雨想

 雨彦さんの家でレポートの宿題と戦っていた。なぜここでやっているかと言うと、世間では夏休みが始まったのだ。図書館も事務所も常に人が溢れている。その若々しいオーラが眩しく感じつつも、ひとりで静かに課題に向き合いたい僕は、逃げるようにして雨彦さんの家へと流れ着いたのだった。
「自宅では捗らないかい?」
「兄さんが早めの夏休みでねー。ゆっくり寝かせてあげたくて」
「なるほど。兄貴想いだな」
「近所のカフェも満員で騒がしくて」
 街が賑やかになることはいいことだ、活気にあふれて物流が回る。この世界が華やいでいくのだから。ただちょっと、いつも木陰にいたかった僕にとって、木陰まで陽気な雰囲気が流れてくると、息苦しくなってしまうのだ。
「北村も、一人旅に絶好の機会なんじゃないのか」
「うーん、もうちょっと涼しくて、人が少ない時にのんびり行きたいかなー」
 レポートも佳境に入り、僕は参考文献の引用を大目にとって字数を稼ぐ。この教授は「全ての演劇は能に通ずる」と書いておけばSをくれると有名なのだ。いかにして自然に、その言葉を練り込むか。演劇史はむかしむかしのまつりごとから、娯楽へと移り変わっていく。
「祭りか。そういえば今夜、花火大会があったな」
「最近、雷雨で中止になってたとこもあったでしょー? 大丈夫かなー」
「北村。そのレポートが終わったら、行ってみようか、花火大会」
「ええ、今からー?」
 窓の外を見ると、茹るような暑さが待ち構えている。まるで外の方が温泉、もといサウナみたいだ。そっちでととのいたくはないかなー。
「ここだけの話だが、ご褒美にかき氷でもわたあめでも、何でも買ってやろう。秘密だぜ」
「……夏祭り ここぞとばかりに 食い気かな」
 僕はその話に乗った。参考文献の引用をあらかた終わらせ、結論のパートに入る。その間、雨彦さんは花火大会会場までの行き方を調べてくれている。とっとと終えて、花火を見に行こう。あれ、僕、いつのまにこんなに浮かれていたっけ。「ここだけの話」にどうも弱い。
「初稿、終わりましたー。提出は明日メールでだから、これで僕の夏休みもスタート」
「お、おつかれさん。普段着のままでいいかい?」
「雨彦さんの浴衣なり甚兵衛なり着たら、だぼだぼになっちゃうでしょー。お忍びで行くんだから浮かれないのー」
 現地は車も混みそうだ、との判断で、僕らは電車を使って一番近い花火大会会場へ向かった。電車で見慣れている川の近くに、人だかりが出来ているのは、桜並木の花見会ぶりではなかろうか。まったくこの国は、四季がめまぐるしい。夏はもう少し、遠慮してほしいけれど。
 雨彦さんはこげ茶色が薄く見えるサングラスをかけていた。これから花火を見るのにサングラスなんて。身長が高くて目立つ分、出来る変装が限られているらしい。帽子とマスクでいいじゃん、と僕は思うけれど、それだと逆に勘繰られる、いっそ堂々としていた方が見つからない、とのことだった。僕は大人しく帽子とを被る。
「雨彦さん」
 僕は精一杯の背伸びをして、彼の耳元に囁いた。対して雨彦さんは少し屈んで耳を近付けてくれる。人ごみのなか、ひそひそ話をするには、おのずとこの体制になってしまう。
「ね、りんご飴、食べたいなー」
「ああ、いいとも」
 りんご飴の屋台は盛況で、りんご飴を初めて見る子供たちがどれにしようか一生懸命に悩んでいる様子は微笑ましかった。屋台のおばちゃんもずっとニコニコしており、毎年の楽しみなんだろうな、と窺えた。毎年子供たちは大きくなっていき、新しく小さい子が新鮮に驚きながら買っていくサイクル。快活に笑いながら金銭の対応をしてもらい、僕と雨彦さんはその生命の瑞々しい循環の輪のなかから出た。真っ赤なりんごに、透き通った水飴が涼やかだ。一口ぺろ、と舐めてみて、この夏を凝縮したらこんな甘さなのかな、と感じた。
「おいしい」
「そりゃよかった」
 僕らは並んでりんご飴を食べた。しゃくしゃくと噛み進めていくと、りんごのジューシーさと飴の硬さの触感の違いが楽しくなっていく。口の周りがぺとぺとしてきた。
「北む……」
 雨彦さんは小さな声で僕に囁き、何かを逡巡したのち、
「ノイ」
 と言い直していた。僕らは時折、人混みの中で内緒話をする時、偽名を使う。身バレ防止でもあるし、ちょっとしたゲームにもなった。
「なに、ナハトさん」
「花火だが、特等席があいてるぜ。なに、ちょっと蚊に食われるが」
 背の高い彼から見える、どこかいい席があるのかもしれない。僕は大人しくその案に乗ることにした。りんご飴はすっかり食べ終わり、口の中をたっぷりと甘くしていた。甘いものを食べると、どうして人は優しい気持ちになるのだろう。
 木を隠すなら森の中。僕は雨彦さんとこっそり手を繋いでみた。たぶん誰にもバレない。人ごみをかきわけ、すこし高台にある神社に辿り着いた。
「あ、ここまでくると人がいないねー」
「境内で見ようと思う人は少ないだろうさ」
 アナウンスが始まり、暫くして夜空にするすると花火が咲きだした。繊細そうな線が連なったもの、小さな花が小さく咲くものと続いて、大輪の花の連続。こんなに近くで見ていると、どーんという音はほぼ爆発音だ。僕は雨彦さんの腕にもたれかかる。
「あるじさま、サングラス取っちゃ変装にならないでしょ」
「白、大丈夫だ。今だけはみんな、空を見てるさ」
 なんだか名前を呼ばれた気がして一瞬こそばゆくなったのも、花火の振動が打ち消してくれた。僕らは手を繋いで空を見上げる。この街とひとつになれた、そんな感覚に圧倒され、暑さに包まれても不快ではなかった。
 最後に一発、どーんと大きいのが爆ぜて、拍手喝采で終わりを告げる。僕たちも森の一部となって、蚊に食われた腕を搔きながらそそくさと帰った。
 雨彦さんの家に戻って、コンビニで買ったかき氷を食べていると、もう自宅に帰る元気はない。僕は雨彦さんの耳元まで行って、
「内緒なんだけど、今日、泊まっていってもいいかなー」とひそひそ聞いてみた。
「どうやら家主によると、いいらしいぜ。ただ、バレないようにな」
「ふふふ」
 家の中じゃ帽子は被れない。僕は耳元まで寄せた唇を、雨彦さんの唇に重ねる。
「あ。ばれちゃったー」
「鬼に見つかると食べられちまうぞ」
 二人で戯れながら、夜が更けていく。目の裏に焼き付いた花々の光と、りんご飴の香りを、雨彦さんで上書きするのにはそう時間はかからなかった。
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