雨想(〜2024.2.18まで/以降はtopから)
もうこんな時間なのか、とスマホから顔をあげれば、まだ空は夜の準備をはじめていない淡い色で。夕方とも呼べない色なのに、時刻は夜をさしていた。
夏は時計を外す様にしている。日焼け跡が怖いからだ。長袖を着ている時は付ける時もあるけれど、時計と肌の間にかいた汗は気持ちが悪い。だから、時刻を確認するのが遅くなった。十八時にしては外が明るすぎる。夏至を過ぎてからというもの、めっきり日が伸びた。
「もしもしー、雨彦さん?」
手の中にスマホがあったから。理由はそれだけに過ぎない。慣れた手つきですいすいと指を滑らせ、四回コール音を聞けば、聞きたかった声の主の笑いが耳元に零れてきた。
「大方、時計を見るついでだろう?」
「ばればれですかー」
少し恥ずかしいような、嬉しいような。足取りは軽く、家路までの道を朗らかに進む。電話をかけたはいいものの、これといって特に用件はない。他愛もない話題でも、声が聞ければそれでいい。
「夕飯は何を食べる予定ですかー?」
「そうだな、ちょうど油揚げがあったから、うどんでも」
「またですかー?」
彼はついこの間もうどんを食べていた。暑さに弱いから料理をするのも億劫なのだろう。もっといろいろ、栄養を取ってもらわないと。
「……どこか食いに行くか?」
「えー、今帰ってきちゃいましたよー」
「はは、悪い」
でも、急に連絡してきたのはお前さんの方だぜ。悪だくみをする時の声が愉快そうにからからと笑う。そういえばそうだ、こんな時間に電話をして夕飯の話題を振ったら、それはもう食事の誘いをしているようなものだ。今回ばかりは自分が悪い。
「じゃあ、せっかくだしどこかいきましょうかー。うどん以外だといいなー」
「しょうがないな。うどんは明日食うとするさ」
空がやっと赤らみだした。途端、どこかの家庭の夕飯の匂いが香ってくる。この匂いは豚汁かな、と想像しながら、自分も空腹であることに気付く。意識をすると、腹の虫も目覚めるというものだ。
「車出してやるから、家で待ってな」
「ありがとうございますー」
雨彦さんは優しい。こんな突然の電話でも億劫がらずに出てくれる。話をしてくれて、車を出してくれる。甘えるのが心地よいと思えるようになったのは、つい最近のことだ。例えば寝る前とか、どうしようもない焦燥感に見舞われた時、彼は味方になってくれる、そう信じられるようになってから、随分心が軽くなった。
「ねえ、雨彦さん」
「どうした」
「……なんでもないですー」
「なんだなんだ、気まぐれだな」
感謝の言葉なら、会ったときに伝えればいい。愛の言葉なら、大切に紡げばいい。なんてことない日の、なんてことない夜に言うのも、チープすぎるかなと思ってやめた。たぶん、言わなくても、彼ならわかってるんだろうけど。
「じゃあ、着いたら連絡する」
「よろしくお願いしますー」
彼がやって来るまでに、家事を片付けておこう。兄さんに食べてくる旨を伝えておかなければ。夜めいてきた空を仕舞うようにカーテンを閉めた。切り取られた空は藍色に近付いていて、夕方から夜になるまでの速さを物語る。
雨彦さんが来たら、なんて挨拶をしよう。いい夜ですねー、とか、もうすっかりお腹ぺこぺこですよー、とか、言えることはたくさんある。だけど、何か違うことを言いたかった。さっき、わざと言葉をはぐらかしたからかもしれない。紡ぐべき言葉って、やっぱり大切だ。
「暮れなずむ 空のくれない 身に染みて」
腹の虫をなだめすかしながら、いまかいまかと恋人の来訪を待つ。こんな時間も悪くないと思った。スマホは充電中、壁掛け時計で時間を確認する。
夜だし、腕時計つけていこうかな。いや、やっぱりやめておこう。
時間なんて気にせずに逢瀬を楽しみたかった。
夜を迎えた世界は、すっかり喧騒の中だ。世界にふたりっきりになった時、紡ぐ言葉は。
夏は時計を外す様にしている。日焼け跡が怖いからだ。長袖を着ている時は付ける時もあるけれど、時計と肌の間にかいた汗は気持ちが悪い。だから、時刻を確認するのが遅くなった。十八時にしては外が明るすぎる。夏至を過ぎてからというもの、めっきり日が伸びた。
「もしもしー、雨彦さん?」
手の中にスマホがあったから。理由はそれだけに過ぎない。慣れた手つきですいすいと指を滑らせ、四回コール音を聞けば、聞きたかった声の主の笑いが耳元に零れてきた。
「大方、時計を見るついでだろう?」
「ばればれですかー」
少し恥ずかしいような、嬉しいような。足取りは軽く、家路までの道を朗らかに進む。電話をかけたはいいものの、これといって特に用件はない。他愛もない話題でも、声が聞ければそれでいい。
「夕飯は何を食べる予定ですかー?」
「そうだな、ちょうど油揚げがあったから、うどんでも」
「またですかー?」
彼はついこの間もうどんを食べていた。暑さに弱いから料理をするのも億劫なのだろう。もっといろいろ、栄養を取ってもらわないと。
「……どこか食いに行くか?」
「えー、今帰ってきちゃいましたよー」
「はは、悪い」
でも、急に連絡してきたのはお前さんの方だぜ。悪だくみをする時の声が愉快そうにからからと笑う。そういえばそうだ、こんな時間に電話をして夕飯の話題を振ったら、それはもう食事の誘いをしているようなものだ。今回ばかりは自分が悪い。
「じゃあ、せっかくだしどこかいきましょうかー。うどん以外だといいなー」
「しょうがないな。うどんは明日食うとするさ」
空がやっと赤らみだした。途端、どこかの家庭の夕飯の匂いが香ってくる。この匂いは豚汁かな、と想像しながら、自分も空腹であることに気付く。意識をすると、腹の虫も目覚めるというものだ。
「車出してやるから、家で待ってな」
「ありがとうございますー」
雨彦さんは優しい。こんな突然の電話でも億劫がらずに出てくれる。話をしてくれて、車を出してくれる。甘えるのが心地よいと思えるようになったのは、つい最近のことだ。例えば寝る前とか、どうしようもない焦燥感に見舞われた時、彼は味方になってくれる、そう信じられるようになってから、随分心が軽くなった。
「ねえ、雨彦さん」
「どうした」
「……なんでもないですー」
「なんだなんだ、気まぐれだな」
感謝の言葉なら、会ったときに伝えればいい。愛の言葉なら、大切に紡げばいい。なんてことない日の、なんてことない夜に言うのも、チープすぎるかなと思ってやめた。たぶん、言わなくても、彼ならわかってるんだろうけど。
「じゃあ、着いたら連絡する」
「よろしくお願いしますー」
彼がやって来るまでに、家事を片付けておこう。兄さんに食べてくる旨を伝えておかなければ。夜めいてきた空を仕舞うようにカーテンを閉めた。切り取られた空は藍色に近付いていて、夕方から夜になるまでの速さを物語る。
雨彦さんが来たら、なんて挨拶をしよう。いい夜ですねー、とか、もうすっかりお腹ぺこぺこですよー、とか、言えることはたくさんある。だけど、何か違うことを言いたかった。さっき、わざと言葉をはぐらかしたからかもしれない。紡ぐべき言葉って、やっぱり大切だ。
「暮れなずむ 空のくれない 身に染みて」
腹の虫をなだめすかしながら、いまかいまかと恋人の来訪を待つ。こんな時間も悪くないと思った。スマホは充電中、壁掛け時計で時間を確認する。
夜だし、腕時計つけていこうかな。いや、やっぱりやめておこう。
時間なんて気にせずに逢瀬を楽しみたかった。
夜を迎えた世界は、すっかり喧騒の中だ。世界にふたりっきりになった時、紡ぐ言葉は。