雨想(〜2024.2.18まで/以降はtopから)

 八百屋なんてめったに寄らない。スーパーですべて事足りてしまうから。
 でもその日はとても暑くて、目の前に陽炎が現れて、つい目を逸らしてしまったのだ。道の左側にある、昔ながらの八百屋。店先にその日の目玉商品と、季節の果物が並んでいる。そうか、もうスイカの季節か。丸のままと半分に切ってあるのと、それらはつやつやと涼やかで、ふと目が惹かれてしまったその先。
 レモンが、無造作に籠の中に並べられていた。
 はじめてのキスの味なんて、もう覚えていない。何度も塗り重ねるうち、彼の味はすっかり僕に馴染んでいった。自分の唇をなぞる。鮮やかなあの果物の、酸味がなんだか恋しくなった。
 レモンをひとつだけ買うなんて、珍妙な客だと思われただろう。梶井基次郎しかやらないんじゃないか。それならばこのまま丸善に寄って、本棚に寄らないと。「檸檬」を思い出しながら、指は勝手にスマホを操作する。彼は四コールで電話に出た。
「どうした、北村」
「雨彦さん」
「ん?」
「……レモンを」
「レモン?」
「レモンを、買ったんですー。丸ごと一個」
 そうかい、そりゃまたなんでだ、と愉快そうな声が続く。ああよかった、馬鹿にされなくて。そんなこと彼はしないのはわかってるけれど、なんとなく自分が酷く愚かな気がしてしまって。
「一個だと使い切れないのでー、半分こしませんかー?」
「はは、いい提案だな」
 我ながら変な誘い文句だと思う。だけど、彼が恋しくてたまらなくなったのは事実だ。爽やかな色が、あんまり目に痛かったから。今日が、とびきり暑かったから。鞄の中のレモンは香しく、僕自身が夏色に染まったような感覚に陥る。
「……今から、行ってもいいですかー?」
 普段なら、こんな甘え方はしない。彼は多忙だ。彼のスケジュールの全てを把握してるわけではないし、僕も二足の草鞋なので、お互いのオフが重なるのは珍しい。その瞬間が今だと、強く信じた。
「ああ、いいぜ。おいで」
 優しい声色に、僕の全てを預けてしまいたくなった。レモンは蜂蜜に漬けてしまおう。それかアイスコーヒーか、炭酸水に混ぜてしまおう。全部、今日のうちに使い切ってしまおう。
 今来た道を戻って、駅に向かう。暑い中、レモンだけが涼やかだ。手からレモンの香りがする。貰い物の香水よりそれは好感が持てて、そういえば以前仕事で着たオレンジモチーフの服からも、こんな匂いがした気がした。
 去年の誕生日に雨彦さんから貰った、こげ茶のパスケースを取り出す。これにも香りが移ればいいのに。革じゃ無理か、改札を通りながらくすりと笑う。毎日使うものをプレゼントされるのは、否応なしに毎日彼のことを思いださせられて、どこかこそばゆい。毎日のように彼に会ってるのに、繋がっている喜びなんて、昔は煩わしかったのに。
 電車の窓から切り取られた快晴は眩しくて、やっぱり目を逸らしてしまう。ああ、夏だなあ。夏が来たなあ。そろそろ蝉時雨がやってくる。あの喧騒の中、冬を恋しく思うのが、日本人の性じゃないだろうか。何か句を、と思ったけれど、全然整わなかった。
 雨彦さんちの最寄り駅まで、あと少し。
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