雨想

 折り紙のうさぎが完成した時には、もう十二時を超えていた。指先がかさかさとして、潤いを求めている。僕はキッチンに向かい、冷蔵庫から麦茶を出した。残りわずかだったら口を付けて直飲みしてしまおうと思っていたのに、二リットルのペットボトルは満タンだった。兄さんはまだ帰らない。
 折り紙に集中して肩が凝るだなんて、なんとも間抜けだ。僕は固まった首をぐるりと回し、腕を大きく伸ばした。明日のレッスンではストレッチを念入りに行おう。酸素を取り入れたからか大きな欠伸が出て、それを合図に眠気がやってくる。
 明日の授業は午後からだから、のんびりと寝られる。そう思っていた矢先、ぶ、とスマホが震えた。何の通知かなんて、見なくてもわかった。僕はリビングの電気を消しながら、LINKの表示を確認する。思った通り、雨彦さんからだ。
「月が綺麗だぜ」
 たった一言のメッセージに、やれやれと溜息をつく。まったく、誘い方が下手なんだから。僕は通話ボタンを押して、さてどうしたものかと考える。
「ありきたり、陳腐な文句、胸焼けす。こんな夜中にどうしたのー?」
「起きてたか。いやなに、本当に見事でな」
「雨彦さんって、愛してるの一言も言えないわけー?」
「そう簡単に言うと軽くなっちまうだろう?」
 言葉の攻防戦を繰り広げながら、僕も随分図太くなったなあ、なんてことを思った。愛の言葉なんて、以前は求めなかったのに。久しぶりにブライダルの仕事をして、意識するようになってしまったのだろうか。
「それで、本題はなにー?」
「……ベランダ、出られるか?」
「なんでー? ……もしかして、いるのー?」
 まるでロミオとジュリエットじゃないか。真っ暗なリビングを通過して、カーテンの隙間をくぐり、ベランダに出てみれば、なるほど見事な満月だった。下を見ると、路肩に止まった車にもたれかかった大きな影が左手をあげていた。
「あんまり丸い月だったからな。何となく、お前さんの顔が見たくなったんだ」
「僕の頭が丸いって言いたいのー?」
 僕は手すりに肘をついて、雨彦さんを見下ろした。宵闇の中でいつものように涼やかに笑う彼はご機嫌そうだ。夜中のドライブというものは楽しいのだろう。
「……もっと近くで、顔、見たくないー?」
「……奇遇だな。月見と洒落こまないかと誘うつもりだったんだ」
 うそつき。本当はおやすみと言うつもりだっただろうに。待っててねー、と言って通話を切り、また真っ暗なリビングを通過した。上着だけ羽織って戸締りをする。何も持たなくていい。雨彦さんに全て任せていればいい。
「おまたせー」
「いいのか、こんな夜中に外出なんて」
「未成年でも、お嬢さんでもないんだから。それに、誘ったのはそっちでしょー?」
 どこにでも連れて行ってよ、と言いながら、乗り慣れた助手席に乗り込んだ。この車に乗るのも何回目だろう。月はフロントガラス越しにもくっきりと明るくて、街を眠らせる気なんてなさそうだった。恋人の逢瀬には少々眩しすぎるかもしれない。
「北村も、大胆になったな」
 運転席に座りながら、雨彦さんは愉快そうだ。大胆なのはどっちなの、ここまで迎えに来ておいて。
「あなたのせいだよー。雨彦さんのせい」
「ははは。そりゃ責任とらないとな」
 そのまま、どちらからともなく身を乗り出して、唇を合わせた。お互いの体温を数度確かめあっている間も、月は煌々と眩しかった。
「……月、綺麗だねー」
「ほらな。あまりにも綺麗だと、それしか言えなくなっちまう」
 雨彦さんはまた涼やかに笑い、シートベルト閉めろよ、と言って静かにアクセルを踏んだ。僕は頭の横の器具をがちゃがちゃ言わせながら、さっきまで僕が立っていたベランダを見上げる。
 おやすみなさい。さっきまで僕が折っていたうさぎにそっと呟いた。雨彦さんに見せたくて折っていたのに、持ってくるのをすっかり忘れてしまっていた。
「ね、明日、面白いものをみせてあげるー」
「へえ、事前に予告されちゃあ、期待するぜ」
 今夜の月の上では、きっとうさぎたちが宴をひらいている。僕らはそれにあやかるように、静かに静かに街を泳いだ。
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