その他

 ミスターやましたの家で夕飯の支度を手伝っていたら、手の甲に油が飛んだ。熱すぎて「熱いって痛覚の反応なんだな」と感じるほどに痛かった。
 冷やしな、と慌てるミスターやましたに従って、流水に手を浸す。今度は冷たくて痛い。だけど水から手を離すと、やっぱり火傷した部分が痛い。
「あとになっちゃうかもねえ」
「やだなあ」
 アイドルにしては呑気な会話をしながら、野菜の揚げびたしを食べる。こんなに目立つところに跡ができてしまうのは結構ショックだけれど、やっちゃったものは仕方ない。軟膏を塗って、痛くなったら流水に浸すことしか出来ない。
「ゲームのブレイブになった気分」
「勇者? どうして?」
「激しいアドベンチャーの証。勇敢なバトルを物語ってるケガ」
「ははは、揚げ物と格闘した証拠だよ」
 やれやれといったように笑うミスターはひたひたのナスをつまみながら、ビールを飲み進めている。缶の中からしゅわしゅわと弾ける泡の匂いにつられて、俺もぐびりと喉を潤す。
 ミスターの家にいると、自分の部屋の片づけがどうでもよくなってくる。それは酒のせいもあるし、ここが居心地よすぎるせいでもある。転がってる競馬新聞に書いてある内容がわからない。まねきねこと目があう。ここには俺の家にはないものがたくさん。
「明日になっても引かなかったら、皮膚科行きなね」
「ええー、嫌だなあ」
「アイドルなんだから」
 彼の口からそんな言葉が出る日がくるとはね。ミスターはざまに言ったら喜ぶかな。けらけら笑いながら、どんどん減っていくビールの缶を揺らす。
「ちょっと、飲むペース早くない?」
「そんなことナッシング」
「うーわ、昭和」
 そこ英語にするのはねえと笑う彼は陽気で、でも何か逡巡しているような目つきでこちらを見ている。探られたって、ないものはない。
「何かあった?」
「だから、何もないって」
「ならいいけど」
 それ以上聞いてこないから、居心地がいいのだろう。しょうがを溶いた汁がしょっぱくて、ビールで口の中を洗う。頭がぼーっとしてきて、楽しくなってきて、すべてがどうでもよくなる。ミスターはざま、はやく来ないかな。おかず、なくなっちゃうよ。
「……随分酔ってるねえ。水も飲みなさいよ」
「サンクス」
 今ね、アイドルとしてじゃなくて、舞田類として、お酒飲んでるんだ。そんなこと言ったらまた心配させちゃうから言わないけど、だからこんなに楽しいし、火傷のことも気にしてないんだ。胃が膨らんできて、幸福感に恍惚とする。
「……ミスターやました、恋バナしよう」
「はあ? どうしたの突然」
 こんなおじさんに浮いた話なんかないよ、アイドルって恋愛禁止だしね。想像通りの答えが返ってきた。つまんないの。
「そんなこと言って、ティーチャーの頃はモテモテだったじゃない」
「バレンタインのチョコなら、るいだって沢山もらってたでしょ」
「北斗にはかなわないよ」
 そりゃそうだ、と笑うミスターについた泡の髭を笑う。背後でガチャ、とドアノブが回る音がした。
「遅れてすまない」
「はざまさん、お疲れ様」
「ねえミスターはざま、ミスターはバレンタイン、いくつチョコ貰ってた?」
 突然何だ、と顔に出さずに動揺するミスターはざまに、まあまあと酒を渡すミスターやましたは、俺に目くばせで「いきなり聞くんじゃないよ」と諭してくる。いいじゃない、だって楽しいんだから。
「じゃ、乾杯」
 ほぼ空の缶と、新しい缶と、二杯目の缶をカチンとぶつける。ミスターはざまはしっかり正座をしていて、今日はいつ崩すのか楽しみだった。
「ミスター、あのね、火傷したんだ」
「……大丈夫なのか」
「冷やしたりはしましたよ。様子見かね」
 ほら見て、と赤くなった手の甲を見せながら、俺は勇者の気分になった。だって、戦いの証なのだ。揚げびたしはこんなにもおいしい。
 その後は、先生だった頃のバレンタインの話をミスターはざまにせがんで、毎年母親と妹から送られてくる話を「そうじゃない」と一蹴して、ビールをすっかり空にした。ミスターはざまの正座が崩れだす頃、俺はもうフラフラで、今日もここに泊まる決意をしたのだった。勇者が寝るにはぴったりの部屋なのだ。煌々と明るくて、笑い声が絶えなくて、美味しいご飯とお酒があって。戦いにつかれた身体を休める。あーあー、またこんなところで寝て、と言うミスターやましたの声を聞きながら、俺はまぶたを閉じたのだった。
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