雨想

※にょたむら。一人称は僕


 しなびた胸だなあ、と思ってしまった。
 僕の行く末かもしれないのに、他人にそんなこと思ってしまうのは失礼だ、そんなことはわかっている。だけど、自分の若々しい張りのある肌が、いずれああなると思うと、どうしても途方もない時間が心を通り過ぎていく気がするのだ。
 雨彦さんと温泉に来たのは、別に商店街の福引があたったわけでも、プロデューサーの提案でもない。僕から言い出したことだった。電車で一時間くらいのところにスパ施設があるので、平日の昼間ならと誘ってみたら、意外にも彼はくいついてきた。メインイベントの風呂自体は別行動になるにも関わらず、二人でのそのそと出かけることとなった。
 のそのそと言うと亀のような、巣籠の熊のようなイメージがあるけれど、実際そんな感じだったので、言い得て妙かもしれない。乗り換えの駅で買い食いをしてみたり、あえて各停に乗ってみたり、僕たちはとにかく、のそのそと言うほかないほどのんびりと目的地に向かった。いつもは雨彦さんかクリスさん、プロデューサーの車に乗っての移動が多いから、こうして電車でゆっくり移動すること自体が久しぶり。僕は大好きな一人旅の時と同じような心地よい高揚感に包まれていた。
 スパ施設は広さのわりにやはり空いていて、僕たちは受付カウンターで館内着を受け取る。雨彦さんはLLサイズでも小さいだろうからとジャージを持参していた。手慣れたものだと感心してしまうけれど、彼には彼の苦労が多いのだな、と少し同情してしまう。
 それぞれのんびりしようと脱衣所へ別れていって、僕の腕にはロッカーのカギの、びよびよと伸びるゴムベルトが巻かれた。よく粟立つ泡でたっぷりと身体を洗って、白い濁り湯に身体が芯から火照るまで入って。さあ露天風呂を堪能しよう、というところで、目についたご婦人の身体に、思ってしまったのだ。
 しなびた胸だなあ、と。
(……僕があんな身体になっても、彼は変わらず僕を、愛してくれるのかなー)
 身体目当てとは全く思わないけれど、それでも十も歳が離れていたら、彼の手のひらからすれば僕の肉体は同年代の誰よりも瑞々しいだろう。ほんのり薔薇色に染まった自分の胸を見る。仕事で自分の十年後を想像することはあれど、その時の自分が女として咲き誇っているかどうかということは、考えたことがなかった。
 歳をとればとるだけ、歳相応になるのだと思っていたけれど。例えばこの胸がもっと成長したら、「大人の色気」として扱われることが増えるのだろう。しかし僕はそんなこと望んでない。今の、どちらかと言えば薄い胸の方が、パフォーマンスの時楽だし――強がりに聞こえるだろうか? でも、彼はきっと「どちらでもいい」と言うのだろう。どんな北村でも北村だ、と。
 露天風呂は、室内とは違い、黒い濁り湯だった。手のひらで掬ったお湯の表面からほこほこと湯気が立つ。独特の香りで肺が満たされ、骨の奥まであたたまっていくのを感じる。さっきのご婦人は寝ころぶエリアに行ったようだ。僕も後で行ってみよう。
「おーい、北村ー」
「えっ、雨彦さんー?」
 壁の向こうから、よく響く低い声が聞こえてきた。それはあきらかに僕のことを呼んでいて、僕はなんて目立つことを、と驚きつつも、慌てて声を返してしまった。しまった、無視すればよかったか。でも今更そんなこと出来ない。
「しっかりあたたまれよー」
「もう、恥ずかしいから、やめてよねー!」
 さっきのご婦人くらいしか人はいないけれど、それでも、こんなに恥ずかしいことはない。こんなことなら貸し切りの温泉に行きましたよー、と後で文句を垂れてやろうと思う。
 しっかりと言ったからには、とことん浸かってやる。僕は寝ころぶエリアに足を運んだ。身体の半分しか湯に触れてないのに、全く寒くない。
「さっきの、彼氏さん?」
 ご婦人が、少し離れたところから話しかけてきたとき、最初は僕に言ってるものだとわからなかった。だけど僕以外に人がいないことに気付き、慌ててそちらを見る。アイドルだってバレてるだろうか? いや、きっと大丈夫だ。
「はい、そうですー。すみません、うるさくてー」
「いいのよお、ご旅行かしら? 楽しいわねえ」
 ご婦人はそう言って、極楽そうに黙った。僕もそれには返事をせず、黙って屋根を見上げる。今日は小春日和だ。天気が良い、日光が気持ちいい。
 しばらくそこで、心身を無に帰していたとき。湯のとぽとぽという音の向こうから、また彼の声が聞こえてきた。
「姫ー、あがるぞー」
「もー、うるさいですよー、殿」
 せっかく、いい気分だったのに。僕は仕方なく起き上がり、濡れた前髪をかきあげた。
(この胸がどのように成長しても、彼はきっと、こうして温泉に連れてきてくれるのかもしれないなー)
 なんとなく、そんな気がして。タオルを絞って、脱衣所へ向かった。次に来るときは、声を張り上げなくてもいいように、貸し切りに行こう、本当に。
 脱衣所には販売機があり、煌々と光るプラスチックの板の向こうにはさまざまな味の牛乳瓶が売られていた。雨彦さんを待たせているとは知りつつも、僕はこっそりとそれを買う。風呂あがりの舌に、コーヒー牛乳は嬉しかった。
 ほっこりと温まった身体は足取りも軽く、分厚い館内着の下にしめつけのない胸が開放的で、僕はいつも以上に笑顔で雨彦さんとの待ち合わせ場所に向かった。雨彦さんもご機嫌な様子で微笑んでいる。垂らした前髪が彼を少し幼くさせていた。
「お、快適だったみたいだな」
「おかげさまでー」
 ご機嫌な殿には、喉が渇いちゃいましたよー、という嘘をつこう。人前で姫だなんて呼んだ罰だ。若々しい、瑞々しい、張りのある胸を、ぎゅっと彼の腕に押し付けて、僕はにんまりを口角をあげる。今の僕を十二分に愛してくれる彼なら、きっと未来のしなびた胸も、こうして彼に押し付けている。その時は、どこの貸切風呂にいるだろう。訪れるのは、また小春日和の日だろうか。
「まだ髪、湿ってるな」
 僕の胸には気づかない振りをして、雨彦さんは大きな手のひらで僕の毛先に触れた。その指先も薔薇色に染まっているのを見て、のそのそとここまでやって来た甲斐があったと嬉しくなった。
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