雨想

 湯船に浸かると、あー、と気の抜けた声を出してしまうのは何故だろう。おじさんくさいだろうか。まだ「あ」に濁点が付いていないだけマシではないだろうか。お湯に顔面をつけて、あー、と叫んでみると、ごぼごぼごぼと泡が破裂した。
 今日あった出来事を反芻するのに、湯舟は向いている。昼間はインタビューがあった。事前にいくつか質問を予想しておいたのが功を奏し、問題なく答えられはしたけれど、面白みにかけてただろうか。学生業との両立は難しくないですか。学校でも毒舌キャラなんですか。いいんだ、僕は僕らしく答えただけだ。プロデューサーに許可も得ている。
 あー。ごぼごぼごぼ。髪がお湯の中で揺蕩う。いつまでもこうしていたい、と水の中で思うことがあるのは、人類が海から生まれたからかもしれない。それこそクリスさんが喜びそうな話題だ。
「北村」
「うわっ、びっくりしたー」
 しばらくぼーっとしていたら、雨彦さんが風呂場のドアを開けてきた。彼は僕より先に風呂を済ませている、火急の用だろうか。
「なに、声が聞こえなくなったかと思ったら暫く何も聞こえないもんだから、本当に溺れちまったかと思ってな」
「なんだー、大丈夫だよー」
 ばくばくと鳴る心臓の動きに合わせて波紋も広がってないだろうか。僕は心配かけたことを謝りながら湯舟の栓を抜いた。
 風呂から上がり、いつのまにか雨彦さんの家に常備されるようになった僕用の寝巻に着替える。雨彦さんの服を借りていた頃はだぼだぼで、寝ている間にズボンが脱げてしまっていたっけ。バスタオルはふかふかと気持ちよく、自分の家のと比べてしまう。いい品を使っているのか、洗濯にコツがいるのか、いつか聞いてみよう。
 ドライヤーを終え、リビングに戻ると、雨彦さんがシンクの掃除をしていた。何もこんな時間にしなくても。僕はその横からひょいとグラスを取って、水道水を汲んで飲む。
「冷蔵庫に、水も牛乳もあるのに」
「いいんですー、とりあえず飲みたかっただけだからー」
 ぽんぽん、と頭を撫でられて、ああ、今上機嫌なんだな、と察した。シンクはすっかりピカピカだし、雨彦さんも僕も風呂上りでほかほかだし、小さな部屋はごきげんに満たされた。
 雨彦さんが実家と事務所の間に借りたこの一人暮らしの城は、もはや僕の庭だった。僕の選りすぐりの雑貨――時計とか、ペン立てとか、玄関に貼り付けるマグネット収納とか――で彩られた部屋は居心地が大変良い。ソファも兼ねてる大ぶりなベッドは、僕にはちょうど良いけれども、雨彦さんはいつも斜めに寝ているらしい。だから、僕と並んで寝る時は、二人して少し斜めになっている。
「雨彦さんー」
「ん?」
 僕はキスをねだるとき、名前を呼んで、そこから黙る。その不文律をいつも読み取って、屈んでくれるのが好きなのだ。名前を呼ぶだけだけれど、僕らだけの秘密の合図みたいで。
 雨彦さんは掃除用具を置き、やわらかく僕を包み込んだ。二人して石鹸の匂いがする。少し歩けばベッドなのに、キッチンでするキスというものは、どこか背徳的だ。
「ソープオペラって、知ってるー?」
「昼ドラマのことかい?」
「なんだ、知ってたのー」
 平日の昼、主婦がターゲット層の恋愛ドラマは泥にもまみれ、まるでオペラのごとく悲喜こもごもであり、そこへ石鹸のCMが並ぶ。僕はこの呼び名が好きだ。揶揄しているようであり、なのにどこか胸を張って清々しいような感覚がして。
「石鹸の 香りのキスを キッチンで」
「なるほど、確かにソープオペラだな」
 はは、と笑いながら僕を抱き上げ、数歩歩いてベッドへ落とす雨彦さんの頬が上気しているのを見ると、僕の胸の奥はさらにほかほかとしてくる。ベッドのスプリングが動悸と重なって、さっきの湯舟の波紋を思い出した。
 まだ少し、お互いの前髪がしっとりしている。雨彦さんの前髪が額にくすぐったい。僕はくすくす笑いながら、彼の頬に、額にキスをした。
「オペラと言うには、情熱にかけてないかい」
「えー、じゃあどんなのがお好みー?」
「こんなのかな」
 雨彦さんはがばっと僕を押し倒し、かぶりつくように首筋を舐めた。さっき洗ったばかりの身体が、彼の色に侵食されていく。
 シーツに縫い付けられた手首が熱い。彼の息遣いに合わせて僕の呼吸も荒くなってきたころ、雨彦さんが耳元で囁いた。
「残念ながら、見どころの悲恋のシーンはないぜ」
「ふふ、本望だよー。子供には見せられないねー」
 情熱的なドラマが繰り広げられるベッドの上は、石鹸の匂いで満たされる。ごぼごぼごぼ。弾けては消える泡が、まるでシャボン玉のようだ。あ、と漏れた僕の声は、お湯の中に消えたそれより、随分か細いものだった。
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