雨想
はっと目を覚ますと、雨彦さんの肩に頭を乗せていた。ぐらぐらする頭を必死に正常に戻しながら、今がいつでここがどこなのかを冷静に思い出そうとした。えーと、たぶんここは、雨彦さんの部屋。
「起きたかい」
「寝ちゃってたんだねー……ふわあ」
あくびをひとつ零しながら、ゆっくりと身体を起こすと、肩から重みがぱさりと落ちた。温もりの塊を手繰り寄せると薄手の毛布で、雨彦さんの鬢付け油の香りがする。わざわざかけてくれたんだろうか。壁の時計はまだ帰宅するには早い数字を指していたから、もう一度毛布にくるまってみる。
「寒いか?」
「ううんー……あったかくて気持ちいい」
雨彦さんの肩は頭を乗せるのにちょうどいい位置にある。そうだ、お互いに台本を読んでたんだった、雨彦さんの手元の紙の束をチラっと見て、たくさんのエクスクラメーション――ビックリマークに驚く。そんなに血気盛んなドラマだったっけ。
「ああ、夫婦喧嘩の佳境シーンでね」
「ヒステリックなかんじー?」
「積年の恨みつらみの大爆発ってところだ。こうはなりたくないな」
「……それ、僕に言ってるー?」
雨彦さんの意味深な発言に顔を見上げると、彼はふっと笑って僕の頭を二度撫でた。言わなくてもわかるだろ、なのか、全ての人に対してさ、なのか、真意は汲み取れなかった。
僕が読んでいた台本はローテーブルの上に置かれている。手を伸ばして開いてみても、そこにビックリマークはない。今回僕は冷静な役が振られていた。最近こういう役が多いな。大人びたイメージでも持たれだしたかな。役が大人っぽいと、いつも背伸びしている心地になって、爪先に力が入りっぱなしになる。どこかで力の抜き具合も調整したほうがいいと共演者に教わって以来、力みすぎないようにはしているつもりだが、なかなかどうして難しいものだ。
「……ははそはのははもそのこも」
「ん? なんのセリフだ?」
「ううん、急に頭に降ってきただけ」
ははそは、は「母」にかかる枕詞だ。母もその子も、といった意味になる。口の中を転がるようなこの一節が何の文だったかも思い出せずに、語感だけが舌に残っている。
「ははそはのははもそのこも」
「何かのまじないみたいだな」
「そうかもー。雨彦さんが帰りに車で送ってくれるように唱えてるんだー」
「おっと、何だか車に乗りたくなってきたな」
二人でくすくす笑いながらページを捲る。時計はこちこちと礼儀正しく時間を刻み、けれど陽は日に日に長くなっている。帰りたくないという気持ちが募り、詩の続きを思わず検索した。
「ははそはのははもそのこも、はるののにあそぶあそびをふたたびはせず」
「お、原作を見つけたのか」
「三好達治の「いにしへの日は」でしたー。春のうただったねー」
ははそはの母もその子も、そこばくの夢をゆめみし。春は夢のはじまりのような季節だと思う。桜はすっかり散ってしまったので、僕らはもう夢の中だ。
季節は変わっていくし、僕らは成長することをやめない。陽は高くなっていくし、風は熱さを帯びていく。夏の始まりのこの一瞬が、永遠であるように錯覚するのは、台本のエクスクラメーションのせいかもしれない。
「そのシーンで雨彦さんは、なにか叫んだりするー?」
「よせ! 正気に戻れ!」
どこか調子に乗ったその迫力の凄さにまたけらけら笑い、さて、と毛布を肩から落とした。雨彦さんが僕のおまじないで車に乗りたくなっちゃったから、つきあってあげないと。
「……僕がヒステリックになるほどの喧嘩をした時も、雨彦さんはそう言って止める側なのかなー?」
「さてなあ、案外俺がおいおい泣いて、北村が困り果てるかもしれないぜ」
「えー、それはちょっと見てみたいかもー」
今はまだ、こうやってお互い笑い合えれば、それでいいか。台本をカバンに仕舞い、階段を下りて、雨彦さんの叔母さんにご挨拶をして。アヤカシ清掃社の車に乗り込むと、この車独特の匂いに包まれた。
「ははそはの?」
「ははも、そのこも」
雨彦さんは季節遅れの呪文を覚えたそうだった。どうせなら次は夏のうたを思い出したい。
エンジンがかかり、身体が微弱な振動に揺れる。雨彦さんはもう地図がなくても僕の家まで行ける。僕は流れていく窓の外を見ながら、いつかの喧嘩を思い浮かべた。
エクスクラメーションはいくつ飛び交うことになるんだろう。想像したってわからない。とびっきりの喧嘩を、いつかしてみたい。ははそはの、まで覚えた雨彦さんの中途半端な鼻歌に、車は大きく右に曲がった。
「起きたかい」
「寝ちゃってたんだねー……ふわあ」
あくびをひとつ零しながら、ゆっくりと身体を起こすと、肩から重みがぱさりと落ちた。温もりの塊を手繰り寄せると薄手の毛布で、雨彦さんの鬢付け油の香りがする。わざわざかけてくれたんだろうか。壁の時計はまだ帰宅するには早い数字を指していたから、もう一度毛布にくるまってみる。
「寒いか?」
「ううんー……あったかくて気持ちいい」
雨彦さんの肩は頭を乗せるのにちょうどいい位置にある。そうだ、お互いに台本を読んでたんだった、雨彦さんの手元の紙の束をチラっと見て、たくさんのエクスクラメーション――ビックリマークに驚く。そんなに血気盛んなドラマだったっけ。
「ああ、夫婦喧嘩の佳境シーンでね」
「ヒステリックなかんじー?」
「積年の恨みつらみの大爆発ってところだ。こうはなりたくないな」
「……それ、僕に言ってるー?」
雨彦さんの意味深な発言に顔を見上げると、彼はふっと笑って僕の頭を二度撫でた。言わなくてもわかるだろ、なのか、全ての人に対してさ、なのか、真意は汲み取れなかった。
僕が読んでいた台本はローテーブルの上に置かれている。手を伸ばして開いてみても、そこにビックリマークはない。今回僕は冷静な役が振られていた。最近こういう役が多いな。大人びたイメージでも持たれだしたかな。役が大人っぽいと、いつも背伸びしている心地になって、爪先に力が入りっぱなしになる。どこかで力の抜き具合も調整したほうがいいと共演者に教わって以来、力みすぎないようにはしているつもりだが、なかなかどうして難しいものだ。
「……ははそはのははもそのこも」
「ん? なんのセリフだ?」
「ううん、急に頭に降ってきただけ」
ははそは、は「母」にかかる枕詞だ。母もその子も、といった意味になる。口の中を転がるようなこの一節が何の文だったかも思い出せずに、語感だけが舌に残っている。
「ははそはのははもそのこも」
「何かのまじないみたいだな」
「そうかもー。雨彦さんが帰りに車で送ってくれるように唱えてるんだー」
「おっと、何だか車に乗りたくなってきたな」
二人でくすくす笑いながらページを捲る。時計はこちこちと礼儀正しく時間を刻み、けれど陽は日に日に長くなっている。帰りたくないという気持ちが募り、詩の続きを思わず検索した。
「ははそはのははもそのこも、はるののにあそぶあそびをふたたびはせず」
「お、原作を見つけたのか」
「三好達治の「いにしへの日は」でしたー。春のうただったねー」
ははそはの母もその子も、そこばくの夢をゆめみし。春は夢のはじまりのような季節だと思う。桜はすっかり散ってしまったので、僕らはもう夢の中だ。
季節は変わっていくし、僕らは成長することをやめない。陽は高くなっていくし、風は熱さを帯びていく。夏の始まりのこの一瞬が、永遠であるように錯覚するのは、台本のエクスクラメーションのせいかもしれない。
「そのシーンで雨彦さんは、なにか叫んだりするー?」
「よせ! 正気に戻れ!」
どこか調子に乗ったその迫力の凄さにまたけらけら笑い、さて、と毛布を肩から落とした。雨彦さんが僕のおまじないで車に乗りたくなっちゃったから、つきあってあげないと。
「……僕がヒステリックになるほどの喧嘩をした時も、雨彦さんはそう言って止める側なのかなー?」
「さてなあ、案外俺がおいおい泣いて、北村が困り果てるかもしれないぜ」
「えー、それはちょっと見てみたいかもー」
今はまだ、こうやってお互い笑い合えれば、それでいいか。台本をカバンに仕舞い、階段を下りて、雨彦さんの叔母さんにご挨拶をして。アヤカシ清掃社の車に乗り込むと、この車独特の匂いに包まれた。
「ははそはの?」
「ははも、そのこも」
雨彦さんは季節遅れの呪文を覚えたそうだった。どうせなら次は夏のうたを思い出したい。
エンジンがかかり、身体が微弱な振動に揺れる。雨彦さんはもう地図がなくても僕の家まで行ける。僕は流れていく窓の外を見ながら、いつかの喧嘩を思い浮かべた。
エクスクラメーションはいくつ飛び交うことになるんだろう。想像したってわからない。とびっきりの喧嘩を、いつかしてみたい。ははそはの、まで覚えた雨彦さんの中途半端な鼻歌に、車は大きく右に曲がった。