雨想

 くしゃみをひとつすると、雨彦さんが「寒いか?」と尋ねた。そりゃあ朝の五時なんて、まだこの季節は肌寒いに決まっている。もう少し厚手の服を着て来ればよかった。
「風邪引かないでくれよ」
「お気遣いどうもー」
 こんな時間のドライブは、酷くさみしい。歩道も車道も広々としていて、電柱が所在なさげだ。空が少し灰がかっている。仄明るい街並みはまだ寝息をたてていた。
「雨彦さん、眠くないのー?」
「ああ、しっかり目が冴えてるな。昨夜はよく眠れたようだ」
「それはなによりー。僕はまだ眠いなー」
「寝てていいぜ。着いたら起こすから」
 ぐんぐんと進む車の心地に、つい頭がうとうとしてくる。身体に響く静かな振動は、ベッドの中とは違う安心感があった。雨彦さんは運転が上手い方だと思う。気持ち悪い揺れを感じたことはない。
「……小学生、中学生かなー。学校の水泳の授業で、はじめてフィンを付けた時のこと思い出すなー」
「ほう。足につけるアレか」
「自分で泳ぐのと段違いの速さで、すいすい泳げて、びっくりしたんだー。水圧の力強さとかー」
「古論が聞いたら目を輝かせそうだ」
 その光景は容易に思い描けて、ふたりでくすくすと笑った。想楽も海に潜りたいですか、初心者向きのおすすめの場所があります、道具なら一式貸しますので。それはあまりにも普段の光景。
「なんか、今、水の中にいる気分だったんだー」
「重力もかかるしな」
 街並みがすいすいと変わっていく。誰も見ていない信号機が青に変わっていく。
 ぽつ、と、水滴がフロントガラスに落ちてきた。またたくまに落ちてくる水滴の量は増え、雨彦さんはワイパーを動かす。一定のリズムで動くそれを目で追いながら、僕は水飴みたいな水流を楽しんでいた。春の雨の匂いが車内に籠る。
 昨夜、雨彦さんの一人暮らしの家に泊まって、それはそれはのびのびと運動をしたから、夜中はよく眠れたのだが。朝起きた時の全身のだるさ、これから帰らねばならないという億劫さに目を擦っていたら、送ってやるよと言われたのだった。始発で帰ろうと思っていたからこんなに早く出発してしまったけれど、どうせならもっと寝ていてもよかったかな。車は水の中を進んでいく。
「……季節によって、雨の味って、変わりそうー」
「空中のゴミを含んでるから口に入れないように」
「あはは、先生みたいー」
「春は何味だ?」
「うーん。ほんのり甘いかなー?」
 缶に入ったドロップを思い出す。イチゴ、メロン、薄荷、チョコ。宝物みたいなそれらを手に転がすときの高揚感を、雨に見出すことは出来るだろうか。
「……雨は、町中を綺麗にしてくれる気がするから、そんなに嫌いじゃないぜ」
「車も綺麗になるー?」
「ちゃんと拭けばな」
 ウインカーのチカチカという音と、雨彦さんの声が重なって、水族館の中みたいだ、と思った。籠った生暖かさとくぐもった音。こつんと窓ガラスに額をのせると、ひんやりして冷たかった。
「……このまま、どこまでも行きたいなー、なんて」
「奇遇だな。俺もそう思ってたさ」
「ふふふ、今日はおあずけだよー。僕は一限があるからー」
「残念だ。今度はしっかり攫ってやるから、待ってな」
「楽しみにしてるねー」
 雨の中の逃避行。何から? 世界から。桜は散ってしまったけど、新緑が僕らを急かすだろう。季節は待ってくれないよ、と。
「……雨彦さんの運転、好きだよー」
「俺も、助手席に北村がいるのが……その」
 えー、なんですかー? と横を向いたら、こころなしか耳が赤くなっていた。左手で口元を一瞬隠し、咳払いをして微笑む。
「愛しい、と、思う」
「……もー」
 二人で照れてしまい、無言の時間を雨が洗った。重力に従って身体が揺れる。水流はやっぱり水飴みたいで、電柱は寂しくて、肌寒い朝五時の街は静かだった。
「起こしてやるから、目瞑ってな」
 それは照れ隠しか、気遣いか。僕は言われるがままにまぶたを閉じて、春の雨の香りを嗅いだ。
 次の逃避行も雨だと良いな。ウインカーのチカチカに気付かない振りをして、雨彦さんの鼓動を思う。まだ家に辿り着きませんように。
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