雨想

 寝ぐせがとれない夢を見た。
 それは梳かしても梳かしてもなおらない、針金みたいなかたちだった。根元に水をつけても、ドライヤーをしても、髪の根元は爆発していた。はやく、はやくしなければ、学校に遅れてしまう。でもこんな髪型のまま学校になんていけない。
 心臓が早鐘をうつ感覚で起きた。夢から覚めると、ああ今のは夢だったのだ、と気付くまでに数秒かかる。僕は眼前に広がる雨彦さんの背中に、鼻をこすりつけた。
「起きたかい」
「あ、ごめん、起こしちゃったー?」
「そうだな、もうひと眠り」
 雨彦さんは寝返りをうって、僕を抱きしめ直す。今度は胸に鼻をこすりつけた。雨彦さんの匂い。朝のベッドの中では、鬢付け油の匂いはしない。
 この人はどんな夢を見るんだろう、と思った。寝つきの悪い、眠りの浅い男だ。案外、僕の夢でも見ているかもしれない。夢の中の僕はどんな立ち振る舞いをしているかはわからないけれど。
「ねえ。僕の髪、跳ねてるー?」
「んん……? いいや」
 眠そうにしていた雨彦さんは薄目を開けて僕の頭部を見たのち、手のひらで撫でつけた。手のひらの感触だけで「いいや」と言ったに違いない。雨彦さんの目はまたすぐ閉じてしまった。
 雨彦さんの、たまにする険しい顔が好きだった。眉間にしわを寄せて、硬く口を結んでいるのが。台本を読んでいる時なんかによく見かける。集中していると怖い顔になるらしい。彼としては少し気にしているようだが、僕はそのままでいいと思う。話している時の彼はだいたいが陽気で、口には微笑みをたたえているのだから、一人の世界の時くらい、怖い顔をしていたって構わないのだ。
 雨彦さんの唇をなぞる。朝だから、少しかさついてる。真夏は冷房を付けて寝るから乾燥しやすい。僕は枕もとのリモコンを手に取って、一度温度を上げた。ささやかな抵抗。夏に対しての。
 朝ごはんをどうしよう、と思った。卵があった気がする。スクランブルエッグにして、それとトーストかな。バターをたっぷり塗って。以前は朝食は食べない派だったが、雨彦さんと暮らすようになってから、二人で食卓を囲みたくて、いつからか食べるようになったのだった。僕は雨彦さんの胸の中で冷蔵庫の中身のことを思い出す。ええと、他にはなにがあったっけ、と逡巡したところで、牛乳が切れていることを思い出した。
「ねえ、雨彦さん」
「……ん?」
「僕、牛乳を買いにコンビニに行ってくるねー」
「……ん」
 夢うつつの雨彦さんの胸の中から抜け出そうとすると、雨彦さんはもう一度僕の頭を撫でた。いってらっしゃいのつもりなのだろう。僕は簡単に着替えて顔を洗い、寝ぐせがついていないことを確認した。
 近所のコンビニまでの道は静かだった。大通りからは離れているからだ。通勤の人々はそちらを通るのだ。人目につかなくてちょうどいい。鳥の囀りも暑そうだった。
 コンビニで牛乳と、ついでにヨーグルトも買った。アロエ入りのと、みかん果肉入りのを。ビニール袋をがさがさ言わせながら、空の青さを浴びた。日焼け止めを買い足さないといけない。冴え冴えとした日光が眩しい。
「ただいまー」
「おう、おかえり」
 帰ると雨彦さんは起きており、歯を磨いているところだった。起きてすぐ、朝食の前に歯を磨かないと気が済まないのだという。だから彼は、朝食のあとに二回目の歯磨きをする。
「ヨーグルトを買ってきたよー、アロエと、みかん」
「そりゃいい。好きな方を選びな」
「えー、雨彦さんに選んでもらおうと思ったのに」
 結局、雨彦さんがアロエ、僕がみかんを食べることになった。バターたっぷりのトースト、スクランブルエッグ、牛乳。完璧な朝食。お揃いの食器。
「今朝ね、夢を見たんだー。寝ぐせがとれないっていう夢」
「それであんなこと聞いたのか」
「あれー、覚えてるの? 寝ぼけてると思ってたのに」
 くすくすと笑いながら、雨彦さんの前髪のかかった額を見る。髪を降ろすと、彼は少しだけ幼くなると思う。今日も鬢付け油で全ての前髪を掻き上げてしまうだろう。僕は、彼の前髪が好きだった。
 うん。好き。好きなところがたくさんある。しかめた眉。降ろした前髪。アロエヨーグルトを選ぶところ。朝、ベッドの中で抱きかかえてくるところ。彼の胸の匂い。
「何笑ってるんだ」
「え、笑ってたー?」
 完璧な朝食のせいにしてしまおう、と思った。僕らはあっという間に食事を終え、コーヒーを淹れた。頭がすっきりする気がして、僕らの習慣となっていた。ほんの少しの贅沢として、インスタントの粉ではなく、ドリップタイプのものを常備している。豆から挽く丁寧な暮らしは出来なくとも、この程度ならば手が届く。
 手が届く範囲のしあわせについて。僕はやっぱり笑ってしまう。寝ぐせはついていなかったし、雨彦さんは前髪を降ろしている、素敵な朝だった。夏のさなか、鳥の囀り。アロエヨーグルトとみかんヨーグルト。
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