その他

 痛みなどはなかった。まるで手品のようだった。
 久しぶりに姉さんの夢を見た、気がする。目覚めた時には覚えていなかったが、仄かに頭痛がした。眠りながら泣いたのだろうと思って目元を指先で拭うと、ぽろり、と何かが指先を伝った。
 涙の跡が固まったのかと思ったが、違った。眼鏡がないせいでよく見えなかったが、手探りで枕もとを撫でると、そこには真珠があった。真珠? 何故こんなところに。パールの付いた私服など、僕は持っていないはずだ。何かの衣装で引っかかったものが転がったか。いや、そんな衣装も最近着た覚えは全くない。
 寝起きの頭で考え込んでいると、消えたと思っていた眠気の残骸が立ち昇ってきた。欠伸をすると涙が出る。この後顔を洗うのだから構わないと思っていた矢先――ぽろり。何かが頬を落ち、胸元へ転がっていった。今度は眼鏡をかけて辺りを探す。布の皺と皺の間に、また一粒、真珠が輝いていた。
 顔に何かついているのか、と触ってみるも何もわからない。とりあえず洗面台に来てみた。鏡を見ながら、目尻になにか煌めくものを見つける。先ほどの欠伸の涙が残っているのかと指先でこすると、零れきらなかった小粒の真珠がぽろぽろと床に落ちた。踏むと痛いのだろう、わざわざ身を屈めて拾い上げる自分の姿が滑稽だった。
 まだ夢を見ているのかと顔を洗った。夢の内容はすっかり忘れたが、この不可解な身体が治っているのかわからない。試しに泣いてみようと思った。これでも表現者だ、多少感情を乗せれば涙くらい出る。鏡の前で自分の泣き顔を見るというのもむず痒かったが、案外素直に泣けてきた。視界が潤み、鼻がつんとする。
 ぽろり。雫だったはずのものが、真珠となって落ちていく。目の中までは水分だったはずなのに。零れた途端、真珠になった。ぽろり、ぽろり。あとからあとから、真珠が転がる。
 痛みなどはなかった。まるで手品のようだった。
 床に落ちた真珠を集めながら、僕は溜息を吐いた。涙が真珠になる病気など、聞いたこともない。これはまだ夢の中なのだろうか。何かの奇病だった時に検査に回せるよう、拾った真珠はプラスチックのコップに入れた。……自分の身体から出たせいか、何も美しく感じない。
 問題はいつ治るのかだ。今日一日程度なら誰にもバレないが、今後ずっと続くならば。しかるべき機関で検査を受けることになるだろうし、マスコミは殺到するだろう。泣いて見せろとメディアに使いまわされ、プライバシーも無くなる。今まで通りの仕事なんかできるはずもない。
 ――泣く可能性のある仕事を、当分のあいだ断るしかないだろう。
 今日事務所に行く際、プロデューサーに打診する。それしかない。気を取り直して、朝食の支度をする。
 まだ混乱する頭を、つとめて冷静になるよう、丁寧に。コーヒーをドリップで――粉から挽く気力はない。お湯を注ぐだけ――トーストにバターを塗る。このいつもの動作で、どうにか心を落ち着ける。
 もう、僕は泣くことは出来ないのだろうか。人前で、演技で、自宅で。泣くことを許してもらえないのだろうか。
 神様なんて信じてはいないが、何か僕はあなたの気に食わないことをしたか、と問いたくなる。感情という生理現象を他人に制限されたくない。例えそれが絶対的な存在であろうと。コーヒーは苦く、トーストは噛んでも味がしなかった。
 
「薫さんらしくないですね」
 プロデューサーは怪訝な顔でそう言った。泣く可能性のある仕事をしばらく控えたい、と伝えられたら、誰だってそう思うだろう。僕は彼から目を逸らし、「とにかく」と続けた。
「大げさなバラエティも控えたい。天道と柏木には僕から伝えておく」
「何かありましたか」
 勘のするどいヤツだ。僕はあらかじめ用意していた「ただの体調不良だ。中途半端な仕事をしたくない」という言葉を再度伝えるが、プロデューサーは眉間に眉をよせたままだった。
「隠していること、ありますよね。私に」
「そんなものはない」
「いいえ。あるはずです。もう、どれだけ一緒に仕事してきたと思ってるんですか」
 プロデューサーは僕に椅子をすすめ、自分も着席する。長い話はするつもりはなかったのだが、こうなったプロデューサーは頑固だ。僕は今日何度目かわからない溜息を吐き、席につく。
「……君なら口外しないな」
「ええ。絶対にしません」
「……涙が、真珠になるんだ」
 自分でも、何を言っているのかと思う。普段の行いからして、ふざけているとは思われないはずだが、それでも心もとない。ここで泣いて見せた方が早いだろうか。
「……信じがたいとは思うが」
「いいえ。信じます。真珠病、ですね」
「……真珠病?」
 そんなもの、聞いたことがない。彼が知っているくらい、世界にありふれているものなのか? インターネットで検索くらいすればよかった。僕もなかなかに動揺していたようだ。
 「片思いが強くなると、時折そういう人が生まれるんだそうです。この場合の片思いというのは、強い憧れだったり、過去の別れを悔んだり、感情はさまざまだそうです。……何があったかはわかりませんが、薫さんの場合、原因の解明をすると前進するかもしれませんね」
「……そうか」
「たとえば両思いになったり、気持ちに踏ん切りがついたりすると、症状は落ち着くようです。症状が改善したら教えてください。それまでの仕事は、調節してみます」
 プロデューサーはそう言って微笑んだ。彼自身の仕事っぷりには信頼をおける。仕事に関してはこれで安心だ。僕は今後の資料を受け取り、まっすぐに帰宅した。
 僕が零した真珠のコップが目に入る。例えばこれに希少価値があったら、いくらでも泣いてやるのに。
 今、僕の頭には二つの影があった。ひとつは姉さんだ。朝、あんな夢を見たから――もう覚えていないが。でも、毎日狂おしいほどに思い出しているわけではない。激しい恋慕にはあてはまらないだろう。
 もう一つは――。考えすぎだろうか。しかし、寝る前に通話もしていた。誘われて不快な気持ちにならなかったから、デートの誘いにも応じた。その時の笑みが、僕だけにむけたものだと感じると、確かに愛おしいものだった。
 この感情が、恋なのか。叶えてしまえば、治るのか。
 なんとなく。なんとなくだが、それならば、全部置いてきてしまおう、と思った。
 風呂を溜める。着替えを用意する。僕は様々なひとの顔を思い浮かべる。
 ひとりひとり。僕が泣いたところなんか見せたことのない人たち。これからも見せないのだろう、きっと。
 風呂に浸かり、ひとしきり泣いた。そうしなければならない気がした。
 今まで泣いてこなかった分を、全て出さなければならないと思った。
 湯舟に真珠が溜まっていく。僕は湯の中で嗚咽した。何をこんなに泣いているのかはわからない。泣くと言うより、真珠を出し切るための行為に思えた。
 ひとしきり泣いたあと、僕は真珠に埋め尽くされた湯舟を見ながら、通話をかける。出なくたってかまわない。この思いを抱えていくだけだ。だけど。でも。
 声が、聴きたいと思った。
 諦めて通話を切ろうとした時。求めていた声が、僕を繋ぎとめる。
「もしもし?」
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