雨想

 夜中に目が覚めることは、ままある。歳のせいなのか体質なのか睡眠は浅い方で、寝つきも悪い。明日は朝の仕事が入っていないから、今起きても問題はないだろう。重い上体を起こし、首をぽきりと鳴らす。
 時間を見るためにスマートフォンを手に取ると、LINKが数件溜まっていた。見てみれば北村からのメッセージで、夜道での白猫の写真と月の写真だけがぽかんと送られていた。うたを詠むでもなく、おやすみの文字もなく、北村らしい。
 なんとなく。なんとなくだが、今電話をかけたら、繋がる気がした。北村ならまだ起きてるんじゃないかと。こんな真夜中に申し訳なさもあったが、好奇心が勝ってしまった。指がすいすいと画面をすべる。
 陽気な発信音を数度聞いている間は、どうして自分がこんなことをしているのかわからなかった。声を聞かないと眠れない訳でもなし、寝る前の電話が日課でもなし。やはり迷惑だったか、起こしてしまうだろうか、と電話マークを触ろうとした瞬間、耳に届いた聞きなじみのある柔らかな声。
「もしもしー?」
「…………あ、ああ」
「えー、どうしたのー? 大丈夫ー?」
 北村の声が聞こえてきたことに、なんだか呆けてしまった。まさか聞けると思っていなかった声に驚いたのと、心地よい音に安心したのと。反応が遅れてしまい、北村が心配するのも仕方ない。
「珍しいねー、雨彦さんが、こんな夜中に」
「なに、起きちまってな。北村なら起きてるんじゃないかと思ったのさ」
「ご名答ー。明日がレポートの締め切りだって言ってたっけー?」
 くすくすと楽しそうな声が弾む。こんな時間まで頑張っているのか。自分もそうだが、二足の草鞋というのは忙しいだろう。表には見せずに努力している様子は、素直に尊敬する。
「レポートは完成しそうなのか?」
「ええ、おかげさまでー。ちょうどさっき終わって、今は引用を整えてるところー」
「……なら、ドライブしないか?」
 それは単純な思い付きだった。深夜に恋人の声を聞いて、恋しくなったのだろうか。らしくない自分に苦笑しながら、言ってしまったものは仕方ない、驚いた様子の北村の反応を窺う。
「……本当に、どうしたのー?」
「どうもしないぜ。……無理そうなら、また次の機会に」
「ちょっとー。行かないなんて言ってないでしょー」
 不満そうな声に、今度は俺が笑う番だった。深夜に十九歳をドライブに誘うなんて、よくない大人だな。カーテンを開けると、北村から送られてきたのと同じ丸い月が煌々と輝いている。
「今から迎えに行く」
「朝には帰してねー?」
「もちろん」
 そこまで悪者ではない、なれやしない。こう見えて清廉潔白だ。電話を切って急いで着替え車に向かい、鍵をポケットの中で握りしめる。世界が眠っている間のランデブー。睡眠とは束の間の死である。死の時間に、生きている喜びを味わうというのは、どこか贅沢で背徳感がある。
 月だけが夜の中で眩しい。エンジン音がこの街の子守唄になりますように。アクセルペダルを踏み込めば、あっという間に景色が溶けた。風の中に一人きりだった。
 北村はレポートを完成させた頃だろうか。足音を忍ばせて階段を下りる彼の爪先を思った。
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