嬉しそうだった。なんだか照れ臭くなってしまい、それじゃあ、と提案する。
「いま、お酒はないのー? どうせならこのまま乾杯しようよー」
「お、いいのがあるぜ。飲みかけでよければ」
飲みかけならば、徳利は使わなくていいか。二人分のおちょこをテーブルに並べて、大きな緑色の瓶から、直接注いでもらった。ワイングラスはグラスを合わせないのがマナーだけど、おちょこは乾杯の時どうするのだろう。雨彦さんは顔の横に掲げて「おめでとう」と乾杯の音頭をとってくれたから、それに習って「乾杯」と返した。
日本酒はまろかかで甘くて、好きだ。喉の奥を通る時、顔が熱くなる。その感覚の慣れなさを味わっていると、雨彦さんはにこにこと愉快そうに笑っていた。今日は笑い上戸の日だ。この人は僕の成長が本当に嬉しいらしい。だから、親族じゃなくて、恋人なんだけどな。
「兄貴とは乾杯はしたのかい」
「うん、したよー。お寿司とって、ビールを飲んだよー」
「どうだった?」
「想像通りの苦さかなー。のどごしが重要だって言われたから、そのうち飲み慣れるのかなー?」
「そうかそうか。兄貴ともいっぱい飲めよ」
いつのまにかおちょこには二杯目が注がれていた。弱い度数なのか、まだくらくらはしない。
こうやって、雨彦さんと二人、静かに成長を祝えるのって、なんだかすごく嬉しい。もちろんクリスさんと三人で誕生日パーティーをしたのも、とても嬉しかった。それとは別の、特別の時間。こうして僕のために時間を使ってくれることが、とてもこそばゆくて、僕は顔が赤らむのを酒のせいにした。
「あ。お酒飲んじゃったから、車で送ってもらえないねー」
「酔いがさめるまでここにいていいさ。なんなら泊っても」
今日何度目かの、乾杯。おちょこはしっくり僕の手に馴染む。身体があたたかくなって、雨彦さんの頬も少し赤らんでいて、心地の良いしあわせだった。
両親にLINKで送った袴姿の写真に、いいねスタンプがついた。うん、僕の成人式はこれでいい。
これでいい、この小さなしあわせを噛みしめながら大人になっていくのが、楽しい。
雨彦さんは愉快そうにからから笑っていた。愛しいという思いを伝えるのもまた、酒のせいにしようと決めた。
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