その他

 何も覚えていない。
 気が付くと、という表現は、どこを「気が付く」の発端としているのだろう。視界が開けたら? 意識が戻ったら? 呼吸を感じたら?
 今、僕にとっては、どれも違う。ただただ、は、と目を覚ましたら、真っ白な部屋にいた。
 痛みもない。見たところ怪我もしていないし、縛られたり繋がれたりしていない。自由だ。思うままに身体を動かせる。なのに、どこかから重たい視線を感じる。身体中をがんじがらめにするような、息苦しい「なにか」。
 ここはどこなんだろう? 僕はあたりを見渡してみた。床も壁も真っ白で境目がない。何歩歩いても、手をどこに伸ばしても、行き止まりに辿り着かなかった。このままじゃ酸欠で死んでしまうんじゃないかという圧迫感のなか、一つの机が視界に入った。薄茶色の、オーク材の、ありふれた机。華奢な脚が四本、僕の腰の高さで天板を支えている。
 机の上には、黒い小瓶と、何かが書かれた白い紙切れが置いてあった。小瓶の方になにか既視感があると思い、記憶を巡らせていると、思い当たるのはバニラエッセンスの瓶だった。お菓子を作るときに、数滴振り入れるやつ。それがどうしてこんなところに? 傍にあった紙を広げ、記されている文字を読む。
「飲めば 仲間は 助かる」
 ――意味が、わからない。
 訳が分からなくて、振り返ったり、上を見上げてみたりした。ねえ、そこに居る人、見てるんでしょう? 僕が悩むところを見て楽しい? 視線の重さは変わらない。僕はひとつひとつ考えてみることにした。
 ひとつめ。飲めば。今あるのは、飲む選択肢と、飲まない選択肢が両方あるということだ。僕は飲まないを選択することも出来る。
 ふたつめ。仲間。これは正直、あやふやだ。咄嗟に思いつくのは、Legendersの二人だ。あの二人も今、同じ目にあっているのだろうか? それともどこかに監禁されたりしている? 連絡を取る術はない。また、仲間という表現は、315プロダクションのアイドル、プロデューサー、事務員、社長たちのことも指せる。まさか全員が一箇所に集められて、爆弾を前に置かれているなんてことはないだろう。そうだった場合、何故僕だけがここにいるのかわからない。
 みっつめ。助かる。助かるというのは、どの状態のことを言うのだろう。例えば今、身動きがとれない状態にあるのならば、そこから解放されることを示す。例えば今、命の危機に晒されているのならば、その危機が解除されることを示す。
 また、助かるの反対は、助からないだ。助からない、すなわち、命を落とすということならば、これはとんでもない事態なのではないか。僕はぞわぞわと、自分の置かれている現状を理解しだす。
 頼むからバラエティー番組の企画であってくれ。でもそれならば、どこかから声や機材の音が聞こえたり、カメラの赤いランプが見えたりするものだ。また辺りをきょろきょろ見回す。どんどん身体が重くなる。
 不安というものは、ひとつ抱えるとどんどん膨らんでいく性質を持っている。もし今、自分がこの瓶の中身を飲まなかったら。仲間たちの命が、危険に晒されていたら。飲まないを選択して、一生の後悔をすることになったら。この部屋から生涯出られないとしたら。
「ねえ。どこかから見てるんでしょー? 悪ふざけも大概にしてよー?」
「この状況で、僕が飲むか飲まないか、スタジオで賭けてるんでしょー?」
 虚空に向かって声を飛ばしても、反響すらせずに吸い込まれていく。心臓が早鐘を打ち、脈が速まってきた。簡単な話だ。飲めばいいのだ。飲めば、大切な人々は助かるのだ。
 違う。そんな簡単な話じゃない。――瓶の中身が、わからない。
 謎の観測者が、「ただ飲めばいいだけのもの」を用意して、喜ぶわけがない。確信があった。僕が葛藤する様子を楽しむためのもの――瓶の中身は、おそらく、毒だ。
 ぺろ、と舐めて確認することも叶わない。それで死んでしまったら、「飲めば助かる」が実行できない。仲間を助けるならば、僕はこの小瓶を口に向かって一気に傾けねばならないのだ。わかっている。わかっている。
「~~~~~あぁッ」
 ダン、と机を拳で叩いた。ここで僕が死んでしまっても、仲間が本当に助かるのか、この目で見ることは出来ないのだ。じゃあ、僕は何のために死ぬのか? それとも、苦しむだけで、死ねないのか? 自分がどうなってしまうのかわからないものに命をかけて、何が残るというのだ?
 両親、兄さん。悲しむかな。プロデューサー、雨彦さん、クリスさん。僕のことを、愛してくれるかな。事務所のみんな。僕との思い出を、忘れないでいてくれるかな。
 部屋の圧迫感は増していく。身体が鉛のように重い。息が苦しい。頭が痛い。ねえ、僕が死んだら、誰かが助かるの?
 そんなの、最初から、選択肢はひとつじゃん。
 震える手で、小瓶をとった。僕の手の中にすっぽりと納まるそれは少し重たくて、これが僕の命の重さか、と思った。
 僕は、誰かの生きる理由になれたのかな。 この行為が、誰かの命を救えるのかな。涙が一滴、頬を伝った。なあ、面白いか、観測者! せいぜい笑って見てるがいいよ。僕の覚悟を舐めるなよ。
「――ばいばい」
 小瓶をぐいっと傾けた。噎せ返るような花の香りが、僕の全身を包み、溶かした。

 プツン。そこでこの映像は途絶えている。祝福しよう、お前たちは解放された。
 彼の勇敢なる選択に拍手を。
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