雨想

 金木犀の香りがするという紅茶を頼んでみた。いつもならブレンドコーヒー一択なのだが、北村が季節に合わせて注文を変えるのを見て、なんだか真似してみたくなったのだ。
 オレンジの輪切りの乗った茶色の液体を窓際のカウンター席に置き、傘を椅子の背もたれにかける。グリップの部分が木で出来た、大ぶりの黒い傘。その辺に売っているビニール傘を使っていたら、北村に「こういう小物にも愛着を持つの、楽しいよー」と教えてもらい、興味半分で買ったものだ。なるほどたしかに、こんな秋雨の日にはよく似合う、と我ながら感じる。
 北村とは十一も違うのに、様々なことを教えられてばかりだ。彼が生きる若々しい人生の一瞬一瞬の、なんと鮮烈なことか。進むがままに身を任せてきた俺の人生とは大きく違う――彼から見た俺もまた、大人の人生を歩む眩い未来に見えていたならいいのだが。
 オレンジの苦みが後を引く紅茶はなかなか美味しく、身体のあたたまっていく心地がする。店内のBGMにかき消されながらも隣の男女の会話が耳に入ってくる、彼曰く「だからそこで四点入るから負けが確実」とのこと、なんのゲームの話なんだか。人間観察は好きではあるが、それと「他人に興味がある」の間には深く隔たりがあるように思う。
 北村も古論もプロデューサーも、観察するのはとても愉快だ。俺の一言で嬉しそうに笑うのをみると愉快な気分になる。彼らだけではない、事務所の人々は皆そうだ。皆、他人と等しく、俺自身にも興味を持ってくれている。はじめはくすぐったかったが、今ではその当たり前が随分と嬉しい。
 嬉しい、という感情を細分化するようになったのは、ここ最近になってからだと思う。アイドルになってからでもあるし、北村と付き合うようになってからもそうだ。自分を見てもらえること、わかってもらえること、返事がかえってくることの喜びについて、ひとつひとつが輝きを放っている。その瑞々しさたるや、スポットライトを浴びることと、恋人のいる日常の華やかさはそれぞれ異なる光り方をしている。
 マグカップの中身を見る。このオレンジの輪切りは、ただの飾りなのか、トッピングとして食べてもいいものなのか、どちらか。残したって店員は何も思わないだろうけれど、不慣れなものを頼むとどうしても正しい作法が気になる。
 スマホで写真を撮り、LINKで北村に送った。「オレンジは食べてもいいのか」という一言を添えて。この時間ならおそらく大学だろう。授業中だったら申し訳ないと思っていたところ、返信は案外早くきた。
『どちらでもいいと思うよー。食べたい人も、残す人もいるよー』
『北村ならどうする?』
『うーん。残す……いや、今日はおなかがすいてるから、食べちゃうかなー』
 そうか、気分によって変えることもあるのか。なんとなく、食べる人と食べない人、と世間はきっぱりふたつに分かれているのかと思った。またひとつ教えられたようだ。
『メシは食ってないのかい』
『電車が遅延してて学校に着くのが遅れて、食べ損ねちゃってねー』
『どこか行こうか。と言っても、俺も車じゃないから、遅延に巻き込まれながらだが』
『奢りー? ごちそうさまですー。終わったら連絡するねー』
 ちゃっかりしている、と笑う。彼のしたたかさは末っ子ならではといったところか。彼の兄もこのように甘えられているのだろうか。それは少しばかり羨ましくもある。
 オレンジは齧ってみると思ったよりも苦くなかったので、そのまま食べることにした。マグカップの中を空にして、スマホで諸連絡を済ませ、雨が弱まってきたのを見計らって席を立つ。
 北村の大学の近くまで電車で向かおうとしたら、言われた通り遅延していた。しかし完全に交通網が停まってしまったわけではなく、遅れながらも目的地には着くようだったので、構わず電車に乗り込んだ。
 誰かのイヤホンから音漏れがしていて、なかなかにロックなBGMのかかる車内の誰もががスマホを覗いており、またその他の人は文庫本を読むか寝るかをしていたため、乗客のほとんどが下を向いていた。こんな背の高い男が――仮にもアイドル、である――が乗っていても知らんぷりなほどに。俺は窓の外を見つめた。雨粒が窓ガラスを叩く。パチンコ店の寂れた看板と保険屋の真新しい看板が交差していく。
 北村はこういう時、本を読むのだろうな、と思った。彼のカバンの中には必ず一冊は本が入っている。同年代はスマホを見つめているだろうに。彼の大人びた、達観したものの見方は、多くの物語に触れてきたから故なのか、育ちのせいなのか。まだまだ知らないことは多い。教えてもらうことは、多い。
 乗客はみんな傘を持っている。ビニール傘の者もいれば、折り畳み傘の者も。黒い傘を何本か見かけたが、自分のが一番美しいと思った。北村が選んでくれたのだから、当然だ。グリップの部分が木で出来た、大ぶりの黒い傘。どの傘よりも一際輝いている。
 早く会いたい、と願った。十一も下の恋人に。そうして、オレンジが苦くなかったことを伝えたい。指先はまだほかほかとあたたかく、九月の到来を喜ぶように、雨の降り方はやさしかった。
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